変容街のカフェで待つ

イビヲ

第1話 ダダとコゲ

夕暮れの薄青い街角に、どこからともなくスモモのような甘酸っぱい香りが漂ってきていた。

これは初夏のにおいだ。

誰かが合歓の花の香だと言っていた気がする。しかし、それがどんな花なのかは知らなかった。

どうせならその姿を確かめてやろうと上を向いて歩いて行くと、街灯を覆う低木の枝に、化粧ブラシをひっくり返したような奇妙な形の花が、ぬるい風を受けそよいでいた。

「これが合歓の花かな」

答える相手のいない問い。

車も通らぬ道の先で信号機だけが煌々と、規則正しく色を変えていた。




【ダダとコゲ】




「このドロボウネコ…!」

うめくような声が聞こえて、思わず横の路地に目を向ける。

自分と共通の言語を話す住人が少ないこの街で、それは珍しくはっきりと聞き取れた言葉だった。

真っ先に目に入ったのは地面に座り込んで癇癪を起こす『オムカエ』の背中。

濃い灰色のコートの裾が砂まみれになっている。

向かい合う位置に、二人の女性がいた。

「――――――!―――!!」

「―――」

聞き取れない言葉を話す中年女性が、側にいる老婆の腰を支えながら怒鳴る。

老婆はオロオロと手をまごつかせ何かを呟くものの、癇癪を起こしているオムカエに手を差し伸べることはしなかった。



……オムカエが袖にされるところは初めて見た。

そういうこともあるというのは聞いていたけれど。



他人の事情に深入りするのも躊躇われ、そっと目を伏せ先を急ぐ。

背中のフードの中から相棒が咎めるように毛束を引いたが、言葉の通じぬ者の揉め事に自分が割って入ったところでいったい何ができるというのか。


辺りはすっかり宵闇に沈んでいた。

ごちゃごちゃとした商店街を抜け、川沿いの石畳を進む。

目当てのカフェの看板が出ていることを確認し、ようやくほっと息をついた。

住む者の多いこの辺りは、日々少しずつ景色を変えるのだ。

もし慣れた店がなくなっていたら、また意思疎通のしやすい店を新規開拓しなくてはいけない。

時間はたっぷりあるものの、あまり社交的ではない自分にそれは高いハードルだった。


フードから相棒を取り出して抱える。

カフェの扉を開くと、見知ったマスターが笑顔で迎えてくれた。

「―――――」

言葉は聞き取れないが、挨拶であることは表情でわかる。

こちらも笑顔と会釈で返し、イラスト入りのメニューからいくつか指し示し注文した。

相棒をカウンターに下ろすと、彼も軽い会釈をし、ペタリと腹ばいになった。

相棒は全身に綿の詰まった水色のイモムシだ。

短い手足がついているのでもしかしたらイモムシではないのかもしれないが、こいつとも言葉が通じないので便宜上イモムシと呼んでいる。


店内にはゆったりとした民族音楽が流れていた。

客席の顔ぶれを見渡しても、なんとなく共通の雰囲気がある。

他者との距離。言葉への慎重さ。賑わいへの苦手意識……

「やぁやぁ、素敵な垂れ耳だね!」

好もしい雰囲気をぶち壊すように、背後から明るい声が響いた。


「隣いいかな?レインコートも似合ってるね。君の『手放せない服』かな?」

同種の、しかし気質の違う長耳かと予測しながら振り向いたが、そこにいたのはマスターと同じ三角耳の若い男だったので驚く。

今まで一度も三角耳の話す言葉がわかったことはないというのに。

彼は了承を得るより先に隣の椅子を引き、後から来た連れのためにもう一つ隣の椅子も確保した。

「こんばんは、僕はコゲ。こいつはダダ。彼は君と同じ長耳だろ?ダダともうずっと一緒にいるから、僕には君らの言葉がわかるんだ」

「……それは、珍しいね」

ダダと呼ばれた男は目尻に細かい皺のある初老の長耳だった。洒落たカンカン帽を指先でかるく持ち上げ、控えめに少し困ったような顔で笑っている。

彼となら気質が合いそうだが、このコゲと名乗る男とはできることなら早急に距離を取りたい。首に巻かれたサイケ柄のスカーフからして、どう考えてもお近付きになってはいけないタイプだろう。

「――――、――――――」

マスターが見かねたのかコゲになにやら注意をしてくれたようだが、コゲは愛想笑いと「ちょっとだけ」という指のジェスチャーでそれをかわしてしまった。


「ところで君、さっき座り込んでるオムカエを眺めていなかったか?」

本題だ、と言わんばかりに体ごとこちらを向いた彼が、声のトーンを落として尋ねた。

どうやらこの二人は、気まぐれで話しかけてきたのではないらしい。

「見かけはしたけど、すぐ立ち去ったよ。なんだか修羅場のようだったし」

「僕らが見たときには一人で消える寸前だったんだ。誰と揉めてたか、何か言ってたか、もし覚えてたら教えてほしい」

「そんなこと聞いてどうする」

他者の事情をペラペラと喋ることには抵抗があった。

何に由来する抵抗なのかは、自分にもわからないのだが。


「……私たちは、世界の輪郭を追っているのさ」

のんびりとした口調でそう答えたのはダダの方だった。

「自分のためのオムカエが来るまで、ここで好きに過ごす。私たちが最初から知っていたことはそれだけだ。誰かのオムカエが来ると街の景色が少し変わる。見かけぬ顔はいつのまにか増えてる。最初から手放せない服や、君のように相棒がいたりする。なぜ?どんな仕組みで?……私たちは自分のオムカエが来るまで、それを探求してみたいんだ。」

静かな語り口の中に、知への確かな熱意がこもっている。

それはきっとただの興味では無く、意義があることなのだろうと思えた。

「そういうこと。下世話な話として楽しもうとは思っていないから、協力してくれたら嬉しい」

軽薄な態度でずけずけと他者に関わりに行くわりに、どうやら主導しているのはダダの方で、コゲはそれを補助する立ち位置のようだった。

関わりたくないという気持ちが、二重三重の意外性に揉まれて軟化してしまったのが自分でもわかる。

「……大して役には立てないと思うけど」

観念して、先ほど見聞きした修羅場の状況を彼らに語って聞かせた。



「なるほど……。中年女性と老婆は、三角耳?角丸耳?それ以外かな?」

「多分三角耳。遠目だし、角丸の大三角だった可能性もあるけど」

「ありがとう、それでかなり絞れる。」

ダダがコゲに目配せし、二人が同時に席を立った。

黙って見送ればそれまでのことだったが、無意識に口が動く。

「もし何かわかったら」

二人の意外そうな目に、我に返って口元を覆った。

「君にも関心を持ってもらえたなら、それは喜ばしいことだ。名前を聞いておこう。オムカエが来ないかぎり、ここに通っていれば遠からず会えると思うけどね」

「名前?……名前は、ウータン……のような気がする。聞かれたのが初めてで、少し違和感が……」


これもよくわからない持ち物の一つか。

誰かからそう呼ばれていた気がする。ただ、他にもいくつか浮かぶ呼び名があり、本当にこれが自分の名前なのか微妙に断言しにくい。


「僕が知ってるだけで3人はいるな……」

「長耳に多い名前だね。みんななんとなく腑に落ちずに首を傾げるのも興味深い。次に会ったら、その辺も突き詰めて話してみよう」

今からオムカエと揉めていた当事者を探しに行くのだろう。

席を戻しつつ二人がそう言うのを、頷きながら聞いて見送った。


「ウータン」「ウータロ」「ボッチャン」と、誰かが呼ぶ声が染み付いている。

それを思い出すとなぜか、とても暖かくて悲しい。


手元に柔らかいものが触れた。

相棒が身を寄せ、何か言いたそうに見上げている。

「ありがとう。かわいいね」

フワフワとした頭を撫で、胴体を撫で、いつの間にか目の前に並べられていた注文の品の中から、綿の乗った小さな皿を選んで彼の前に置く。

もくもくと綿を喰みだした彼をしばらく眺めて、自分もドライフルーツと干し草に手をつける。

わからないことばかりのこの場所だが、ずっと共にいる相棒のおかげで、一人で食事を摂らなくていいのは救いだと思った。


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