御厨令華の道しるべ

あきひこ

序章 きっかけ

 冬の寒さは和らいできたようで、パーカー一枚でも少し汗ばむ。

 夜になれば気温も下がるだろうと厚手を選んだけれど、薄手の方でもよかったかもしれない。

 工房を出てから駅までは商店街を通るため、22時を過ぎていても人通りはそこそこ多い。


 帰宅中のサラリーマン、少し足元がおぼつかない。

 塾帰りの学生、歩きながら電話してる、相手はお母さんかな?

 カーディガンを羽織った女性、ロングヘアーがきれい。


 店先でシャッターを下ろす音も、ちらほら聞こえる。

 みな、日中の予定を終え、家路につく。あの人たちの生活が充実しているのか、無理をしているのかなんて私にはわからない。でも、やることをやり、日々を過ごし、なにかしら社会に貢献しているのだと思う。


「はぁ……」


 自分も1年前までは、あの中の1人だった。

 中堅文具メーカーに就職し、事務に勤しむ毎日。振られた仕事量は多かったが、1つ1つのことを乗り越えていくことに楽しみを感じていた。同僚も上司も朗らかな人が多く、怒号が飛び交うことはほとんどない。職場は地元で実家から近く、給料もそこそこ。


「うまくやったね。令賀」

「まあね。ストレス少ないし、上々」


 学生時代の友人の言葉に、当時は自慢気に返した気もする。


 しかし、就職して半年経ったころ、私は会社に行けなくなった。原因は今考えても正直いって、はっきりしない。

 ある日、午前中から資料作成に追われ、取引先へ約束の時間にメールを送るのを忘れてしまった。次の日、取引先から電話があり、私のミスが発覚。上司に呼び出されて私は、冷や汗をかきながら謝った。上司は激怒……しなかった。


「いやー御厨さん、僕も確認しておくべきだったね。ごめんな。相手の担当者も今日中に送ってくれればいいって言ってるから、手が空いたときに頼むね」


 と、笑いながら言われただけだった。上司も取引先も怒っていない。今日送れば問題ない。私は重大なミスをしたわけではない。


 でも、私はミスをした……


 私は、仕事に行けなくなった。


 退職の手続きは、母にやってもらった。申し訳なく吐きそうになったけれど、動くことができずに、すべて任せ、家のなかでじっとしていた。


 退職が決まった日。私は実家から出ることにした。

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