第142話 愛してる
硬い金属音が鳴り響く。
鋼鉄同士がぶつかるような音だが、一方は武器を持たず素手のまま。
妖喰らいとなった茜の肉体は、もはや人と呼べるものではなくなっていた。
悠聖も将竜も、共に息が上がっている。
彼女を殺すことが目的でない以上、本気で戦うこともできない。しかし、だからと言って手加減したままの状態で止められる相手でも無い。
「“
将竜が刀印を結んだ。受けた痛みを相手にも与える霊術である。
今しがた腕に受けた茜の一撃を、彼女に返す。
だが、茜はそれを意に介することもなく向かってきた。骨が折れる程の衝撃だったが、今の彼女は痛覚も鈍くなっているらしい。
将竜ですら劣勢に陥る中、悠聖に関してはまるで戦いについていけていない。
霊術は効かず、かと言って彼は体術に優れる訳でもない。これ以上戦っても光明は見えそうに無い。
「お腹、空いた……」
先程から茜はずっと空腹を訴えている。
婚約者となる彼女が持つ性質について調べ尽くした将竜には、それの原因が分かっていた。
妖喰らいとなったものは、その直後は激しい空腹感と捕食欲求に襲われる。周りにいる生物をとにかく喰らい尽くすのだ。
動物も、妖怪も、人も。
つまり彼女は今、彼らを捕食しようとしている。
その欲求を抑える手段は1つ。
満腹にすること。
満腹とは単に肉の量のことではない。彼女が今欲しているのは霊力と妖力だ。
たらふくそれを食わせてやれば、いずれ正気に戻るだろう。
――くそっ! こんな時に限って妖怪が居ない!
将竜は戦いながらも周囲を見渡し、茜に食わせる妖怪を探していた。
しかし、強大な力に恐れをなして逃げたのか、妖力の残滓すら感じない。
「……タッちゃん」
茜の掌底を避けた悠聖が語りかけた。
額には汗が滲んでいる。
「僕を、茜ちゃんに食べさせよう」
「っ!? 何言って……! 」
またも茜の攻撃をかわす。逃げることに徹していればさほど難しいことでも無い。
だが、それだけでは彼女を救うことは出来ない。
「ほら、僕って肉いっぱいあるし」
「冗談言ってる場合か! 」
出た腹をつまみながら彼は微笑みを浮かべる。既に茜は2体の妖怪を捕食している。あと1人くらいの霊術使を喰らえば、正気に戻れるだろう。
悠聖が犠牲になれば、茜は救われる。しかし、それを良しとするほど、将竜は非情にはなれない。
「結婚するんだろ!? だったら僕くらい生贄に捧げてお嫁さんを守れよ! 」
「出来るわけないだろ! そんなこと! 」
「このまま彼女を放っておけば、いずれ他の討魔官が犠牲になる! 誰かがやらなくちゃ! 」
強く歯を噛み締める。
このままでは茜は食糧を求めて人里に降りるだろう。霊力を食べるまで人を喰らい続ける。その後の彼女のことを思えば、絶対に阻止しなければならない。
誰も食われないということは、彼女を止める術は2つだけ。殺すこと。将竜であれば簡単に出来るだろう。
だが、彼の腕は震えていた。将来を誓い合った女に手を上げることができない。実際、彼は攻撃を防ぐばかりで1度も反撃していない。
もう1つ、彼には選択肢があった。
恐怖。それがその選択を選ぶことを躊躇させる。
今この瞬間にも、彼らの霊力を喰らおうと茜が手を伸ばしている。遠くに飛び退きながら、悠聖が囁く。
「いいかい。僕はあの妖怪に食われたって説明するんだ……、聞いてるのかい? 」
――死にたく、無いなぁ。
将竜はそう思っていた。率直に、素直に死にたくない。
彼女の隣で明日も笑っていたい。一緒に結婚式を挙げて、休暇を取って新婚旅行でハワイ辺りに行って、浜辺で優雅に手を繋ぐ。
子供も3人くらい作って、毎日騒がしく、それでいて充実した日常。
子の成長を見守って、孫の顔を見て、最期どちらかが死ぬ時は、片割れが手を握って見守る。
そんな将来を彼は夢想していた。
昔はこんなことは思わなかった。少なくとも、彼女に恋心を抱く以前は、討魔官として国のために死ぬことは当然だと思っていた。
弱くなってしまった。彼は自身をそう苦笑する。
――死にたくない。けど、君を助けるのは俺でありたい。
ヒロインを助けるヒーローみたいに、彼女を守りたい。
この役目は、例え親友であろうとも譲りたくはなかった。
ぽん、と悠聖の肩に手を置いた。
「お前、茜のこと好きだろ? 」
「こ、こんな時に何を言って……」
「任せるよ。彼女のこと」
悠聖は言葉の意味を呑み込めなかった。
1拍間を置いて、ようやく言葉の意図を理解する。
「ダメだ! 君が死んだら茜ちゃんは……! 」
「だから、頼んでるんだ。あの子はきっと、悲しむから、お前がその穴を埋めてやってくれ」
将竜は1歩前へ踏み出した。
雨が降り出す。もう夜だ。
「よ、よせ! 僕でいいだろ! その役目は! 」
「ダメだ。これは、俺だけのもんだ」
走り出そうとする悠聖の足が、影に縫い付けられたように止まる。将竜の刀が、彼の影を刺していた。
茜の腕が彼に伸びる。細く白い腕が、肩を掴んだ。
彼は振り返って悠聖に微笑んだ後、愛おしそうに茜の頬に手を当てた。
「茜、愛してる」
将竜の首元から、赤いものが噴き上がった。
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