第112話 最愛
烏楽市に設置された簡易病院の中に、ピッピッ、と心電図の音が響いている。
神室康二はベッドの上に寝かせられ、意識が曖昧な状態で治療を受けている。
だがもう長くは無い。このまま待っていれば、いずれ死ぬだろう。
彼はモヤがかかった頭の中で、時雨のことを気にかけていた。
彼女に渡した手紙を読んで欲しい。ここにいない彼女に、届かぬ願いを捧げながら再び眠りについた。
***
あの人には会えない。その資格は無い。
時雨は自らが愛する者に突きつけた言葉が忘れられず、それに囚われていた。
ろくに星も出ていない夜空の下、崩壊を免れたビルの屋上から街を見下ろす。
思えば、人里まで降りてきたことは無かった。
「母上」
背後から声をかける男の天狗。彼女の息子である澄晴だ。
人と妖怪のハーフだが、天狗の血が色濃く残ったため、外見的には普通の妖怪と変わらない。
「父上が……」
「分かっています。もう長くは無いのでしょう」
あの時、ちらりと彼の顔を見た時雨には、その命の灯火が弱々しくなっていることが、手に取るように分かった。
それでも彼女は康二に会おうとはしない。
「私に、あの人に会う資格はありません。康二様も望んではいないでしょう」
「……ならばせめて、手紙だけでも」
澄晴は懐から手紙を2つ取り出して、時雨に手渡す。
事前に莉子達から受け取っていたものだった。
仕方がないと言った様子で彼女はその白く綺麗な紙を開く。
1枚目には、彼女達は決して悪い人間では無いから、亡雫を渡してやって欲しいということが書いてあった。
亡雫は霧雨に持ち出されたきり、どこにあるか分からない。今となっては、この願いを遂行することもできない。
落胆した気持ちでもう一つの手紙を開く。
拝啓 時雨様
私達が別れてから、もう80年程になりますか。今でもあの日々の光景は夢にみます。
私はすっかり爺になってしまい、もうこの姿ではあなたの気を引くこともできないでしょう。あなたは、昔と同じ、美しい姿のままなのでしょうね。
私には、時雨様の心中を推し量ることは出来ません。ただ、あなたが何か重大なものを背負っていることは理解できます。
私はあなたの行動を否定しません。きっと必要なことだったのでしょう。
私はあなたのことを責めません。もちろん恨んでもいません。今でも愛していますから。
だからどうか、気に病まないように。
ここからは、私の我儘です。
あなたと別れてからというもの、私は次なる人生を歩もうと努力しました。しかし無理でした。
あなたほど心惹かれる女性には会えなかったのです。この心の内には、今もあなたへの未練が絶えず残っています。
私はもうすぐ死にます。願わくば、最期は他の誰でもない、時雨様、あなたに看取って欲しい。それが私の最後の願いです。
愛しています。 敬具
神室康二より
時雨は夜の空へと駆け出した。
***
呼吸が浅くなっていく。康二は自分が着実にしに近づいていることを実感した。
暗い闇がすぐそこまで迫っていて、もう逃げられそうに無い。
せめてもう1度会いたかった。彼がそう思った時、黒い羽根が1つ、彼の顔の前に落ちた。
「時雨……様……」
長い一生の中で彼が唯一愛した女がそこに立っていた。
涙を目に浮かべながら。
「康二様、申し訳ありません。最後になって、こんな……」
時雨は彼の手を握りながら、苦しそうに言った。
僅かに震える手を康二は握り返す。
「あぁ、やはり変わっていませんね。あなたは、美しいままだ」
頬を撫でてやりたいがもはや腕も動かない。
それを察したのか、時雨は彼の手を自分の頬にまで持ってきて、頬ずりをした。
交わしたい言葉は山のようにある。だがもう時間が無い。
だから、1番言いたい言葉を探して言った。
「康二様、あなたがどんな姿になっても、どれほど肉体が衰えようと、私はあなたを……」
時雨の顔が康二に近づく。
近くに、もっと近くに。この言葉を彼が絶対に聞き漏らさないように。
「愛しています」
ようやく顔を出した月明かりの下、康二と時雨の影が重なった。
***
翌朝、高道は父の様子を見ようと病室を訪れた。
そこには、穏やかな笑顔で息絶えていた康二の姿があった。
使用人達のすすり泣く声が聞こえる。
「まさかこんな最後になるなんて……、心置き無く逝けるよう、盛大に葬りましょう」
神室家に長く仕えている老婆が涙ながらに語る。
こんな大事件に巻き込まれ、最後は1人。彼女達には、康二の死に様はそう見えていた。
「いいえ、葬式は身内だけでこっそりとやりましょう」
「し、しかし……」
高道は康二の手元に落ちていた黒い羽根を拾い上げる。
美しい漆黒に染まった羽根だった。
「父のことは、天狗が連れて行ってくれますから」
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