成功している著名人が自殺を選ぶのはなぜだろう?

エテルナ(旧おむすびころりん丸)

成功している著名人が自殺を選ぶのはなぜだろう?

端から見れば成功者である芸能人などの著名人。金も名声も手に入れているというのに、なぜ自死を選んでしまう方がいるのでしょうか?


『その人にはその人の苦しみがある』と言ってしまえばお終いですが、そもそも個人の幸福や苦しみとは何なのか。今回はその点について掘り下げようと思います。


ですがその前に、まず前置きを一つ。

こういったことを分析することは不謹慎と思われる方もいるかと思います。しかし個人的には、『理解できない』だとか『全然意味が分かんない』という言葉が好きではありません。

例えは非常に悪いがですが、仮に大量殺人鬼について――


『頭がおかしい奴など理解したくない』

『こんな非道な奴の気持ちなんて知りたくもない』


などのように思考停止してしまえば、予防策や解決策を見出すことができません。

意味が分からないと頭ごなしに切り捨てるのではなく――共感はしなくていいですが――理解は必要だということです。


ということで、先の例えはホントに悪かったですが、『成功しているのに自死を選ぶなんて分からない』では、いつまで経っても原因究明できませんし、身近にいる人を助けてあげることもできません。


ということで前置きはここまでにして、本題に入ります。


【著名人であるということは成功していて、成功しているからには裕福で、裕福であるからには幸福である。豊かになればなるほど人は幸せで、ゆえに皆が皆、豊かになろうと目指し努力する】


私たちは『豊かであることの喜び』について、万人共通の幸福だと思いがちです。ですが実際には――


【裕福=幸福の式は成り立ちません】


決して成功者や金持ちへの僻みではなく、そこには生物学的な仕組みと、感じ方の相対性が挙げられます。


【①幸福の感じ方】


例えば主演に大抜擢された俳優がいたとします。その成功の度合いは、ちっぽけな一般人の成功より大きな幸せであると思いがちです。


しかし人間の遺伝子には元来、「役者に抜擢した喜び遺伝子」もなければ「仕事で成功した喜び遺伝子」なんて区別はありません。

人類は文明的な進化は遂げたものの、人間の遺伝子そのものは大昔から何の進化もしておらず、現代社会の現象で感じる幸福は、狩猟時代の感性を無理やり当てはめたものに過ぎません。


ゆえに役者に大抜擢された喜びも、WBCで優勝した喜びも、コンピューターゲームをクリアした喜びも、本質的には獲物を狩った喜びだとか、果物を採取した喜びと、なんら変わるところはないのです。

それらの喜びの正体は、報酬として得られるセロトニンなどの多寡により決まっていて、「WBCで優勝して嬉しいホルモン」も無ければ、「ゲームをクリアして幸せ信号」もありません。


役者に抜擢された俳優の脳内に、セロトニンが『10』という単位で分泌されたとします。対してあなたは想い人への告白が成功し、セロトニンが『10』分泌されたのなら、その二つの喜びは生物学的には全く同じなのです。


・映画で主役を務めた。

・ミリオンセラーのヒット曲を出した。

・M-1で優勝した。

・ホームランを打った。


これら有名人ならではの喜びは、およそ一般人には感じ得ない至上のものに思えますが、しかしその度合いの真実は、単に快楽物質の分泌量によって決まるものであり、一般人でも同じ量が発せられれば、成功者と変わらない幸福を感じられるということです。


これでもピンとこない方、今度は一般人を基準に考えてみましょう。

途上国の少女が寄付のぬいぐるみを貰い、満面の笑みを浮かべています。碌に学ぶことのできない少年が、鉛筆とノートを貰いはしゃいでいます。彼らは人形や鉛筆で10の幸せを感じますが、日本の子供は新型のゲーム機で10の喜びを感じます。

ですが途上国の子供たちの幸福は、ゲーム機を貰った日本の子供より、少しも劣っている訳ではないのです。


昔の子供がコマやめんこ、凧をもらって10の喜びを感じていたかもしれないですし、ゲームボーイが最新のゲーム機だった1989年には、それを貰って10の喜びを感じていたかもしれません。


【②不幸の感じ方】


次は不幸について考えてみましょう。


仕事で失敗した悲しみ、失恋した悲しみ、肉親を失う悲しみ。これらも幸福と同様に、他者間で同一のものだと思いがちです。

しかしこれらの体験も、不快と感じる伝達物質の多寡により不幸度が決まるのであり、同じ苦しみを味わえという同害同報復は、実は同じ不幸とは限らないのです。


例えばあなたが一か月、風呂に入れず体を洗えなかったとします。それはそれはとても不快であり、マイナス10不幸だったとしましょう。

しかし狩猟採集時代の人間にとっては、毎日体を洗えないことが当然です。はたまた中・近世でも、現在の途上国のケースでも構いません。

それらの人々にとっては、毎日風呂に入れないことが当たり前であり、一か月風呂に入れなかったとしても、恐らく感じる不幸値はゼロでしょう。


ですが『不潔でも気にしない遺伝子』だとか『清潔でないと我慢できない細胞』なんてものは存在せず、遺伝子的には私たちとなんら変わりはありません。


死別について、マリー・アントワネットの産んだ4人の子女は、内3名が若くして亡くなりました。

また3名の内、ルイ・シャルル以外の2名は、マリー・アントワネットの存命中に亡くなっています。

絵画にも夭逝した子供の名残が見える以上、母のアントワネットが辛かったことは言うまでもありません。

しかし、かの時代は幼くして死ぬ確率が非常に高く、大人になれない子供は当然のように存在しました。生んだ子が次々と夭逝したならば、今の時代なら苦悩から自死を選んでもおかしくはないでしょう。

子が死ぬ不幸値は今と昔では差があります。時代が今でも国や地域によって、医療が進んでいるかどうかで差があります。

しかしマリー・アントワネットが、現代人より『冷徹な遺伝子』を持っていた訳ではありません。

仮に今の時代に生きていたのなら、マリー・アントワネットは鬱になり、自死を選んでもいてもおかしくはないのです。


また、現代に織田信長が生まれたら、放火や斬殺に大きな不快を感じるでしょうし、自死に切腹を選ぶことはありません。

しかしあなたがかの時代に生まれたら、人を斬ることに誇りを感じ、恥に切腹をしたかもしれません。

今の時代にルイ14世が生まれたら、清潔なヴェルサイユ宮殿で、毎日シャワーを浴びているに違いありません。

しかしあなたがかの時代に生まれたら、不潔を良しとし、臭う体臭を臣下に自慢したかもしれません。



①は成功者ゆえの体験による幸福が、我々の感じる幸福と、生物学的に大して差のあるものではないことを示してます。

また、簡素な玩具でも喜べる我々に対して、裕福な成功者は簡素な玩具では足らず、最新のゲームでなくては同程度の幸福を感じれないことも示してます。


②は成功者が失敗し、もし一般人レベルの生活に堕ちてしまったら、我々が一か月も風呂に入れぬ劣悪環境に堕ちることと同レベルで不幸だということを表しています。

大昔や途上国の悪環境を現地の人々は不快と思わないとしても、我々が現状を知った上で陥れば、やはりそれは不快で不幸なのです。

つまりは同様に、我々がまったく不快に思わない現状の日常生活が、成功者にとっては地獄と変わらない劣悪環境で災難になり得るのです。


今は輝くスターでも、いつか支持を失い干されてしまって、一般人に落ちるかもしれない不安は凄まじいにも関わらず、その不安を掻き消す為の娯楽は、我々が幸福を感じる基準より遥かに高く幅が狭いうえ、しかし幾ら金をかけたところで生物学的な幸福値が限界を突破する訳ではありません。

狩猟採集時代から遺伝的に変わりがない以上、およそ巨大マンモスを仕留めた時に得られる程度の幸せが、人間の性能で引き出せる最大限の幸せなのですから。


【つまり成功者は、人より不幸の幅は増す割に、幸福の幅は狭くなる。裕福になるということはそういうことで、決して幸福とイコールではありません】


また成功者がドラッグに嵌まってしまうきっかけも、自然に得られる種類の幸福では満足できなくなり、不幸が勝ってしまう為かもしれません。


我々ならば焼肉を食べ、お酒を飲み、異性を抱いたり、国内旅行に行けば、10の幸福値を得られるかもしれません。

しかし成功者は、A5ランクの和牛を食べ、ロマネ・コンティを嗜み、両手に最上の異性を抱え、グアムやハワイに飛ぼうとも、2~3の幸福値しか得られないかもしれないのです。

どころか大衆焼肉や安酒では、むしろ不幸を感じてしまうほどの裕福さ。

私たちが今さら白米を諦めて、粟や黍だけを口にしなければならないようなものです。


成功者が我々並み、若しくはそれ以上の幸福を得る為には、生物学的に得られる幸福値の限界を超える、麻薬の接種の必要が出てきます。

それを選択しなかった場合、若しくは摂取により更なる不幸に見舞われた場合、取り得る手段はただ一つ。


【つまり、成功者でも自殺に行き着くのです】


我々が自殺しなくても、成功者は自殺し得るのです。

また、我々が自殺しても、風呂も満足いく食事もなく低賃金で働いている人たちが、日々の幸せを見つけて生きるのです。


コロナ最盛期に芸能人の自殺が相次いだ時、私たちはどうしても、彼らは成功していて死ぬ理由などないのだから、誰かに殺されたに違いないと、陰謀論が頭を過ります。

しかしあの頃の異常な社会の渦中、彼らの感じていた絶望は、およそ我々が感じるものより遥かに深かったのかもしれません。

ついつい私たちは自分たちを『基準』として考えてしまう為、成功者のそれを奢りだと思ってしまいがちですが、『奴隷のように働かされている』『満足いく食事にありつけない』『スマホもゲームも酒も風呂もない』『常に死が隣り合わせ』などの状況下にいる途上国の人たちが、日本人は遥かに裕福なはずなのに、なぜ苦しんで自死を選ぶのかが疑問なように――そんな恵まれない人たちの疑問が、私たち日本人の苦しみを解放してくれる訳ではないように――裕福さと幸福はイコールではないのです。


自分より裕福な人、若しくは容姿が恵まれている人——などが、陰鬱な面持ちで苦しみ抜いている時に、「俺より金はあるんだから」とか、「私より全然かわいいよ」だとかの慰めは、効果的ではない場合があります。

「貧乏で家も家電も何もなく、毎日外で虫が這う中を寝ているが、そんな僕でも生きてるんだから大丈夫」と言われて、じゃああなたが大丈夫だということに何の保障もないようにです。


ここから先は裕福さとは少し話が逸れますが、うつ病は脳の炎症だということが、最近の科学によって明らかになってきました。

怪我をした際に痛みを感じてしまうことは、どうしようもない生物学的構造です。己の非がより一層痛みを誘発するのではなく、侵害受容器が刺激を感知し、電気信号が脳に伝わり痛いと感じます。

痛さそのものの存在に、あなたの非はありません。同様に脳の炎症が鬱を引き起こすなら、沈んだ気持ちになる現象自体はあなたに非があるからではありません。


「クソッ、気持ちが沈んでやがるぜ。脳に炎症ができたせいだ!」


などと、骨折やインフルエンザや癌で苦しいのはメンタル次第ではないように、鬱で苦しいのは心の弱さではなく炎症のせいだと考えれば、自責の念から少しばかりは解放され、不幸値の下降のスパイラルに、僅かながらの歯止めが効くのでは?


万人に共通する対策はないので、これはあくまで局所的な例ですが、こういった幸不幸の構造を考えることで冷静になり、思いとどまることのできる人が増えるのなら幸いです。

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