第4話 俺が君の、夫だからだ
――お許しをいただいてしまったのだから、これまで以上にしっかりと『妻』のお役目を果たさなければ。
そう決意して臨んだ、次の夜会。会場となる広間に到着したとたん、私たちへと周りの視線が一斉に集まった。それまで大きかったざわめきは鳴りをひそめ、その代わりにヒソヒソと、扇の陰でなにやら囁かれているようである。
今夜は一体、どうしてしまったのだろう。かつてない状況に私たちが戸惑っていると、お酒のグラスを片手にすでに出来上がっているらしき男性が、こちらへと近づいて来るのが見えた。
「よう色男、お前の武勇伝、聞いたぞ!」
あれは確か、以前少しだけ挨拶したことがある、夫の従軍時代の知り合いだっただろうか。ずけずけとした物言いで、あのときは返答に困ったものだけど……この様子なら、理由を聞けるかもしれない。
「武勇伝? 何の話だ」
「お前、夫人の
「そんなっ……!」
思わず否定の声を上げかけた、次の瞬間――不意に強く腰を抱き寄せられて、私は息をのんだ。
「馬鹿を言うな、俺の興味はもうずっと
言いつつもう片方の手で私の髪をひと房すくい取ると、流れるように口づける。まさかこの人がそんなことをできるタイプだと思っていなかった私が石のように固まっていると、周囲の女性たちから小さく歓声が上がった。
「やっぱりそうよね。あの女、アベラルド様が
やがてその場にいた貴婦人のうち一人が、そうひときわ響く声をあげると。
「そうよねぇ、私もそうなんじゃないかと思っていたのよ」
「あんな女に逆恨みされるだなんて、イヴェッタ様も災難だったわねぇ」
「でもこんなにも素敵な旦那様に愛されているなんて、羨ましいわ」
まるで手のひらを返したかのように、皆から口々に好意的な言葉を掛けられて……私は、困惑した。そのままできた貴婦人方の包囲網をなんとか突破して、夫の事業に必要な挨拶を全て済ませると。私たちはほうほうの体で、自分達の車へと戻ったのだった。
「その、重ね重ねのご面倒を、本当に申し訳ございません……」
まだ復興途上の悪路を後部座席に並んで揺られながら。私が小さくなりつつ謝ると、彼は
「いや、君の名誉は絶対に守ると、あの時約束したからな。それよりも、
恐らく、事情を知らない運転手が前に居ることを思い出したのだろう。言葉を濁す彼と私の間には、狭い車内でも拳ひとつ分くらいの隙間が開けられている。それをどこか寂しく思う自分に気がついて、私は自嘲した。抱き寄せる腕の温もりを思い出しながら、口づけられた辺りの髪を撫でてみる。それを嬉しいと思ってしまっただなんて、自分はなんと薄情なのだろうか。
かつてシルヴィオ様に恋をしていたときは、彼のことを考えただけで心が温かくなって、手紙が来ると心が
でも今は、アベラルド様のことを考えただけで胸が苦しくなってしまっている。この気持ちの正体に気付くのが、怖かった。彼は親友の最期の願いを叶えるために、私を助けてくれているだけなのに。それなのに私自身を見てほしいと願ってしまうだなんて、友情に厚く高潔な彼に対して失礼なことだろう。この気持ちがばれてしまったら、なんて多情な女なんだと失望させてしまうに違いない。
「どうぞお気になさらないでください。あの場を収めるためには、必要なことだったのですから。それにしても、一瞬にして皆さま噂の手のひらを返されたことが……少しだけ、恐ろしく感じてしまいました」
「それはあの女の日頃の行いのせいでもあるだろうが、それはこちらも同じだな。妙な噂で付け込まれないよう、今後は適度に睦まじい夫婦らしき姿を見せねばならないだろうか。その、夫婦であれば、日頃から腕ぐらいは組んで見せておくべきだったかな、と」
思いがけない言葉、それをしどろもどろに
「そ、そうですね」
ようやくぎこちない言葉を返すと、二人揃って黙り込む。
そう、これで充分だ。せめてこの隣で過ごす穏やかな時間が、永遠に続きますように――。
――だがその願いは、長くは続かなかった。
「ほら、この通りはまだ道が悪い。腕を……」
車から、未だ石畳の張り替えが終わっていない王都の通りに降り立って。もう何度目かのことなのに、未だぎこちなく差し出された腕へ、私も遠慮がちに自分の腕を絡めた、その時。
辺りに鋭い、だがどこか軽く乾いた音が響く。次の瞬間、私は黒い物に包み込まれた。それがアベラルド様の
従者たちへ号令を飛ばす夫の声を聞きながら、なるべく邪魔にならないようじっとしていると――やがて彼の膝から、力が抜けた。
「アベラルド様っ!?」
「俺は大丈夫だ。だからイヴェッタ、まだ動いてはいけない……」
苦悶に満ちた声。それでもなお庇おうと覆いかぶさる身体を何とか抱き支えたまま、私は細心の注意を払って地面へそっと膝を着く。
「旦那様、賊を捕らえました!」
そういつもの従者の声が聞こえたので、私はさっと身を起こした。私も、軍人の娘である。こういった時の心得は、母から仕込まれているのだ。
「失礼します!」
彼の上着に手を掛けて、素早く傷の位置を確認する。右後背と肩口に、計二発。止血のし難い位置だから、それぞれの傷口を直接圧迫するしかないだろう。
ほとんど抱き抱えるようにして二箇所の傷を必死に圧迫していると、背中ごしに掠れた声が響いた。
「すまない、こういった危険性があると分かっていたのに、君を巻き込んでしまった。思い通りにならぬ駒など盤上から消してしまえと思われるのは、よくあることなのに……」
「そんな!」
「離縁のために必要な書類は整えて、信用できる家令に管理させている。今後暮らしてゆくために充分な資産は分与する手筈になっているから、困窮するようなことはないだろう」
「なぜ、そこまで……」
「それは……俺が君の、夫だからだ」
珍しく薄く、だが皮肉げな笑みを見せる自称『夫』に、私は返す語気を強めた。
「資産の分与なんていりません! 夫だというのなら、どうか私を一人にしないで!」
「すまない、どうやら血を失いすぎた。戦地で多くの死を
「諦めないで! あなたは私に、二度も愛しい人を失えとおっしゃるのですか!?」
「いま、何と言った……?」
死を受け入れようとしていた彼の目に、わずかばかりの光が戻る。驚いたように向けられた瞳をまっすぐ見つめ返しながら、私は口を開いた。
「シル兄さま、ごめんなさい。一生貴方ひとりだけだと誓ったはずだったのに、アベラルド様のことを愛してしまいました……」
彼は目を見開いたまま震える手を上げ、私の頬に触れる。
「だからどうか、生きて……」
「ああ、これほどまでに生きたいと思ったことなんて、初めてだ。まだずっと、君と共に……」
だが声の最後は掠れ、そして涙を拭った指先が、頬からすべり落ちた――。
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