名前のない神話

十 七二

1

 私はルカの背を眺めていた。 見せたいものがあると言われ、付いてきたのだが、特別それらしいものはまだない。ただ、これから何かが始まるという予感だけはあった。少なくとも、ルカは何かを待っている。


「聞いていい? 」


 しばらく手持無沙汰だった私は、なんとなく聞いてみたくなった。


「なんだ?」


 彼は待っていたかのように、それでいて何でもないと言うかのように、振り返ることなく返す。


「なんで私をここに連れてきたの?」


「見せたいものがあるからだ」


「それは知ってる。それがなにかって聞いてるんだけど」


「わかってるよ」


「なら教えてよ」


「じきに始まる」


「始まる?」


「ああ」


「今から?」


「そうだ」


「それまで大人しくしてろって?」


「話すより早いからな」


 思いの外頑ならしい。この様子ではたぶん話してはくれない。諦めて私は視線を夜景へと戻す。


 見慣れた景色だ。違うのは部屋から見ているか、いま立っている広いテラスから眺めているか程度のもの。いちいち感動を覚えるほどのものでもない。


 ただ、やっぱり遠いなとは思う。たった橋一本分程度しかない、この場所とあの街という距離感だとしても。


 一瞬風が強くなる。視界を邪魔する前髪を手で遮りながら、風向きが変わったことを肌で感じていた。


「今から?」


「そうだ」


 その言葉通り、辺りは明らかに異常な変わりようを見せ始める。まるで早回しの映像を見ているかのように。


 空が変わった。


 先ほどまで輝いていた星々は、分厚い雲の向こう側に消えている。夜闇の中でもはっきりとわかる分厚い雲だ。


 そんな雲の隙間から、時折、紫の光が瞬く。遠雷が聞こえ、その音は矢継ぎ早に大きくなる。


「もしかして、ネフ?」


「ああ」


「何かをさせる気なの?」


「まあな」


「それって?」


 答えはない。黙って見ていろということらしい。


 改めて空に目を向ける。すると、何かが頬に当たる感覚を覚えた。指先でなぞってみると水滴だった。それから、ひとつ、ふたつと増えていき、数秒程度で本格的な雨模様へと変わる。


 ルカは雨に打たれても動じてはいない。濡れることを気にしていないようだった。変わらず街を眺め続けている。


 雷の音は先ほどよりも明らかに増している。その音は頭上というより、街の方から聞こえてくる。


 また、嫌な想像をする。言葉にしてはいけない気がした。口にすることで、私が呼び寄せてしまうような気がしたから。でも、すべては遅く、何より私の言葉なんて関係がなかった。


 ひと際激しい光が街の方から放たれた。目を背けざるを得ないほどの激烈な閃光が視界を塞ぐ。


 そして、息つく暇もない轟音。獣の遠吠えが反響するように、周囲の空間すべてを満たす。


 落ちたことなど明白だった。

 予感は否応なく的中した。


 思いだすように呼吸を再開し、生唾を飲み込みながら、意を決して、ゆっくりと目を見開いた。


 眼を覆う閃光の余韻が徐々に消え、事態が明らかになる。いや、というよりある種のすり合わせだ。わかっていることを、そのように受け止めるための。


 光を放つ摩天楼の中心。城から伸びる橋の延長線上にそれは見えている。


 ぼうと燃える光。橙色の絵の具が夜景色のキャンバスへと無残に投げつけられていた。


 大火――そうとしか表現しようのない圧倒的な炎が見える。あまりにも眩しく、街の放つ光が薄らいでいた。


 上へ上へと黒煙が立ち上り、空へと広がる。煙の下部は炎と同じ色に染まり、輪郭が強調されていた。


 その光景に私は釘付けになった。


 視覚以外の全てを忘れたかのようになって、ただ見ていた。もうもうと立ち上る煙と、妖しく揺らぐ炎。ありふれたはずの夜景に現れた異常な光景に息を呑んでいた。


「たっだいまー」


 数秒後だったか、数分後だったか、そんな声を聞いてはっと意識が戻った。

 声のした方を向くと、ネフが戻ってきている。


「ね、どうだった?」


 明らかに高揚した様子で、ルカに話しかけている。


「想像した通りだったよ」


「てことは成功?」


「ああ」


「やったー。結構頑張ったからさー。ほんと、うん、よかった!」


 無邪気に目じりを細め、歯を見せて笑っている。せわしなくポーズを変えては、全身で喜びを表現していた。


 二人の会話だけを聞き取れば、喜びを分かち合っているように聞こえるのだろう。でも、その前後関係を私は知っている。


 だからこそ、思い出したように、二人の間に割って入った。


「あれをやったのはネフなの?」


「……え? ……ああ、うん」


 彼女はなぜか少し驚いた様子だった。


「すごかったでしょ?」


 にっとはにかむ顔は、無邪気そのもの。でも、その所以がちらつき、影を落とす。ただ当たり前に喜ぶ彼女を見て、私はそれ以上何も言うことができなくなった。きっとこれは正しいのだろうから。


「さ、戻るか。濡れたままでいるのは、あまりよくない」


 ルカがゆっくりと前を通り過ぎる。ネフはそれを追い、高揚した様子でルカとの会話を再開した。


 僅かな間をおいて私も後を追う。できるだけ背後のことは気にしないようにと考えて、テラスの水たまりに映る星空を眺めていた。

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