後始末の日

 浦田智也は、目の前の光景にしばし唖然となっていた。


「こ、これ誰なの?」


 ややあって、どうにか冷静さを取り戻した智也。恐る恐る、ペドロに尋ねてみる。宮崎と安原もまた、顔をゆがめて目の前にいる者を凝視していた。




 彼ら三人がいるのは、廃墟と化した建物である。

 かつては、それなりに人気の旅館だったらしい。だが、押し寄せる不景気の波に対抗できずに潰れてしまったのだ。

 それから、かなりの年月が過ぎたが、取り壊す計画は立たないままである。旅館は廃墟と化したまま放っておかれ、今では野良猫やホームレスの住みかとなっていた。

 そんな場所に、智也たちは来ていた。ペドロの一言がきっかけである。


「すみません、帰りに軽くトレーニングして行きませんか?」


 そう言った彼に、付いて来たのだ。

 もっとも彼らとて、昨日の東邦工業の生徒から受けた仕打ちは忘れていない。特に宮崎は、一日経った今日になってもブツブツいい続けていた。


「あいつら、ぶっ殺してやりてえよ」


 だからこそ、三人……いや宮崎と安原の二人は、ペドロの申し出を承諾したのだ。ペドロの言うトレーニングがどんなものかは知らない。だが、彼の超人的な強さは理解している。言う通りにすれば、奴らに復讐できるはず……宮崎と安原は、そう信じていた。

 一方、智也を動かしていたのは好奇心である。ペドロは何をするんだろう、という思いが、智也を付いて行かせたのだ。




 そんな彼らの目の前には、ホームレスとおぼしき中年男がいる。顔は汚れ、髪はベタついていた。着ている服は、恐らく洗ったことなどないのであろう。様々な種類の汚れがこびりついていた。

 それだけでも、充分に普通ではないのだが……さらに異様なのは、そのホームレスは両手両足を縛られ、床に転がされていることだ。目には目隠しをされ、口にはタオルで猿ぐつわをされている。話し合いの結果、ここに来てもらったとは思えない。

 しかも、辺り一面には異臭が漂っている。男の体から発している匂いなのか、あるいは建物に染み付いた匂いなのか、その判断は難しかった。


「彼は、いわゆるホームレスですよ。不良たちに比べれば、世の中に害毒を垂れ流したりはしません。代わりに、有益なことも何ひとつしない人種です。そこで今回、我々に協力してもらうこととなりました」


 そう言ったのは、ペドロである。彼は落ち着きはらっていた。まるで、これが日常生活の一部であるかのようだ。


「きょ、協力って、どういうこと?」


 智也の問いに、ペドロはニッコリと笑った。


「皆さんは、今からここで喧嘩の練習をします。練習相手は、こちらのホームレス氏です」


「け、喧嘩の練習!?」


 声を震わせながら聞いてきた安原に、ペドロは頷いた。


「はい。今から皆さんには、喧嘩をしてもらいます。三人がかりで構いません。彼を戦闘不能にしてください」


「えっ……」


 智也は、思わず顔を引きつらせた。宮崎と安原も、顔を見合わせている。

 その時、ペドロの表情が険しくなった。


「僕は言ったはずですよ。あなた方に協力する、と。闘いに勝つために最も重要なのは、いかにして自身のリミッターを外すかです。僕の見たところ、皆さんには経験が足りない。手っ取り早く経験を積ませるには、この方法しかないんです」


 そう言うと、ペドロはホームレスの縄をほどき始めた。


「ちょ、ちょっと待ってよ! いきなりそんなの無理だよ!」


 智也が叫ぶ。それも当然だろう。こんな得体の知れない場所で、見知らぬホームレスと闘えと言うのだから。

 すると、ペドロは目を細めた。


「浦田さん、それはどういうことです?」


「だ、だってさ……こんなの、無茶苦茶だよ」


「無茶苦茶? 皆さんは昨日、本気だと言っていましたよね。僕の指示通りにする、とも言ったはずです。皆さんは、いい加減な気持ちで僕に返事をしたのですか?」


 そう言うと、ペドロは智也を見つめる。その不気味な瞳を前に、たじたじになって目を逸らした。


「皆さんは、確かに言いましたよね……本気だと。ですから僕もトレーニングメニューを考え、わざわざスパーリングパートナーも用意したんです。しかし今になって、それは嫌だというんですか? それは、あまりにもふざけていますね」


 ペドロの顔から、一切の感情が消え失せる。怒りをあらわにしたチンピラなど比較にならない迫力だ。智也の体は、いつの間にか震え出していた。


「あなたたちは、本気だと言ったはずです。だから僕も、本気で準備をしました。なのに、今さら嫌だと言うのですか?」


 静かな口調で、なおも皆に迫る。智也はどうしていいのか分からず、他の二人を見た。

 安原は真っ青な顔で、震えながらうつむいている。一方、宮崎は今にも泣き出しそうだ。大きな体を震わせながら、床に転がっているホームレスを凝視している。

 その二人を見た時、智也はとんでもない状況に陥ってしまったのを理解した。今、ペドロに逆らえる者は誰もいない。廃墟という閉ざされた空間が、彼の支配力をより高めてしまっている。

 こうなれば、ペドロの言うことに従うしかないのだろうか……。


 そんな中、ペドロは再びしゃがみこんだ。ホームレスの手足を縛っている縄をほどき、目隠しと猿ぐつわを外す。

 すると、ホームレスは叫んだ。


「う、うわわあぁ!」


 奇怪な叫び声を上げ、立ち上がると同時にキョロキョロ辺りを見回した。

 その時、ペドロが声を発する。


「皆さん、早くしてくださいよ。もし彼を逃がしたら、皆さんには相応の罰を受けてもらいます」


 すると、真っ先に反応したのは宮崎であった。


「ざ、ざけんなぁ!」


 吠えると同時に、宮崎はホームレスに突進した。両手で突き飛ばす。

 ホームレスは、宮崎の巨体を前にどうすることも出来なかった。その痩せこけた体は、呆気なく地面に倒れる。

 倒れたホームレスを見て、宮崎はさらに猛り狂った。凄まじい勢いで、ホームレスの体を蹴りまくる。その表情は、狂気に満ちていた……。

 そんな光景を目の当たりにし、智也は唖然となる。その時、さらなる恐ろしい事態が起きた。

 突然、金切り声が聞こえた。次の瞬間、安原が動く。智也の横をすり抜け、ホームレスへと向かって行った。

 おとなしく、温厚な性格の持ち主であったはずの安原。しかし、今では彼も暴行に加わったのだ。悲鳴にも似た声を上げながら、宮崎と一緒になってホームレスを蹴りまくっている。


 そんな光景を、智也は呆然と見つめていた。

 宮崎が動くのは、まだ理解できた。この男には、もともと暴力的な傾向がある。しかも小心者だ。今の状況では、真っ先に動くことは想像できる。

 しかし、まさか安原まで動くとは思わなかった……。

 智也は、ホームレスを蹴りまくっている安原の顔を見た。その目には、奇妙な光が宿っている。

 こんな状況にもかかわらず、智也は目の前の光景を冷静に分析していたのだ。これもまた、普通の人間では考えられないことであろう。

 そう、彼は観察者のように目の前の光景を見つめていた。そして、安原を動かしているものの正体に気づく。


 恐怖、だ。


 安原を突き動かしているもの、それは恐怖であった。目の前で暴力を振るう宮崎は、完全に普通ではない。さらに、ペドロは言っていたのだ。相応の罰を受けてもらう、と。

 このままでは、自分がやられる側になってしまう。次に被害者となるのは、自分かもしれない。ならば、やられる前にやる。目の前の暴力に対する恐怖が、温厚な安原を過激な行動へと駆り立てているのだ。

 唖然とした表情のまま、智也はペドロへと視線を移す。だが、その瞬間に心臓が飛びだしそうになった。

 ペドロは、宮崎や安原のことなど見ていなかった。彼が見つめていたものは、智也だったのだ。一切の感情が消え失せた顔で、智也を真っ直ぐ見ている。

 恐怖の感情が、智也の心を覆っていく。部屋の中央では、宮崎と安原がホームレスを蹴り続けている。二人は、何かに取り憑かれたかのような表情を浮かべていた。それは、無視することの出来ない異様な風景である。

 にもかかわらず、ペドロはその光景を完全に無視している。彼は、智也のことだけを見つめていた。まるで、心の中を見透かしているかのように。

 そして智也もまた、ペドロから目が離せずにいた。




 しばらくして、宮崎の動きが止まった。荒い息を吐きながら、その場にへたりこむ。その姿を見た安原も、糸が切れたかのように地面に座り込んだ。

 それは当然である。もともと二人はスポーツをやっていたわけではないし、人を殴った経験もないのだ。そんな彼らが、全力で人を蹴り続けていれば……たちまち息は上がってしまう。むしろ、今まで蹴り続けていられたことを誉めるべきだろう。

 その時、ペドロが口を開いた。


「おやおや、彼は死んでしまったようですね」


 その言葉を聞き、智也は慌ててホームレスに視線を移す。

 ホームレスは、無言のまま倒れていた。先ほどは、蹴りが当たる度に呻き声を上げていたのに、今では身動きひとつしていない。これは、どういうことだろうか。


「ま、まさか……死んだの!?」


 安原は、慌てて立ち上がる。恐る恐るホームレスに近づいて行った。

 だが、ホームレスは動かない。その口からは、血が流れている。


「口から血が流れていますね。恐らく、あなた方の蹴りが内臓を傷つけたのでしょう。結果、ショック症状を起こして死んだのでしょうね。よくある話です」


 ペドロは、こともなげに語る。その言葉を聞いた安原は、ガタガタ震えだした。宮崎もまた、驚愕の表情を浮かべている。


「う、嘘だろ」


 ややあって、宮崎は絞り出すような声を出した。どうにか立ち上がり、ふらつく体でホームレスに近づいて行く。


「おい、起きろよ! 寝たふりしてんじゃねえ! でないと本当に殺すぞ!」


 喚きながら、宮崎はホームレスを揺さぶった。だが、ホームレスは動かない。しかも、その口からは、さらに血が流れて来ているのだ。


「宮崎さん、無駄ですよ。彼は死んでしまいました。あなた方は、ちょっとやり過ぎてしまいましたね」


 ペドロは、冷ややかな口調で語る。それを聞いたとたんに、宮崎は憤怒の表情を浮かべて彼に近づく。


「ざけんじゃねえぞ! お前がやれって言ったからやったんだよ! そしたら死んじまったんじゃねえか! 全部お前のせいだぞ!」


 ペドロに向かい、宮崎は喚きちらす。暴力を振るったことによる興奮と、人を殺してしまったという事実が、彼の正常な判断力を奪っていた。宮崎は恐ろしい形相で、ペドロに迫っていく──

 すると、ペドロが動いた。その手が、宮崎の喉を掴む。

 直後、宮崎の体が一回転したのだ。まるでバク転でもしたかのように綺麗に一回転した後、その体は床に叩きつけられていた。


「宮崎さん、落ち着いてくださいよ。喚きちらしたところで、死んでしまったものは帰りません。それよりも、この状況をどうするかです」


 宮崎を仰向けの体勢にしたまま、ペドロは冷静な口調で言った。


「じゃ、じゃあ、どうするの!?」


 青い顔で尋ねたのは安原である。彼の体は震え、今にも倒れてしまいそうだ。

 すると、ペドロは顔を上げた。


「僕の言う通りにすれば、何の問題もありません。あなた方は、いつも通りに生活すればいいんです」


 そう言うと、ペドロは仰向けになっている宮崎に視線を移した。


「宮崎さんもです。今回の後始末は、僕に任せてください。事件にならないよう処理します」


「しょ、処理?」


 恐る恐る聞き返す宮崎に、ペドロは笑みを浮かべてみせた。


「いいですか、浜川高校近くの河原で起きた殺人事件が、なぜ明るみに出たかわかりますか? それは死体が残っていたからです。死体さえ無ければ、ただの行方不明なんですよ。死体を消し去ることさえ出来ればいいんです」


「け、消し去るって……」


 呆然とした表情で、安原は聞き返してきた。それに対し、ペドロは自信に満ちた表情で答える。


「文字通り、消し去るんですよ。死体をバラバラに切り刻み、細かくして燃やす。一日がかりの作業になります。さすがに、僕ひとりではキツいですね。ですから、手伝ってくれる人が必要です」


 そう言った後、ペドロはゆっくりと智也の方を向いた。


「浦田さん、申し訳ないですが手伝ってください」


「えっ!? ぼ、僕がかい!?」


 顔を歪めながら、智也は叫んだ。この件に関し、自分は何もしていないのだ。むしろ後始末をしなくてはならないのは、宮崎や安原の方であろう。

 しかし今の状況では、そんなまともな理屈が通用しなかった。


「僕はね、あなたたちが本気だと言ったから、彼を用意したんですよ」


 言いながら、ペドロはホームレスの死体を指差す。死体の表情は、醜く歪んだままだ。智也は正視に耐えられず、慌てて目を逸らした。


「宮崎さんと安原さんは、僕の気持ちに本気で応えてくれました。結果的にこうなったにせよ、そのやる気は評価できます。ところが、あなたは何もしませんでした」


 ペドロの言葉を聞き、宮崎と安原の表情も変化した。彼らは凶暴な光を目に宿し、智也をじっと見つめている。


「浦田さん、僕はね……彼を連れて来るために、それなりに面倒な思いをしたんですよ。ですから、あなたにもその苦労を味わっていただきたいですね」


「ちょ、ちょっと待ってよ! 何で──」


 智也は言いかけたが、途中で言葉を飲み込んだ。宮崎と安原が、異様な目付きで智也を見ているのだ。

 今、この場を支配しているのは理屈ではない。ペドロの意思だ。彼に逆らえば、次は自分が宮崎と安原に殺される。

 その時、智也の心を読んだかのように、ペドロが笑顔で喋り出した。


「では、宮崎さんと安原さんは帰ってください。ただし、余計なことは一切口にしないでくださいよ。さもないと、死んだ方がマシに思えるような体験をすることになりますので」


 そう言った後、ペドロは智也の方を向いた。


「では浦田さん、作業にかかりますか」






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