青い恋の終わり

青い恋の終わり

結婚式の前の日に、ぽっかりと時間が空いた。準備はほとんどが終わってしまって、僕は何をするでもなく、ぶらぶらと商店街を歩く。結婚前日に結婚相手と一緒にいないということが普通なのかどうかは僕にはわからないけれど、少なくとも結婚相手はそれを許してくれた。

商店街には馴染みの店がいくつかある。そのうちの古本屋に僕は足を向ける。数年前までは週に一回は必ず通っていた店で、ドアを開けると前と変わらない古本の匂いが飛び出してくる。

店内をぐるりと見渡してみると、一冊の本がひっそりと佇んでいるのが目に止まった。思わず僕はそれを手にとる。それはかの有名な『走れメロス』を題材にして書かれた小説で、数年前僕がまだ大学生だった頃の思い出の品だったからだ。ボロボロになったカバーの端っこがその懐かしさを漂わせていて、僕は思わずその本をレジに通したのだった。


初めに述べておくと、この話は何の変哲もなければ成就もしない、すでに終わった恋の話だ。

そしてその先もない、ただ思い出のためだけに綴られる独白のようなものだ。けれどそれは確かに存在した、彼女への恋心を宝箱にしまい込むための物語でもある。


全く浅はかな考えだとは思うけれど、当時の僕にとって本の貸し借りというのはコミュニケーションツールの一つだった。彼女とは月に一度程度に本の貸し借りをし、そのついでに何処かで食事をする、そのような仲だった。彼女はいつもお洒落な店に僕を連れていき、聞いたこともない名前のパスタを注文する。大蒜が好きなの、と恥ずかしそうに言って、一般的に女子力というものが絶対に推奨しないようなものを彼女は上品に口にする。その一つ一つの動作からは洗練された気品が漂っていた。

僕と同じ年のはずの彼女は、僕よりもずっと大人だった。僕は写真から美味しそうだと判断した複雑な名前のパスタを頼み、彼女の向かいで精一杯彼女の上品さに釣り合うように気を付けながらそれを口に入れる。それでね、と彼女は話を続ける。この本はぜひ読んでほしいの。おすすめだから。

そうして手渡された本は、やはりある作家のものだった。ちょうどその作家の作品がアニメーションになったものを見ていたこともあって、その流れで彼女に話題を振った結果、それが綺麗にストライクを放り込んだみたいに彼女は話し出したのだった。うん、そうそう、と彼女の熱意と笑顔に圧倒されながら、僕はその本を受け取った。


結論から言って、彼女から渡された本であったということを抜きにして、すごく面白かった。それは今僕がこの事を思い出しているほどに心に残る物語だった。笑いと、涙と、眉根を寄せて考える物語が宝石みたいに転がっていた。いつもそうだった。彼女が選んだ本は幻想的で、しかしリアリティのある、確かな輝きを持った宝石みたいな物語ばかりだった。僕もそのお返しにと本を選んだけれど、どれも彼女の宝石には敵わないようなものばかりだった。

なんとも単純な話だけれど、彼女への憧憬は、じきに好意へと変わっていった。


叶うはずのない恋だった、と今の僕なら言うだろう。きっと彼女は今頃バリバリのキャリアウーマンとして大企業の秘書でもやっていることだろう。もしかしたら僕のように生涯の伴侶を見つけているかもしれない。少なくともそれは僕ではなかったし、僕ではありえなかったというだけの話だ。

僕がしたのは彼女と食事をすることと、本を貸し借りしたことだけだった。それだけで僕は彼女に好意を持ってしまったし、今からすればなんとも初な話だった。結果がわかっていたとしても、いてもたってもいられなくなった僕は彼女にその想いをぶつけ、そして見事に玉砕した。あっさりとしたものだった。だから、その本は彼女から借りた最後の本になったのだ。


その本の表題になっている物語の主人公は、詭弁論部というものに入っていて、詭弁を弄して誠実とは真逆の道を痛快に逃げ続けるメロスだった。痛快でも爽快でもなかったが、思えばかつての僕もそうだったのだ。彼女に伝えた想いが砕け散ってから、結局彼女とは色々と理由をつけて会えなくなっていったし、連絡も取らなくなった。所詮あの人は僕を理解してはくれない相手だったのだと、諦めの言葉を吐いては自分を弄してきたのだ。


そして僕はまた、この本に出会った。


わたしね、と彼女は言った。もう誰かと恋をする気はないの。結婚だってまだ考えられないし、きっと、あなたが求めているものには応えられない。


僕は彼女が望むなら何だってあげるつもりだったし、きっと他の男性よりかはずっと彼女の気持ちをわかってあげられると思っていた。僕は彼女に何も求めるつもりもなかったし、そのように言ったのだ。彼女は首を振る。きっとあなたの想いは本当だと思う、でも、あなたとは友だちでいたいの。ごめんなさい。



あれから数年が経った。彼女とは別の人が今僕の隣にいて、きっと彼女にもいるのかもしれない。僕はその本をめくる。そこには詭弁を弄して走り回るメロスの他にも、様々な人が描かれている。自分の恋人とその元恋人との恋愛をテーマにした映画の脚本を書き、その外側でカメラを回し続ける男の話が僕の目に止まる。あの日僕はこの物語を理解できずにいた。彼女の美しさを見る為に元恋人と恋愛の演技をさせるだなんて、考えただけでもゾッとすると思っていた。けれど、きっと今ならわかる気がする。そのことを彼女は見抜いていたのだ。僕は、きっと彼にはなれないのだ。彼女を手放すことが出来なくなることを、僕自身よりも僕のことをわかっていたのだ。だから、きっとそれに応えなければならない時が来るのだと彼女は分かっていたのだ。


結婚は墓場だと思う? とある日の彼女は僕に聞く。私達はいつかきっと素敵な男性を見つけて、その人に一生を捧げて生きていくのよ。もちろん相手だってそうかもしれないけれど、でも、そうなったとき、私達は、この"わたし"が、この世界に生きる唯一の命で、唯一の意識であることを忘れてしまわないか、怖くてたまらないの。共に生きるということは、何かに支配されるということなのよ。それが限りなく僅かなものであっても、墓場に繋がれた鳥はその暗闇を振り切れなくなってしまうように。

彼女は細く綺麗な指を優雅に動かしてフォークを回した。パスタの麺がするすると巻き取られていって、ついには端が振り回されるだけになる。

あるいは魂の墓場かもしれない、と何も答えない僕に向かって彼女は続けた。私はその魂を失いたくはないし、きっとあなたはそれを尊重してくれると思うわ。でも、"いつか"は。あなたも、わたしも、それを捨てなければならなくなる。だから私は、あなたと友達でいたいの。


結局、今の僕は魂の墓場に繋がれる覚悟をしたのだ。彼女を好きでいた時の僕ではなく、一人の女性として、妻として、彼女の言う"わたし"を捨てることにしたのだった。それでも性懲りもなく僕を僕と言い続けている僕は、彼女を好きでいることをやめられないでいたのだ。

彼と私の前にその本は静かに佇んでいる。彼女と僕との前に置かれていたあの時と同じように。すべてを聞き終えた彼はその本を手に取った。俺もこの本は読んだことがあるよ、と彼は言う。君にとってこの本は俺が知っているもの以上に、きっと大切な本なんだろうと思う。だから、君にそれを捨てろとは言わない。そして君はきっとこれからの結婚生活を墓場のように思うだろう。

でも、と彼は言った。でも、──墓場にだって花は咲くと、俺は信じてる。


ありがとう、と僕は言う。電話帳のメモリーから数年間使っていない彼女のデータを掘り起こす。もしかしたらとっくに彼女はこの想いを清算してしまっていて、繋がらないかもしれない。けれど、一言だけでも伝えたかった。大切な、あの時には伝えられなかった彼女の返答への答えを。


そしてわたしは、彼女に電話をかける。

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