俺と幼なじみと、元アイドル。

鈴鳴りん

俺と幼なじみと、元アイドル。

「転校生、どんな子だろうね」

隣の席に座る幼馴染の鷺原瑞希が、イスを傾けつつ振り向いて話しかけてくる。

「おー……」

 生返事をしてしまう俺、桜庭悠。昨日の夜更かしのせいで頭が働かない。

「ちょっと、聞いてんのかよっ」

「あー、うるせ、眠いんだって……」

「ただでさえ悪い人相が最悪レベルだぞ。どうせ悠の後ろに来るんじゃないの、第一印象大事大事」

 じと目で自分の口角を指で持ち上げる瑞希。切れ長でクールな瞳の彼女も、第一印象としては損をしがちなほうだけど、わざとらしい笑みもそれはそれで怖いような。

「やっぱこれ、そういうことだよなあ」

 今朝登校すると、俺の席の後ろにイスと机が出現していた。クラスの人数の関係で俺の後ろだけぽっかりと空いていたから、ひとつ座席を追加するならここだろう。

「にしても、五月の半ばなんて、こんな微妙な時期に珍しいよね」

「確かに。引っ越しが間に合わなかったのかなあ」

「あー、それありそう。無理やり通うとかも厳しいようなとこ出身だったりして。北海道とか、沖縄とか」

「北海道、沖縄……」

 どっちも行ったことがないな。東京生まれ東京育ちの自分としては、遠い観光地みたいな漠然としたイメージしかない。

「あ、先生きた」

 がらりと教室の扉が開き、我らが2Bの担任の漆野先生が入ってくる。

見た目は熱血体育教師という感じで、実際他の先生の前ではそんな感じだけど、生徒にはほどよく適当に接してくれるので、当たりとされている……のはどうでも良くて。

「はい、おはよう。早速ですが転校生紹介しまー……」

 クラスのほとんどの連中が、先生の声なんて耳に入らず、後ろから入って来た転校生に釘付けになる。

だって、そいつは。

北海道や沖縄どころではない、画面の中からやって来た、

「あ……! よろしくお願いします……。楠木はるか……です」

 ついこの間、国民的グループを電撃脱退した、そして俺と瑞希が応援していた、元トップアイドルの楠木はるかその人だったからだ。


「じゃあ楠木は桜庭の後ろの席ついて。おーい桜庭、挙手」

「あっ……はいっ」

 あっけに取られていたけど、自分の名前が呼ばれていることに気付き、なんとか挙手する俺。前から楠木はるかが近づいてくる。

「さくらば、くんでいいのかな。よ、よろしく……」

「あ、はい、よろしく……」

 あいさつを交わして、俺の後ろの席につく楠木さん。芸能界ってあいさつが大事で、夜でもおはようございます、とか言うんだっけ……とか考えていると、スマホの通知が光った。

『え……マジで?』

 隣に座る瑞希からだった。

『同姓同名で顔の似ている別人、とかじゃなければ、そうだろ』

『こんなことって、マジであるんだね……』

『芸能界を引退したら、ふつうの学生だろうしな』

『やっぱ、触れないほうがいいのかな』

『うーん、どうなんだろ』

 冷静なふりをして返信したけど、楠木さんのアイドル活動について、こちらから触れてもいいのかというのは微妙なところだということに気付かされた。

『なんというか、ああいう辞め方だし? 地雷がいっぱい埋まってんじゃないの?』

『あー……』

 瑞希はプロ意識の高いアイドルが好きで、歌もダンスも手を抜かない楠木はるかが好きだったゆえに、あんな辞め方をしてからは複雑な気持ちらしい。

『まあ、今は一般人の転校生なわけだし、普通に接するほうがいいのかなって。初対面の一般人にあれこれプライベートの質問するのって、デリカシーないし』

 一般人を強調するあたり、少しトゲがある気がする……。

 そんな会話をしている間にホームルームが終わったようで、俺の後ろの席に人だかりができる。

「よろしくねー」とか、「顔ちっちゃ! かわいいねー」とか、元芸能人のクラスメイトに興味津々だけど、本題に踏み込めず無難な話題を投げかけるやつらが集まっているようだ。

 瑞希の言ったように、いきなりアイドル時代の話を振ったらまずそうだったな、ありがとう……と思った矢先に、

「ず……ずっとファンでした! 握手会よく行ってたんだけど、覚えてたりしないかな、ほら俺、つかぽんって名乗ってた」

 いわゆるカースト一軍男子の大塚が割って入ってきた。

あいつもアイドルが好きらしいというのは、そのクラス中に響く大きな声で一方的に知っていたけど、イベントに参加するほどだったのか。

「あ……つかぽん、くん。お、覚えてるよっ。応援してくれてたんだ、ありがとね」

 硬直ぎみな声でお礼を言う楠木さん。鈍感な俺でも良くない空気を察知する。

「え、マジ? 覚えててくれたんだ、うれしー。これからはクラスメイトとして、よろしくなっ」

 そう言って去っていく大塚。この空気を読んだ上での撤退なのか、言いたいことはそれだけだという意思表示なのかは分からないけど、こいつはそういうやつなのだ。

 次に楠木さんに話しかけられる勇者はいなかったようで、人の波が引いていく。

「あ、あの、桜庭くん」

「お、おう、どうした」

 それを眺めていると、ふいに楠木さんに声をかけられて、たじろぎながら返事をする。

「ごめん、まだ学校の地理が怪しくてさ、教えてほしいんだけど……」

「地理? うちは日本史選択クラスだけど……楠木さん、もしかして転入するクラス間違えた?」

「え」

「え?」

「あ、地理ってその地理じゃなくて……。この学校、どこに何があるのかが分からなくてさ、ト、トイレの場所を教えてほしかったんだけど」

「そ、そういうことか、ごめんごめんっ。女子トイレは廊下出て右に向かった突き当たり」

 慌ててジェスチャーつきの道案内をする俺。

「ふふ、桜庭くんって、ちょっと面白いかも。ありがとねっ」

 そう言って、今日いち柔らかい表情で去って行った楠木さんの後ろ姿をぼーっと眺めていたら、先ほどのやり取りを思い出して恥ずかしくなってきた。

「ふふ、桜庭くんって、ちょっと面白いかも」

 隙を見せた瞬間、隣の瑞希がからかってくる。

「う、うるせーよ」

「いやー、でもやっぱ顔はかわいいわ。認めざるをえない」

「まあ、ついこの間まで公共の電波に乗ってたわけだし」

「芸能人だもんねー」

「い、いまは一般人」

 まだ言ってる。

「……根に持ってんのかよ」

 つい、聞いてしまった。

「……まあ、あんな急に辞めて、全くムカついてないとは言えないけどさ」

「……」

「でも、転入生がこれまで何してたかって、普通なら知りようがなかったわけだし、勝手に好感度マイナスから始めるのってフェアじゃないなとも思うんだよね」

 そう言ってかばんから教科書を出す瑞希。こういうところで律儀なのは、なんというか、いいやつなんだろうなと思う。

「……良かったじゃん。応援してたアイドルがクラスメイトに、なんて、超ラッキーじゃん」

「ま、まあ、そうだな」

 チャイムが鳴り、授業が始まった。

大塚に話しかけられたときの楠木さんと、俺と話していたときの楠木さんの表情が交互に浮かんでは消え、先生の声は右から左へ抜けていった。


 放課後。

「じゃ、行こっか」

 俺と楠木さんは、第二体育倉庫に向かっていた。

本来は前の席の井上と掃除当番が割り当てられていたけど、ふだんは誰も来ないような倉庫なので、二人で交互に鍵を借りに行き、中で適当に時間を潰して帰ることにしていた。

……というのを、新しく当番に加わった楠木さんに説明し、帰ってもいいよと伝えたけど、校内を見て回りたいし……ということで、初めての共同作業がスタートしたというわけだ。

「…………」

楠木さんが転入してきたことはすでに学校中で広まっているようで、隣を歩く彼女に視線が集中しているのが嫌というほど伝わってくる。

倉庫までの道を案内しつつ歩いているから、なんだか自分がマネージャーにでもなったかのような気分だ。

「ふぐっ……」

倉庫に到着して鍵を開ける。錆びている扉はなかなか重くて、帰宅部男子一人だと開けるのに苦労するんだよな。

「んしょ」

「!?」

俺が手こずっていると、横から楠木さんが軽々と扉を開けた。

「……筋トレとか、趣味にしてた時期があったから」

 少し恥ずかしそうな顔でそう言って、中に入っていく。

「あ、ありがとな」

 マネージャー失格だな、と思って後ろをついていく俺。

「うわ、すごいにおいだ」

 そう言いながら、ほうきを見つけて掃除に取りかかる楠木さん。俺はちりとりかな……と用具入れを漁り、楠木さんのもとに向かう。ちゃんと掃除するのは四月ぶりだ。

「古いからなぁ……」

「でも、ちょっと懐かしいかも。小学生のころを思い出すにおい」

「小学生?」

「あー、わたし、ずっとお仕事してたからさ、あんまり学校行けてなくて……。放課後の掃除も、久しぶりだからちょっと楽しみだったりして」

「そうなんだ……」

 小さいころから活動していたのは知っていたけど、とりあえず相槌を打ってしまった。

「いつも適当にやって帰ってたんだもんね、付き合わせちゃってごめん」

 俺が構えているちりとりに、一か月分のほこりが集まっていく。

「いや、サボってた俺らが悪いから。楠木さんが謝ることないよ」

「……そう? そうかも。ちゃんとやらなきゃだめだぞっ、なんて。あはは」

 むっとしたような顔をしたと思ったら、くしゃっとした笑顔を見せる楠木に、思わずどきっとした。

「っ、ゴミ箱ゴミ箱……」

 俺の心の動きも見透かされているような気がして、楠木さんに背を向けるように立ち上がる。

「桜庭くん?」

「な、なに?」

 追い打ちのように声をかけられて、背を向けたまま応える。

「桜庭くんはさ、わたしのファンだったりしたのかな」

 想定外の質問が飛んできて、思わず思考が停止する。

「あ……っ、えと……」

 大ファンでした、なんて言うのは恥ずかしくて、答えあぐねてしまう。

「いちおう、超人気だった自覚はあるんだけど……」

「うん……知ってる」

「いやいや、つっこんでよっ。自分で言うことかーっ、みたいに」

「ほんとのことじゃん……」

 自分で自分を超人気、と言えるくらいには、各種メディアに引っ張りだこな存在だった……と思う。

「まあ、それはいいとして。どうなのかな?」

 一歩こちらに近づいてくる楠木さん。まぶしい。

「か、かわいいな、とは思ってたよ。曲も、たまに聴いてたし」

 気圧されて、無難なことを言ってしまった。

「あら、うれしー。応援ありがとっ」

「あはは……」

 ごまかしてしまったことにやや申し訳なさを感じつつ、あいまいに笑う俺。

「じゃあさ……」

「?」

「友だちから。よろしくお願いしたいんだけどさ」

 そう言って、楠木さんはスマホを差し出してきた。メッセージアプリのコードが表示されている。

「ほら、さっさと読み取る」

 楠木さんはびっくりして硬直している俺の胸ポケットからスマホを取り出し、こちらに突き付けてきた。

「あ、ああ……」

 その一連の動作でわれに返った俺は、慌ててスマホのロックを解除して、メッセージアプリでコードを読み込んだ。

「よし。登録完了」

 友だちに追加された楠木から、ハートのスタンプが送られてきた。

 本人が目の前にいる状況で、どんなスタンプを返せばいいのか分からず、必死で無難なものを探していると、

「返信おそーい。既読ついてんのに」

 楠木がからかってきた。

「すまん……」

「すぐにしゅんとすな」

「う、うるさ。てか……」

 楠木さんのほうこそ、朝の自己紹介とはだいぶキャラが違うじゃん……と言いかけたところで、

「楠木さんのほうこそ、朝とは違うキャラじゃん……とか思ってたりして」

 図星すぎる指摘をされてしまった。

「あ、あたり」

「え、ほんとに?」

「マジマジ、図星」

「えーっ、たまには当たるもんだね、あんま勘が鋭いタイプじゃない自覚があるんだけどさ」

「怖いくらい当たってた。占い師とか、向いてるんじゃない?」

「無理無理。そういうキャラじゃないし……ってキャラの話だったね。ほら、最初はとりあえず、様子見というか」

「あー……」

 確かに、アイドル・楠木はるかのキャラクターは、どちらかというと朝のふるまいに近い。

「ほら、つかぽんくんだっけ。彼みたいに応援してくれてた人がいたら、イメージ崩れるかなって。結局ぎこちない感じだったし、正直失敗したなーって思ってる」

「そっか」

 深入りしてはいけないような気がして、とりあえず相槌を打つ。

「その点、桜庭くんは話しやすくてうれしいよ。知ってくれてはいたんだろうけど、ただ知ってただけっぽいし」

「あー、うん……」

 大ファンだったんだけど、もう訂正できない雰囲気になってきている。

「だからさ、記念すべき友だち第一号ってことで、よろしくっ」

 そう言ってこちらを見る楠木の笑顔は、アイドル時代よりも少しいたずらっぽくて、これまでに見た彼女のどんな笑顔よりもまぶしかった。


 掃除を終え、帰宅。楠木さんとは家が反対側のようで、すぐに解散した。下手に家が近かったらかえって気まずかった気がするので、よかったと思いながら家路についた。

 自室のベッドにダイブして、スマホを確認すると、楠木さんからのメッセージに気付く。

『さっき言うのわすれてた、クラスのグループとかあったら招待してほしいかも』

『おけ』

 そう返信して、招待ボタンを押す。

『ありがと』

 感謝の言葉とともに、楠木さん本人の顔がデフォルメされた、ありがとうのスタンプが来た。

『そういうの、本人でも使うもんなんだな』

俺も持ってるやつだ……と思いつつ返信。

『いやいや。ジョークジョーク』

 クラスのグループのほうには、楠木さんは『よろしくお願いします』とメッセージを送っていた。

『さすがにそっか』

『さすがにね。じゃ、ありがと、また明日』

『うい』

スマホを軽く放り投げ、今日一日の出来事を振り返る。

「冷静になると、こんなこともあるんだな、という言葉に尽きるな……」

 本当に漫画のような話だ。

 毎日のように画面の中で見てきた楠木はるかが目の前に現れて。

 毎日のように見てきたはずなのに、ぜんぜん知らない表情をしていて。

 そんなことを考えながらぼーっと天井を眺めていると、スマホの振動が布団をつたって伝わってきた。

 スマホを手に取ると、瑞希からの電話だった。

『もしもし?』

『……』

 つながっているはずなんだけど、出ない。

『もしもし、瑞希? 聞こえてる?』

『……はーい』

『あ、よかった、聞こえてる。どうした?』

『どうもしてなくはない』

 なんだそれ。

『どうもしてなくはないって、なんだよ』

『言葉の通り』

『いや、わかんないって』

『うーむ』

 通話越しだから顔は見えないけど、どこかの仙人のような顔をする瑞希の様子が浮かぶ。

『な……なに?』

『楠木はるかと、どうだったんよ、という話よ』

『あぁ……』

 そういうことか。クラスのグループに招待した通知を見て、気になって連絡してきたんだろう。

『ほら、掃除当番一緒だったからさ。終始無言で掃除なんて無理じゃん。だからちょっと話して仲良くなったり、ならなかったり』

 楠木さんの素のキャラとか、俺が大ファンだったことを言いそびれたこととか、都合の悪そうな事実はごまかしつつ放課後の出来事を話した。

『ふぅん、なるほどね……』

『おわかりいただけただろうか』

『うーん、もっとキョドると思ってたのに、悠が普通に話せてたっぽいのが一番の恐怖、いや驚きかも』

『確かに』

 言われてみればそうだ。帰りぎわには、普通の転校生くらい、いや異性だということを考えると、普通の転校生以上に自然に話していた気がする。

 何百回も握手会をこなしていただろうし、素のキャラに戻ってもそのときの会話スキルが活かされていたのだろうか、などと思う。

『で、連絡先も交換して』

『あ、ああ……』

『うまいことやってんじゃん』

『そうか?』

『いや、うまいこと、なんか親切にしてくれるクラスの男子くん①、みたいなポジションを獲得しているなあと思って』

 それは……どうなんだ?

『いやいや、たまたま席が近くて、だから掃除当番も一緒で、そこまで偶然が重なったら、あとは会話が生まれないほうが不自然だろ』

『……』

 無言の瑞希。さっきまでは間髪入れずに返事が来ていたのに。

『あれ、聞こえてる?』

『……じゃあ、たまたま家が近くて、だから学校も一緒で、そこまで偶然が重なったから、悠は今あたしと電話してるってこと?』

 黙り込んだと思ったら、急に何を言い出すんだこいつは。

『そんなことない、いや、最初はそうだったかもしれないけど、それだったらここまで長い付き合いにはなってなくて、どっかで切れてるって』

『……そっか』

 急にしおらしい声で相槌を打つ瑞希。

『うん』

『……って感じの、ライバルが現れて急にめんどくさくなる幼馴染①ってのは、悠的にはあり? なし?』

『……なし。いやちょっとあり』

 なんだ、いつものノリかよ……と思い少し安心する。

『ちょっとありなら、そっちにシフトするのも悪くないかも』

『いや嘘。なしなし。これまで通りで』

『冗談だってば』

『分かってるって』

『あいあい、それじゃそろそろ切るね。バイトあるし』

『おう』

『またあしたー』

 通話が切れた。たぶん、バイトの時間までの暇つぶしでかけてきたんだろう。再びスマホを放り投げると、急激な眠気に襲われた。

 この時間に寝ると夜眠れなくなるんだよな、と思いながらも、眠気には抗えずに意識が途切れていった……。


 衝撃の転入生の登場から一か月。元アイドルと机を並べている現状にも、みんなは完全に慣れてしまったといっていいと思う。

楠木さんは、クラスの派手過ぎず地味過ぎない女子のグループに編入し、表面上はうまくやっているように見える。

本当のところは……まあ分からないけど。

そんなわけで、いまは無事中間テストが終わった後のホームルームで、来月の文化祭の話し合いが行われている。

うちの学校、六月中旬の試験終わりから一か月かけて文化祭の準備をして、夏休み前最終日に文化祭をぶつける、という独特なスケジュールなんだよな。

そんな季節外れの文化祭だからか、学外の人の来場者も多く、割と力が入っている。

「じゃあ、うちのクラスの演目、なにか希望がある人ー?」

 教壇に立つ委員長、永田の声に続く者はいない。

 二年生はクラスで演劇をするという伝統があるんだけど、うちみたいにやる気のなさそうなクラスからするとなかなかハードルが高い。

「い、意見が出ないので、とりあえずまわりの人と話し合って。後で当てるんで」

 さすが委員長、こういうときの対応にも慣れているな……と思いながら横を向くと、

「演劇、ねえ……」

 あまり興味がないという顔で、何も書かれていない黒板を眺めながら瑞希がつぶやいた。

「ほら瑞希、永田さん困ってるじゃん」

「え? そういうなら悠がなんか意見出しなよ」

「うーん……」

 正直、本当に思いつかないんだよな。

「…………」

 考えていると、楠木さんが椅子をこちら側に寄せてきた。

 楠木さんの隣の三浦は、楠木さんと反対側の隣の席の、同じバスケ部のやつと話している。

 孤立させてしまっていたことを少し申し訳なく思いつつ、楠木さんにも意見を求めることにした。

「楠木さんは? こういうの、たぶん初めてだよね」

「うん。こういう学校行事っ! って感じのやつは、はじめて」

「せっかくだし楽しんでほしいけど、この感じだとちょっと……ね。あたしが言うのもあれだけど」

「あはは、ありがとう……」

 楠木さんと瑞希は、全く話さないわけではないけど、こんな感じのぎこちない感じが一か月続いている。

「あと三分くらいで聞きまーす」

 騒がしくなったクラスにもよく通る永田の声が響く。

「あ、とりあえず当てられたらなんて言うかだけ、決めとこ」

 とりあえず意見をまとめようとする俺。

「ロミオとジュリエットとか?」

「あー、王道だよね、たぶん」

 瑞希の意見に楠木さんが賛同する。

「よし、じゃあそれでいこう」

 こういう王道の演目はガチでやるクラスがあったりして、被るとさらに悲惨なことになったりするんだけど、他にいい案があるわけでもないので黙っておくことにする。

「はい、当てまーす。大塚くんのところはどう?」

 あー、最初に声の大きいところに当てて、とくに否定的な意見が出なければ決まり、という流れにしたいんだろうな、と思いながら見守る。

「え、俺?」

 たぶん関係ない雑談をしていたのだろう、ぽかんとした顔の大塚。

「当てるって言ったじゃん。とりあえず、意見出してよ」

 正しさは圧倒的に永田のほうにあるので、容赦のない追い打ち。大塚と談笑していた周囲の人間は、知らん顔をしている。冷たいやつらだ。

「あーっと……。白雪姫とかでいいんじゃね? ほら、楠木さん前やってた気がするし」

 クラスの視線が大塚から楠木さんへ移る。

「そうなの? 楠木さん」

「……っ。はっ、はい……。」

 自信なさげに返事をする楠木さん。楠木さんの所属していたグループで白雪姫の舞台をやっていた、というのは、もちろん俺も知っていたけど、触れずに、いや触れられずにいた。

「経験者がいると心強いね」

 適当なことを言う永田。もうこれで決定したいという気持ちが態度に出ている。

「そうだろ。他、どうしてもこれがいい、みたいなやつ、いる?」

 大塚が加勢する。こうなるともう、他に意見が出るはずがない。

「じゃあこれで決まりでいいかな。あと、とりあえず座長の名前だけ実行委員に提出しないといけないんだけど……、楠木さん、お願いしてもいいかな?」

 座長というのはクラス演劇の責任者で、ふつうは主役が務めることになっている。

「えっ……!?」

 断れない雰囲気で、クラスが静寂に包まれる。

 ……ちょっと、ひどくない? なんて、手を挙げて発言する勇気もなく。

「や、やれます。よろしくお願いします……。」

 楠木さんの頼りない返事が永田の耳に届いたと同時に、終業のチャイムが鳴った。


 放課後。掃除当番も一周して、一か月ぶりの第二体育倉庫。

 もう学校にも慣れただろうし、帰っても……と楠木さんに声をかけようとしたけど、無言で倉庫の鍵を取りに行ってしまった。

 そんなわけで、楠木さんを追って倉庫へ。既に鍵は開いていた。

「お、お疲れ……」

「お疲れー」

 あれ、思ったより元気そうだ……。

「さ、掃除しよっか」

 そう言って、俺にちりとりを渡してくる楠木さん。

「あ、ああ……」

「?」

「あ、いや、さっきのホームルーム……」

 ちりとりを受け取りながら、そう切り出すと、

「あー、あれ? やってやりますよっ」

 意外なことに、やる気のようだった。

「え、てっきり、やりたくなかったのかと……」

「うーん、まあ、積極的に立候補したいわけではないけど、あの空気で辞退はできなさそうだったからねー」

「さすが、肝が据わってる……のかも?」

「そりゃまあ、比べ物にならない規模のステージに立ってましたから」

 えへん! みたいなポーズを取る楠木さん。

「確かに。いやー、やっぱ、すごいんだなー」

 思ったことがそのまま口から出てしまった。

「まあ、それほどのことは……あるかも」

「うん、あると思う」 

 クラスの演劇の主役を急に押し付けられて、ケロっとしていられる人なんてほとんどいないだろう。

「……それなりに揉まれてきてるからさ」

「…………」

 楠木さんは少しシリアスな口調でそう言ったけど、俺は完全に別のところに意識が向いてしまっていた。……そんなつもりはなかったのに。

「…………突っ込まないから、話、続けよ?」

「……ごめん。でもさ、委員長に指名されたとき、だいぶ自信なさげだったけど……」

 察されてしまっていた。気まずい。

「あー、あそこはさ、縮こまってたほうがクラスのみんなが勝手に申し訳なく思ってくれて、後でいろいろ協力してくれるかなー、とか思って」

「こわっ」

 すでに演劇が始まっていたのか。

「こわいとか言わないでよーっ。マネージャーの前でもああやって、少しでもプライベートの時間が増えるようにしてたんだし」

「あはは…………」

 楠木さん、多分あの仕事向いてたんだよ、と言いかけたところで踏みとどまった。

 スキャンダルが出たとはいえ、芸能界を引退したのは楠木さんの意思のはずだし、それについて部外者がなにか言うのはどうかと思ったから。

 ……というのは建前で、下手なことを言ってこの関係が壊れるのが嫌だったからだ、と思う。友だち1号として、それなりに仲良くなれたらいい……はず。

「まあ、それなりに頑張っちゃいますよ。誰かに見られる以上は、さ」

 楠木さんは真剣なまなざしで、倉庫の小さな窓の外を見てそう言った。

「……そっか、なにか協力できることがあったら、言ってよ」

 その姿を見たら、自然とそんな言葉が口から出ていた。

 ちょっとかっこつけたみたいになってしまったかも、と思って楠木さんのほうを向くと、いいことを思いついた、という顔でこちらを見ていた。

「じーっ」

「?」

「じゃあ、王子様役。立候補してよ」

「えっ!? 無理無理、むりだって……」

 へへへ、という笑い声がよく似合う、いたずらっぽい表情で信じられないことを言い出す楠木さん。当然全力で拒否する俺。

「えーっ、桜庭くんが協力できることがあったら言って、って言ったんじゃん。まさか、言わせるだけで実際には協力しない、なんてわけないよねー?」

「そ、そんなつもりは……」

 なかったけど、いくらなんでも、いくらなんでも過ぎる。

「ほら、王子さまなら姫の言うことは聞いてよっ」

「いや、まだ王子になるとは誰も……順番が逆だってば」

「細かいことは気にしないで、王子さまでしょっ」

「いやいやだから……」

 急に話が通じなくなった。

「真剣な話、クラスの男子でちゃんと話したことがあるの、桜庭くんくらいだし。ある程度、どんな人かわかってるほうが安心というか……ね?」

「ううっ、確かにそうだよな……」

 実は俺もファンの一人だったのは置いておいて、今度は妥当な理由をぶつけられてしまい、答えに窮する。

「だからさ……おねがいっ! わたしの王子様になってくださいっ」

 そんな、プロポーズみたいな言葉を言わせるまで引っ張ったら、もう俺には選択肢は一つしか残されていなかった。

「……はい。頑張ります。よろしくお願いします」

 ……え、マジでやるの?


 そんなこんなで翌週のホームルーム。

俺が王子様役を了承したということは、楠木さんから永田に伝えられていたそうで、いつの間にかクラスでは周知の事実となっていた。

 特に反対意見とか対立候補とかはなかったようで、完全に俺のメインキャスト入りが確定した。……確定してしまった。

 そして現在、クラス演劇関連の話し合いの指揮は座長が取る、という慣例に従って、楠木さんが教壇に立って他の役職の立候補を募っているというわけだ。

 とりあえず俺はもう役が決まってるし、ぼーっとしていればいいか……とスマホをいじっていると、

「……くらば、桜庭くんっ」

「?」

 前から楠木さんの俺を呼ぶ声。

「桜庭くんはもう役が決まってるから、黒板の書記、お願いしてもいいかな」

「おっけ」

 ああ、なるほど。確かに暇人の有効活用だ、と思いつつ席を立つ。

 一番後ろの席から黒板まではそれなりに距離があり、なんとなく俺を無言で見守る流れになっている。少し気まずい。

 大塚がそんな沈黙を破る。

「は、初めての共同作業じゃん」

 あはは、と大塚の周辺が少し笑う。全体としてはややウケという感じだな、と冷静に分析、してる場合……ではない。

「…………」

 聞こえなかったふりをして歩みを進める俺。これは非常にまずいことになっている気がする。

 俺と楠木さんがなんとなく仲がいいというのを、いじってもいいんだという空気がクラスに形成されつつあるんだ。

 ……いや確かに、そんなキャラじゃない俺が急に王子様やります! なんて言うわけがないし、裏で楠木さんとの合意があったことくらいは、誰が考えても分かることだ。

 とりあえず、刺激しないよう書記に徹することにする。

「えーと、じゃあまず、演者から決めよっか。とりあえずメインっぽいのは、わたしと桜庭くんと、あともうひとり、お妃さま役なんだけど……やってくれる人っ」

 挙手をつのる楠木さん。ざわつき始める教室。男連中は、とりあえず関係がないから、と騒ぎ始めている。

「…………これ、決まらないんじゃないか?」

 前から教室を見渡しつつ、小声で楠木さんに話しかける。

「うーん、どうだろ」

 とぼける楠木さん。とぼけても目の前の問題は解決しないぞ……と言いかけたところで、手が挙がっているのが見えた。

「はーい、やるよ。結局くじ引きとかにして、当たるよりいいし」

 瑞希だった。クラスの各所から、おー、任せた、みたいな声があがる。

「ほらねっ」

「あ、ああ……」

 俺だけにしか見えない角度でウィンクする楠木さんの笑顔に、ただ圧倒されてしまった……気がする。

 既に負担の大きい役を引き受けた瑞希のワンマン政治により、そこからはスムーズに役割が決まった。

 小道具や衣装は美術組に任せることにして、俺たちを含めた役者組は、楠木さんが見つけてきた台本のセリフを覚えてくることが宿題となり、今日のホームルームは終了。

 前回のグダグダ感からすると、かなりスムーズに進んだ気がする。


数日後、朝。

「おはよー」

「おっす」

「やー、間に合った間に合った」

 最近はすっかり遅刻ギリギリに着くことが多くなった瑞希が、隣に着席する。

「最近たるんでるぞ」

「いやいや、間に合ってるから問題ないっしょ。どっかの誰かと違って」

「……自分がケンカを売れる立場にないの、忘れてた」

 昨日、目覚ましを貫通して大遅刻してしまったんだよな。

着く頃にはもう一限が始まっていて、途中で入るのが気まずくて学校の前をうろうろしてたら去年の担任に見つかって、見ない間に不良になって……とからかわれた。

そんなわけで一限に途中参加せざるを得ず、クラスの注目を浴びてしまった。……なんか最近、いろいろと目立ちすぎかも。

「あ、台本。覚えた?」

 俺が机の上に出していた白雪姫の台本をぱらぱらとめくる瑞希。

「んー、まだまだ。とりあえず時間の有効活用、朝読書もこれ一冊というわけ」

「あたしと悠、どっちがセリフ多いんだろ……」

 そう言ってセリフを眺める。

「確かに、王子様よりもお妃さまのほうが喋ってるイメージあるな……って、瑞希のほうは、セリフ、どれくらい覚えたんだよ」

「そりゃあもちろん」

 どや顔で、親指と人差し指で丸を作る瑞希。

「え、もう準備オッケー?」

 学業成績も悪くない瑞希のことだし、コツコツとこなしていてもおかしくない。

「いや、ゼロ。ゆえに可能性は無限大」

 もう片方の指で同じ丸を作ってくっつける。こういうことを思いつく余裕があるうちは大丈夫か、と勝手に納得する。

「あはは、さすがにそろそろ覚え始めないと、ヤバそうだぞ……」

 と言いながら前を向くと、楠木さんと目が合った。

「「あ……」」

 ほんの一瞬、時が止まる。せっかく楠木さんが用意してくれた台本を、本人が聞いている前で全然覚えてなーい、なんて言うのはデリカシーに欠けていた、と後悔。

 な、なんかごめんね、と言いかけたところで、

「じ、実はわたしも、正直全然覚えてなくて。二人が良かったら、放課後練習会しない?」

 ひかえめな笑顔と苦笑いのあいだみたいな表情で、そんな提案をしてくれる楠木さん。

「あ、俺は全然おっけー、てか、よろしくお願いしたいです」

 かけあいの練習にもなるだろうしな、と了承する俺。

「あたしも。金曜だけバイトあるから、それ以外なら大丈夫」

 瑞希も乗ってくれた。

「じゃあさっそく、今日の放課後からかな」

「よし、じゃあ俺、一限終わりに空き教室の利用申請出してくるわ」

 文化祭準備期間は、過度な場所取り戦争を防ぐ目的で、実行委員が空き教室の管理をしている。

 まさか空き教室を借りに行くような、いわゆる文化祭ガチ勢の動きを自分がするなんてな、と思っていたら、始業のチャイムが鳴った。


 放課後。

 三人とも今週は掃除当番が割り当てられておらず、すぐに練習会に移ることができた。

 借りた教室は三年生のフロアのものだったので、もう慣れてきた我々二年生と違って、楠木さんと歩くと自然と視線が集まってきてしまう。

 彼女が転校してきた日を思い出すなぁと思いながらその視線をかいくぐる。……別に、俺には誰も興味ないと思うけど。

「下校時刻まで借りてるから、使い放題だよ」

 そう言いながら鍵を開けた。生徒数が減った影響で使われなくなった一般教室だから、構造は慣れ親しんだものだ。

「はーい」

 後ろから、楠木さんと瑞希が続く。

「あー、疲れたっ」

 どかっと椅子に座りこむ瑞希。教室には、無造作に机と椅子が散乱している。

「うわ、ガタガタだ」

 続いて俺も座り込んだけど、安定しない。経年劣化ではじかれた机と椅子の墓場になっているんだろうな……。

「のどかわいたーっ、自販機でなんか買ってくればよかった」

 完全にくつろぎムードの瑞希。でも、俺も喉が渇いていた。これから台本を読むわけだし、水分はあってもいい気がする。

「うし、じゃあじゃんけんで」

 音頭を取る俺。

「これは……負けた人がおごるってやつかな? 学生っぽいっ」

 楠木さんの声がはずむ。

「いやいや、とりあえずおごりはなしで、とりあえず買ってきてもらうだけで、どすか」

 楠木さんもなんか乗り気だし、負けおごりでも良かったんだけど、様子見。 

「異議なーし」

「いざ、尋常に勝負」

 三人の手が掲げられて、

「「「最初はグー、」」」

 じゃんけん、俺と楠木さんがグー、瑞希がチョキ。

「くっ……敗北。ご注文をどうぞ」

「やたっ。ここの自販機ってレモンティーあったっけ?」

「あるよ。俺はコーラでよろしく」

「レモンティーとコーラね。んじゃ、ちょっと買ってきますわ」

 俺たちが小銭を渡すと、やれやれ、というしぐさで教室を出る瑞希。

「ん」

 瑞希の姿が見えなくなってから、財布から小銭を出して渡す。

「……いいのに」

「放課後、いつもは何してるのか知らないけど、付き合わせちゃってるし。飲み物くらいはおごらせて」

 人生で一度くらいは言ってみたかったセリフだ。今しかないような気がして、突発的な行動に移してしまった。

「ありがとっ。で、放課後何してるのかが知りたい、ってわけ?」

「い、いや、そんなつもりで言ったわけじゃ……」

 深く考えてなかったけど、そういう受け取り方をされるのは想定外だ。

「んー、べつに、なにもしてないよ。だから、こうやって放課後にお仕事じゃない予定があるのって、新鮮で楽しいかも」

「そ、そうなんだ……」

「うんうん、これはほんと。そもそも、誘ったのはわたしだよ? からかってごめんね」

「なら良かった。迷惑だったらほんと、申し訳ないなって思ってたから」

 そう言いながら台本をリュックから出して、ぱらぱらと眺める楠木さん。

 ……すでに付箋が貼ってあるページもあって、朝の『全然覚えてない』が嘘だってことはバレバレだったけど、それを追求する気にはなれなかった。

 楠木さんが遅れてきた青春時代を楽しもうとしているのであれば、できる限り応援してあげたい……と勝手に保護者面のようなことをしている。

「ただいまーっ」

「お、お帰りー」

「ありがとー」

 そんなことを考えていると、瑞希が戻ってきた。

「はいコーラ、はいアイスティー」

 机にペットボトルが三本置かれる。コーラ一本と、アイスティーが二本。

「あ、おそろい?」

 楠木さんがキャップを回しながら瑞希に聞く。

「のどかわいたーって言ったときから、完全にアイスティーの口だった。気が合うね」

 そう言いながらペットボトルを手に取る瑞希。

 俺もコーラをいただくか、とキャップをひねる。

「うわっ!?」

 炭酸が爆発して、手と制服のシャツがびしょびしょに。

「あはは、お急ぎ便だから、許してー」

「おまえ、絶対わざとだろ……」

「だ、大丈夫?」

 ハンカチを差し出してくれる楠木さん。

「あー、拭いても砂糖でべた付くし、流してくる」

「いってらー」

「くっそ、許さん……」

「ただでは沈まないのが瑞希ちゃんなんだよなー」

 腰に手を当てて、がははというポーズで笑う瑞希を横目に教室を出た。おのれ。

 廊下の水道を目指す俺。まだ六月とはいえ、夏みたいな日差しの日が続いているから、帰る頃には乾くだろう。

「やれやれ……」

 ひと通り流して、教室に戻る。

「えーっ、やっぱあれ、いい感じなんだー」

「うん、どうしても肌質によるとこもあるけど、わたしは調子いいー」

 教室のドアを開けると、瑞希と楠木さんが女子っぽいトークで盛り上がっていた。

「こんど、はるかのおうち、行ってもいい?」

「もちろん、瑞希なら大歓迎だよっ」

 なんか、めちゃくちゃ打ち解けてないか?

「「あ」」

 俺に気付いた二人の視線がこちらに向かってくる。なぜか女子更衣室に紛れ込んでしまったみたいな気まずさがあるな。

「た、ただいま……ってか、いつの間にそんなに仲良くなって」

 謎のアウェー感から、ぎこちないあいさつをしてしまう。

「え、ついさっき」

「完全に二人しかいない環境で話すのって、多分はじめてだもんね」

「うん、……ごめん。正直、どういうふうに接すればいいか分からなくて」

「お、応援してくれてたんだもんね」

 俺がコーラを洗い流している間、そんな和解? が行われていたのか。

 変にギスギスされるよりは、そのほうがいいに決まっているけど。

「じゃ、早速……とは言えないくらいグダグダだけど、始めよっか。楠木さんのセリフから、とりあえず読み合わせでも、する?」

 これ以上女子会が続くといたたまれないので、本来の目的にシフトしようと努力してみる俺。

「楠木さん……」

「ん? どした?」

 自分の名前を復唱する楠木さん。

「瑞希とは下の名前で呼び合えるようになったから、せっかくだし、桜庭くんも……」

「ええっ!?」

 急な提案に驚く俺。

 自分でも間抜けな顔をしていた自覚があって、てっきりそれを笑い飛ばしてくれるだろうと思って瑞希のほうを向くと、想像上の俺と同じ表情をしていた。

「ほら、はるかって、呼んでくれると嬉しいな」

「わ、分かった。は、はるか」

 なんともいえない圧に負けて、ぎこちないながらも下の名前で呼ぶことに成功。

「なぁに、悠くんっ」

「ぶっ!?」

 冗談なのはさすがにわかっているけど、それでも、付き合いたてのカップルみたいなやり取りをしてしまっていることに動揺を隠せない。

「そんなに焦らなくていいのに」

「いやいや、焦るって」

「ほら、そろそろ練習始めないと」

 さんざん場をかき乱した楠木さん……いや、はるかの仕切りで練習が始まった。

 経験者なだけあって、短期間でそれっぽい抑揚をつけてセリフを言う方法とかも教えてくれたんだけど、正直あまり集中できなかった。……俺は悪くないと思う。

 そんなこんなで、本番まではまだ時間があるし、クラス全体の練習の他にも定期的に三人でやろうということで、今日のところはお開きになった。


 あれから、定期的に放課後の練習会が行われ、着々と本番に向けた準備が進んでいた。

 俺たち三人は、とりあえずセリフがひと通り頭に入って、明日本番です、と言われてもどうにか対応できるかな、という感じ。

 クラス全体で練習をしたときは、明らかに俺たちだけ気合が入った感じになってしまって、少し恥ずかしかった。

 そんなわけで余裕ができて、練習会と称して放課後に集まりはするけど、なんとなく駄弁って、少し練習して帰る、というのがここ数日続いている。

「あー、すずしー」

 教室に入ったとたん、冷房の操作盤の下矢印を連打する瑞希。七月に入って、冷房の使用が許可された。設定温度も勝手にいじっていいのは、規則がゆるくて助かる。

「お前、下げ過ぎだって」

 さすがに冷房が効きすぎている。

「えー、暑いじゃん」

「暑いなら、まずそれ脱げよ」

 瑞希は夏用の、黒いカーディガンを羽織っている。

「やだ」

「なんでだよ」

「そういうファッションだから」

「いや、機能性を優先すべきだって」

「あー、うるさいうるさいっ、ねー、はるかっ」

 味方を増やそうとする瑞希。三人組が二対一に分かれたら、もうそこで決着がつく。

「暑かったら、脱げばいいと思うよ?」

「だ、だよな!」

「えーっ、そっちにつくのっ!?」

 意外にもはるかはこちら側の意見だ。

「だってほら、わたしもシャツ一枚だし」

「確かに。……勝負をしかけた時点で、負けが確定していたというわけか」

 しゅんとしながらカーディガンを脱ぐ瑞希を横目に、設定温度をもとに戻した。

「でも、もう夏が来たって感じだな」

「もうすぐ夏休みかーっ。何しよっかな」

「とか言って、結局ゴロゴロしてると終わってるんだよな」

 去年の夏休みを思い出す俺。本当に何をして過ごしたのか覚えてないな……。

「夏休み……楽しみだなぁ。こんなに長いお休みっていつぶりだろ」

「あー、ずっと忙しかったのか」

「うん、むしろ夏が一番大変だった気がする」

「そうなんだー」

「ほら、夏はどうしても衣装が薄着だからさ、ちょっと食べ過ぎると体型に出て、バレちゃったりして」

「なるほど……」

 俺の想像の範囲外でも、いろいろと苦労があったんだな……と思う。

「今年の夏はあんまりそういうの気にしないで、ぱーっと遊びたいなって」

「おー、いいじゃん」

「気にするもなにも、じゅうぶん細いくせに……」

 自分とはるかを交互に見比べて、毒づく瑞希。

「だから……」

「だから?」

「もしよかったら、三人でどこか行きたいなー……って」

「いいじゃん、いこいこっ!」

 乗り気の瑞希がはるかの手を取る。俺は、そんな両手に花……みたいなイベントが急にやってきて、うまく反応できないでいた。

「……悠くんも、来てくれたら嬉しいな」

 そんな俺の態度を見抜いたのか、こっちを向いて、はるかは微笑みながらそう言った。

 ……うん、行くしかないな。

 ひとつ、夏休みの予定ができたことを喜びつつ、その後はいつものように練習に励んだ。


 時は少し流れ、本番の前日。リハーサルを終え、あとは当日にむけたステージ作りを残すのみだ。

 いつもの教室が、美術組の手によって舞台に変わっていく。

 はじめはやる気のないクラスだと思っていたけど、案外形になるもんだな、と思いながら作業するクラスメイトを眺めている。

 役者組はリハーサルのあとに解散して、なんとなく教室のほうを手伝ったり、部活の出店のほうに行ったりと、それぞれの活動へと移った。

 俺も教室のほうを手伝うか……と思って移動したけど、もう人員は足りているようで、英気を養うために帰ってもいいよ、という美術組のリーダーの声に跳ね返された。

 ……振り向くと、そこに瑞希とはるかが立っていて、小さく手を振っていたのとは、とくに関係がないことを祈る。

「いやー、ついに明日だねぇ。緊張するーっ」

「いやいや、全然余裕の表情でそんなこと言うなし」

「えーっ、緊張してるよー」

「うそつけえ」

 へらへらと笑うはるかの姿は、誰が見ても緊張とはほど遠い。

瑞希もこういうので緊張しないタイプだというのは知っているから、意外と俺が一番ドキドキしてるかも。

「あ、悠くんは?」

「なんだよ」

「準備ばんたん?」

「まあ、はるかのおかげもあって、それなりに練習したしなぁ」

 リハーサルのとき、クラスのやつらには意外な一面を見せることになった。

「なかなか筋がいいと思うよー。今からでも、演劇部とか入ったら?」

「いやうち演劇部ないから」

 部活がないからこそ、文化祭で発表するのが伝統になったとかならないとか、聞いたことがある気がする。

「えー、そうなんだ」

「はるかこそ、なんか部活、入ればいいのに」

「確かに。特技、バドミントンだよね」

「あー、あれはめっちゃ初期になんか書かないと……って苦しまぎれに書いたやつで……ってよく知ってるね!?」

「古参なので」

「いやー、恥ずかしいな……」

 得意げな瑞希と、珍しく本当に恥ずかしそうなはるか。

「へ、へー。そうなんだ」

 ……実は俺も知ってたけど、知らなかったふりでごまかす。

「てっきり、悠も知ってるもんかと」

「え?」

 やば。

「あ、いや、知らん知らん。似合いそうだなとは思うけど……」

「そんなわけないじゃん、悠から借りたなんか、雑誌だっけ? に載ってたのを読んだはずだし」

「え? 悠くん……」

「ざ、雑誌? 貸したというか、うちにくるたび勝手に持って行ってただろ。いちいち覚えてないって」

 なんとかごまかそうとする。

「へー、瑞希って悠くんち、行ったことあるんだ」

「まあ、幼なじみだし。親同士も知り合いだし」

 話題がそれてくれた。なんとかごまかせたか……?

「えー、両親公認なんだ」

「いやいや、公認て」

 軌道修正に成功したな、と思いながらツッコむ俺。

「えーっ、違うの? 違うなら今度、わたしも悠くんち行きたいなぁっ」

 全然成功してない! はるかが転校してきてから、ポスターとかはなんとなく気まずくて剥がしたけど、本やCDを全部隠しきるのは難しい。

とっさにうまい言い訳をひねり出そうとして脳みそをフル回転させるも、結論が出ない。

「ゆ、悠の部屋はやめといたほうがいいかも。ほら、物が多くて、男の部屋~って感じがめちゃくちゃすごいし」

 パニックになっている俺に、思わぬ助け舟が出た。

「……! そうそうっ、片付け苦手なんだよなぁっ」

「…………ふぅん。じゃあ、頑張って片づけてほしいなーっ。おみやげ持っていくからさ」

 これ以上追求しても無駄だと悟ったのか、あっさりと引くはるか。こういうバランス感覚を見せられるたびに、芸能界で揉まれてきたんだろうな……と思う。

 そんな会話をしながら歩いていると、下駄箱に到着。まだ学校に残って準備をしている生徒がほとんどなので、なんだか早退しているような気分だ。

「じゃあ、また明日。頑張ろうね!」

 校門ではるかと別れて、瑞希と二人になった。

タイミングが合えば一緒に帰ることもあるけど、割と久しぶりな気がする。

「さて、我々も帰りますか」

「…………」

 小学校に入ったばかりのころは毎日一緒に帰っていたけど、急にからかわれるようになって、それから同性の友達と帰るようになったんだっけ、と昔を思い出す。

 明日からは一緒に帰れない、ごめんと伝えたとき、瑞希がその場で大泣きしてしまって、女の子を泣かせるな! って母さんにめちゃくちゃ怒られたんだよな……。

「ちょっと、あたし一人じゃ不満ってわけ? 無視すんなっ」

「ごめんごめん、昔のこと思い出してた」

 軽く蹴りを入れられる。ぼーっとしてたかも。

「昔のこと?」

「ほら、明日からは一緒に帰れない、って言ったら、瑞希が大泣きしたときの」

「いらんこと思い出すな、ばか」

 さっきよりも一段階強い蹴りを入れられた。

「いやいや、かわいい思い出じゃん」

「うるせーっ。封印しろ封印」

「了解。いつまでも、俺の心の中に…………」

「あーっ、やっぱ忘れろっ」

「へいへい」

 瑞希は適当にからかっているときがいちばん輝いているんだよな、と思いながら歩く。 徒歩通学できるくらいには家と学校が近いので、通学路は幼いころからなじみのある町並みだ。

「ねー、悠?」

「なに?」

「今日、このあと時間ある?」

「うん、あるけど……」

「悠んち、行っていい? ……さっき話してたら、久しぶりに行きたくなったかも」

「え……いいけど、ほんとに久しぶりだね」

 急になんだろうと思ったら、意外な申し出だった。

「い、いやぁ、特にこれといった用事はないんだけど……あ、今日準備で学校残るかなって思ってバイト休んでるから、そのまま帰るのはなんかもったいないというか」

「今日誰もいないし、いいけどさ」

「やたっ」

「じゃあコンビニ寄って、お菓子とか買ってくかあ」

「りょうかいー」


 コンビニでお菓子とジュースを調達して、我が家へ。両親ともに働きに出ていて、夜まで帰ってこないはずだ。

「おじゃましまーす」

「あーい」

 ドアを開けて瑞希を先に入れたから、順番が逆転している……と思いつつ靴を脱ぐ。

「二階の俺の部屋で待ってて」

「はーい」

 たまたま昨日掃除していて良かった。急な来客にも対応できているのが、余裕がある男という感じでかっこいいかもしれない、と思いながらコップにジュースを注ぐ。

 十年以上使っているコップだから、よく瑞希が来ていた頃と比べると小さく見えるような気がするな、と思いながら階段をのぼって自室へ。

「すまん、両手ふさがってるから開けてくれ」

「うい、ありがとー」

 部屋に入ると、中心に折り畳みテーブルが準備されていた。これもずっとうちにあるやつだな……。

「ふう……」

 ベッドに座ってひと息つく。瑞希には座布団を出した。

「乾杯しよ、乾杯」

 コップを二つ持って、片方を渡してくる瑞希。

「いいけど、何に」

「んー、明日の白雪姫の成功を祝って、とか」

「気が早すぎるだろ」

「まあ、なんでもいいっしょ。乾杯したいから乾杯しよーよ」

「おけ」

 頭を使っていない会話ののち、二人のコップが音を立ててぶつかる。長い付き合いだからできることだよなぁと思う。

「あ、これ四月号で止まってる」

 部屋をきょろきょろと眺めて、俺が買うのをやめた雑誌を手に取る瑞希。

「……はるかの連載が読みたくて買ってたから」

「あー、確かに。急に打ち切りになったもんね」

「うん。……そこしか読んでなかったし」

 どちらかといえば女性向けの雑誌だったゆえに、よっぽど暇なときにパラパラと眺めるくらいだった。

「こんな彼氏はいやだ! 特集だってさ」

「だから、読んでないから知らんって……」

「普通の男子はこういうの読まないだろうし、周囲と差をつけることが可能なのではないでしょうか」

 メガネをくいっと上げるしぐさをする瑞希。

「いや、差をつけてどうなるんだよ」

「え。そりゃあ、アレだよ……」

「どれだよ」

「差をつけて、そのままゴールイン」

「い、行き過ぎだろ。勢いだけでゴールインは危ないって」

「冗談だってば」

 けらけらと笑う瑞希。

ポテチの袋を開けて出すと、待ってましたという顔で、ぽりぽりと食べ始めた。

本当にうまそうに食べるな……と思いながらそれを眺める俺。

「そういえばさ」

 俺もポテチをつまみながら、瑞希に問いかける。

「ん?」

「はるかとさ、急に仲良くなってたじゃん。すごいなーって思ってさ」

 はじめての練習会のときだったっけ。

「えー、そうだっけ?」

「うん、確か俺がコーラを洗い流しに行って、教室に帰ってきたら、なんか打ち解けてた」

「あー、そうだったかも。でも、本当にこれっていう理由はない気がする」

「そうなんだ」

「それで言ったら、悠こそはるかと仲いいのが不思議なんだけど」

「そ、そうか? ……そうかも」

 これまでの人生、掃除当番が一緒だっただけで誰かとこんなに親しくなったことはなかった。

 まして、応援していた元アイドルで、俺はそういうときに緊張して話せなくなるタイプだと思っていたのに。

「やっぱ、人をひきつける才能、ってやつがあるのかもなー」

 瑞希がそうつぶやいたと同時に、俺のスマホが振動した。

「あ、噂をすれば」

 はるかからのメッセージの通知だ。

「へー、文通もしっかりやってる、と……」

「そんな、たまたまだよ」

 そう言ってスマホの画面を落とす。

「え、返さなくていいの?」

「いや、いま瑞希が家に来てるし。緊急の用事なら電話かけてくるだろうし」

「……やっぱあの雑誌、毎号ちゃんと読んでたんじゃないの?」

「何のことだよ、読んでねえよ」


 その後、そろそろ母さんが帰ってくる時間になり、じゃあそろそろおいとましようかな、と瑞希は帰っていった。

 はるかからメッセージが来ていたことを思い出し、アプリを開く。

『もう帰ってきたかな?』

 だいぶ時間が経ってしまって、少し返しにくい。

断ったその日に瑞希が来ていたとも言いにくく、寄り道してた、と適当にごまかしてもいい気がしたけど、正直に、

『ごめん。家に瑞希来てたから、見てなかった』

 と打ち込んだ。

……なんとなく、これ以上は嘘をつきたくない気がした。

『えーっ、わたしは入れてくれないのにっ』

 すぐに既読が付いた。返信はやっ。

『瑞希は昔よく来てたから……』

『わかってるって。でも、そういうのってうらやましいな』

『まあ、ずっと一緒に育ってきた、みたいな感じだからな……』

『わ。それ、言ってみたいセリフだ』

『いやほんと、たまたま近所で産まれただけで……って、これも割とそうかもな』

『うんうん、で、悠くん、今時間ある?』

『あるけど、どうした?』

 そう打ち込むと、はるかからの着信。びっくりしつつ、出る。

『あ、もしもーし』

『もしもし』

『へへ、文字を打ち込むより、話すほうが楽だったりして』

『……そう? やっぱりコミュ力高いよな、はるかって』

『ええっ、そうかなあ』

『いや、ちょうどさっき、瑞希とそういう話しててさ』

『二人とも、わたしのいないところで、わたしの話とかするんだ……』

『変な話とかはしてないから安心してくれ』

『ほんとかなー。……で?』

『俺も瑞希も、気付いたらはるかと仲良くなってたよなって話、してたんだけど』

『そうだっけ?』

『そうそう、その、いつ仲良くなったんだっけ? って思うのがすごい気がしてさ。つい最近知り合ったばっかなのに』

 まあ、こちらからは一方的に見ていたんだけど。

『そんな、たまたま話すきっかけがあっただけだと思うけどなー』

『うん、そのきっかけを残さず形にできてるのがすごいっていうか、人を惹きつける才能? なのかなーとか、そんな話をしてた』

『…………』

『あれ、もしもし?』

『あっ、ごめん! うーん、そうなのかもしれないけど、分かんないや』

『まあ、目に見えるもんでもないしな……』

『……さっきも言ったけどさ、わたしからしたら、悠くんと瑞希がずっと仲がいいのもすごいよ』

『いや、だからそれはたまたまで……』

『ううん、最初はたまたまだったかもしれないけど、ここまで十何年もずっといっしょにいるのが、すごいなあって』

『それは確かに、そうかも』

『うんうん、わたしにはそんな友達いないしさ』

『そっか……』

『あー、ごめんごめん、なんかネガティブな話しちゃった』

『全然、そんなことないよ』

『いやぁ……』

『そういえば、どうして連絡くれたの?』

『あ……。う、うん』

『どうした?』

『実は、悠くんに伝えたいことがあって』

『え、なに?』

 これまでとは違って、一回り真剣なトーンのはるかの声に、思わず身構える。

『悠くん。わたしと、付き合ってください』

『え……?』

 何を言っているのか分からず、思わず聞き返す。

『好きです。付き合ってください』

『お、俺のことが……?』

『…………うん』

『えっと、その…………』

 はるかに告白された、という事実は認識できたけど、それだけで俺の処理能力は限界を迎え、なんて答えればいいか分からなかった。

『…………急に、ごめんねっ。へ、返事は、悠くんのタイミングで大丈夫だからっ。それじゃあ、おやすみっ』

『あ、ああ……』

 気づいたら電話が切れていて、少しずつ冷静な自分を取り戻してきた。

 ……状況を、整理しよう。

 たった今、はるかに……告白されたんだ。

 それで、俺はパニックみたいになって、結局返事を待たせている状態。

 ……あれ?

 なんで俺、返事を待たせているんだ?

 よろしくお願いしますって一言だけで、カップルが成立したはずなのに。

 告白された瞬間に頭が真っ白になったのはまだ分かる。でも、さっきよりも冷静になった今、折り返しの連絡を入れればいいはずなのに、体はそういうふうに動いていない。

 ……そのかわりに、思い浮かぶ顔がある。

 その後、はるかには『明日の放課後、直接伝えます』とメッセージを入れた。


 翌日、文化祭当日。

 昨日はあの後、精神的ガス欠を起こしたみたいで、泥のように眠った。

 そのぶんいつもより早く目が覚めて、あわててセリフの最終確認をする。

 昨日の衝撃で全部忘れていたらどうしようと思ったけど、こつこつとした努力が実を結んだのか、問題なく覚えていた。

あとは本番で出し切るだけだ、と思いながら登校。

 いつもより早く着いたので、まだ教室には人がまばらだ。

「あ……。悠くん、おはようっ」

 俺が教室に入ると同時に、はるかが声をかけてくる。

「お、おはよう」

 まだ来ていないと思っていたから驚いたけど、なんとかあいさつを返した。

「今日は早いね。……本番、頑張ろうねっ」

「お、おう。あ、あのさ……」

「……あーっ、うん! 答えは、文化祭が終わってから、お願いしてもいいかな?」

 今はこれ以上何も言わせないぞ、という意思を感じる笑顔のはるか。

 ……俺も、放課後よろしく、って言いたかっただけだから、ちょうどよかったけど。

「わ、わかった」

「よし、じゃあいまは切り替える。出席確認まで、最後の練習、しよ?」

 そんなわけで、担任の先生が来るまで、最終確認を兼ねた練習をした。


「はい出欠取るぞー、あ、今日はみんな座ってないからわかりにくっ。多分全員いるよな……」

チャイムが鳴ったと同時に入ってきた、いつも通り適当な漆原先生が出席簿を記入しているときに、教室のドアが開く。

「……すいません、遅れました」

「鷺原、遅刻だぞー。でも、出席簿直すのめんどいからギリギリセーフってことで。それじゃ、文化祭がんばってなー」

 瑞希と入れ替わりで教室を去っていく漆原先生。

「おはよー。どうした、寝坊か?」

 ……どうするべきか迷ったけど、なるべくいつものトーンで瑞希に声をかけに行く俺。

「……いや、ちょっと」

「?」

「あーっ、ごめん、なんでもないっ」

 見るからになんでもなくない様子の瑞希。

「いやっ、なんでもなくなさそうだけど……」

「っ……! うん……なんでもなくないっ」

「ど、どうしたんだよ」

「なんでもなくない、なんでもなくないからっ、悠に、話があるの。だから、あとで、時間ちょうだいっ!」

 そう言って、逃げるように走り去っていく瑞希。


 瑞希のことが心配になりつつも、開演の時間は着々と近づいている。

 美術組が用意してくれた衣装に着替えて、宣伝のプラカードを持って校内を練り歩く役割を任せられていた俺に自由時間はなく、瑞希を追うことはできなかった。

 今考えてもどうにもならないことだと割り切って、まずは一人でも多く観客を動員するために宣伝に集中しようとしても、俺の脳みそはそれを許してくれない。

 口からは「2Bの白雪姫、お願いしまーす」と決まり文句が定期的に吐き出されるけど、頭は瑞希と……はるかのことでいっぱいだ。

 気づいたら開演二十分前を回り、客引きから引き上げる時間になっていて、急いでクラスに戻った。


 舞台は、一度始まってしまえば止まらない。

 覚えたセリフ、覚えた動きを順番に表現していけば、演技の巧拙はあれど物語が進む。

 練習の甲斐あってか、身体が覚えているという感じで、先ほどまでの動揺が嘘のように、冷静に王子様役を演じていた。

 そして、クライマックスのキスシーン。練習のとき、いつもここだけは緊張して、たまにセリフを飛ばしたりしてしまっていた。

 棺で顔がうまく隠れるのを利用してくちびるを近づけるだけなんだけど、目を閉じてキスを待つはるかの無防備な姿を見ると、昨日の告白がフラッシュバックする。

 でも本番は、不思議と緊張しなかった。

 俺が首を動かして、キスをする演技をすると、はるかの目が開く。

 ……起き上がってセリフを言うまでの一瞬、はるかがどこか安心したような顔をしていたのは、俺以外の誰も知らない。


 「優勝は、2Dの不思議の国のアリスです!」

 講堂に歓声が巻きおこる。

 文化祭の一般公開が無事終了し、講堂で閉会式が進行中。

 そしてたった今、クラス演劇の人気投票結果の発表が行われている。八クラス中上位三クラスが表彰されるんだけど、うちは残念ながら選外だった。

 気合の入っているクラスだと四月から話し合いを重ねているのもあってか、元アイドルが主役を演じたくらいでは入賞できなかった。

 閉会式のあとは、片付け作業に移る。といっても、演者組は大してすることがなく、各自解散という雰囲気だ。

 そんな中、俺は第二体育倉庫前へ向かう。

 ……はるかをそこに呼び出したからだ。

「ごめん、待たせた」

 到着すると、すでにはるかはそこで待っていた。

「ううん、さっき来たばっかだよ」

「……本当に?」

「んー、ちょっとうそ」

「待たせてんじゃん」

「あ。つい、本音が」

「ごめんって」

「ううん、いいのいいの」

「……あの。じゃあ、さっそく、本題に」

「…………入らなくていいよ」

「……え?」

「だって、言われなくてもわかるし」

「……そんな。むしろ、俺からちゃんと言わせてほしい」

「……そっか」

「……ごめん。はるかとは付き合えない」

「うん。……知ってた」

「あと、もう一つ、言わなきゃいけないことがある」

「……え。なにかな」

「実は、はるかのファンだったんだ。テレビとか雑誌とかで見る、アイドルのはるかの」

「……!」

「はじめてちゃんと話したとき、恥ずかしくて言い出せなくて、そこから訂正できなかった。……ごめん」

「じゃ、じゃあ、応援してたアイドルに告白されても、振るんだ」

「……うん」

「あーっ、ごめん。今のは性格悪かったねっ」

「いや、そもそも、俺が隠し事をしてたのが悪いって」

「ううん。だって、隠し事をしてたのは、わたしも同じだから」

「……どういうこと?」

「今日、瑞希から話があるって、言われてるでしょ」

「あ、ああ。それが?」

「昨日、悠くんに電話した後、瑞希にも連絡したんだ。……悠くんに告白したって」

「な、なんで、そんなことを」

「うーん、なんでだろ。……ずるいかなって、思ったからかも」

「ずるいって、何がだよ」

「悠くんに告白したとき、すぐにうんって言ってもらえるかな、って思ってて。でも、実際はそうじゃなくてさ。その間、きっと瑞希のことを考えてるんだって思って、伝えなきゃって気持ちになった」

「……うん。瑞希のこと考えてた」

「やっぱり、そっか。……じゃあ伝えてよかったな」

「伝えてよかったって、どうして」

「もしかしたら、やっぱりわたしと付き合っておけばよかった、なんて勘違いしちゃったりするかもしれないじゃん。応援してくれてたんなら、余計にそうだよ」

「そんな……」

「だからさ。ほら、ここですっきり終わらせて、始めてほしいなって」

 はるかがそう言ったと同時に、倉庫の陰から人影が現れる。

「瑞希……」

「えへへ……。はるかからここ聞いて、隠れてました。で、悠に伝えたいことがあります」

 そう言って、俺の目の前まで歩いてくる瑞希。

「俺も。瑞希に言わなきゃいけないことがある」

「……そうなんだ。じゃあ、せーので言おっか」

「ああ」

「「せーの」」

 呼吸を合わせる。

「「好きです」」

「うわっ!?」

 言い終えた瞬間、瑞希がこちらに抱きついてくる。

「……よかった、ほんとに、よかったぁ……」

 俺が受け止めたと同時に、瑞希から涙がこぼれる。

「俺も……良かったよ」

「ううっ、はるかから連絡きたとき、やられたっ! って思ってっ。そんな、ぜったいあたしなんかより、はるかのほうがいいに決まってる、なんでわざわざそんなことあたしに言ってくるのって、わからなかったの……」

「うん……」

「でも、そのあとはるかに、まだ返事はきいてない、明日の放課後、って言われて。……見えないとこで失恋するまえに、終わるまえに、自分で決めたいと思ってさ。なんとか朝、悠に話があるって言えてさ……ほんとによかったよおおっ」

 涙が決壊して、ぐちゃぐちゃになった瑞希を支える。

 ……絶対に、離したくない。

「ねえ、ほんとに、あたしでいいの?」

「うん、ほんとに」

「……ほんと?」

「うん。……いや、瑞希で、じゃなくて瑞希がいい」

「ゆ、悠っ……。胸がドキドキして、止まらないよ……」

 さらに体重を預けてくる瑞希を抱きしめる。

「俺も……こんなに近づくなんてなかったから、ド、ドキドキしてる」

「いっしょだ」

「ああ……」

 この時間がずっと続いてほしい、と思う。

 思うけど、まずはけじめをつけないといけないんだ。

「はるか」

「……なにかな。……もう、わたしは帰ろうかなって、思ってたんだけど」

 そう言って、俺に背を向けるはるか。

「ありがとう」

「……」

「はるかに告白されなかったら、自分の気持ちに気付けなかった。だから、ありがとう」

「ありがとうじゃ……ありがとうじゃないよ」

「ああ……」 

 なんて言ったらいいのか分からず、でも、なるべく正直に気持ちを伝えたかった末の言葉だ。否定されて当然だと思った。

「ううん、ありがとう、なんて言われるようなこと、してないから……。ただ、悠くんともっと仲良くなりたくて、気付いたら告白してただけ」

「……」

「わたしね、誰とでもそれなりには仲良くなれて、それでお仕事の人間関係もうまく行って。でもそれってアイドルとしてのわたしが人気者なだけなんじゃないか、って考えると、怖くなってて。気付いたら、マネージャーさんにもうやめたいって伝えてた」

「そう、だったのか……」

「だから、普通の学校で普通の友達を作るのにあこがれて。悠くんと仲良くなって、楽しいなあって思ってた。悠くんがきっかけで、瑞希とも仲良くなってさ。瑞希、アイドルの私は好きだったけど、急に引退したのは好きじゃないって、はっきり言ってきたんだよ。……でも、それがうれしかった」

 瑞希とはるかの間にそんなやりとりがあったということも、知らなかった。

「そういうの関係なく、クラスメイトとして友達になろうって言ってくれて。……それで、楽になった。ふつうの女の子になれた気がしたんだ。……そしたらさ、わたしも恋とかしてみたい! って思って。それで、いちばん身近な男の子だった悠くんに、気付いたら告白してた」

 そう言いながら、申し訳なさそうな顔をするはるか。

「……なんか、誰でもよかった、みたいに聞こえるかもしれないけど……。ううん、誰でもよかったなんてことは絶対ない。でも、正直まだ、よく分からなくて。だから、さっきも言ったけど、すぐに返事をもらえなかったときに、ああ、違うんだなって、思ってさ。そしたら、瑞希の顔が浮かんで……」

「はるか……」

「……二人とも、ほんとに、ごめんね?」

「……ううん。謝らないでほしい」

「そ、そうだよっ。はるかとは、ずっと友達でいたい」

「瑞希……」

「夏休み、三人で遊びに行くって約束、忘れてないからっ」

 そう言って、はるかを抱きしめる瑞希。

「っ……。ありがとね……っ」

 その日、俺に彼女ができた。

 

 夏休み。

「いやー、久しぶりに来たねぇっ」

「ほんと、十年ぶりくらいか……」

 俺と瑞希は、水族館に来ていた。

小さいころの週末は、うちの親と瑞希の親が交互にどこかに連れて行ってくれていて、そのころの定番目的地のひとつだ。

……今回は、はじめてのデートとしてやって来た。

「お、名物のイルカショー、まだやってるんだね」

「……そ、そうだな」

「あれ? あんま乗り気じゃない?」

「い、いや、大丈夫。整理券とっとこうぜ」

 受付のお姉さんから整理券をもらう。

「あーっ、思い出したっ。昔、一番前で見るんだって張り切ってた悠、びしょ濡れになって泣いてたよねっ」

「あ、あの頃はまだ泳げなくて、水が怖かっただけだし……」

「あはは、泳げなくてもあのくらい、平気だってば」

「じゃあ、今日も一番前で見るか。リベンジしてやるよ」

「えーっ、普通に真ん中くらいでいいよ」

「俺の名誉を回復させてくれよっ」

「……いや、その、万が一、めっちゃ濡れてメイク落ちたらやだし」

「あ……っ。そっか、それは……ごめん」

「もーっ。そういうとこ、直してこ?」

 想定外かつ反論できない理由に引き下がる俺。集合したとき、まずは触れなきゃいけないところだったなぁ……という反省も同時に行われた。

「てか、どうかなっ」

 そう言って、くるんと一周回ってみせる瑞希。

 これは……名誉挽回のチャンス。

「スカート、あんまりはかないイメージだったけど、めっちゃ似合ってるよ」

「お、そこはちゃんと気付けるじゃん。あ、ありがとっ」

 見慣れた制服のスカートとはちがい、より女の子らしさの強い感じで、素直にかわいい。

「なんか、俺はいつもどおりなの、申し訳ない気がしてきたな」

「じゃあ、今度は服買いにいこうよっ。選んであげるからさ」

 そうやって、早くも次に会う約束が決まる。

 こういうのを堂々とできるようになって、やっと瑞希と付き合い始めたという実感がわいてくる気がするな……。

「うわ、すごーいっ」

「ほんとだ……」

 特大サイズの水槽の中を、いろいろな種類の魚たちが優雅に泳ぐ。

 小さいころの記憶だからあんなに大きいんだと思っていたけど、今見てもじゅうぶん大きいんだな……と思う。

 でも、隣にいる瑞希はあの頃とは違って、気付けば幼なじみから彼女になっていた。

 ここに来た当時の俺に、瑞希と付き合ってるぞ、なんて言ったらめちゃくちゃ驚くんだろうな。いや、そもそもあの頃はそういうことを意識してなかったか、などと考えていると、

「……あ、あたしのこと見すぎっ」

少し恥ずかしそうな瑞希に、首を90度回転させられる。

「そ、そんなに見てた?」

「見てた見てた、めっちゃ見てた」

「えーっ、ほんとに?」

「うん。あそこの魚たちみたいに、人に見られる気持ちを強制的に味わうことになった」

「どうだった?」

「どうって……あんま良くないっ、いや、TPOによるというかっ……。とにかく、恥ずかしいってばっ」

 少しだけ大きくなった瑞希の声で、周囲の注目が集まる。

 子連れの夫婦からは、若いっていいわね、みたいな声が聞こえて、俺も少し恥ずかしくなってきたな……。


 騒がしいカップルこと俺たちは、イルカショーを観た後、そろそろお昼でも食べようか、と館内のレストランに入った。

「いやー、結局びしょ濡れだ……」

「真ん中でこれなら、最前列に座ってたら大変なことになってたな」

「まあ、十年もあればあれだけ進化するもんか……」

「いやいや、さすがにあれはおかしいって……」

 十年の年月によって徐々にハイレベルなショーに進化していったようで、イルカたちのジャンプの高さに比例するように水しぶきも激しくなっていた。

ギリギリまで展示を見ていた俺たちが急いでショーの会場に入ると、他の観客全員がレインコートを装着していたもんな。

 そんな話をしていると、注文した料理が届く。俺はカツカレー、瑞希は明太子パスタだ。

「おいしそー、いただきまーす」

「いただきまーす」

 向かいでパスタを巻いて口に運ぶ瑞希を眺めながら、俺もカレーを食う。思ったよりもスパイスが利いていて、本格的……いやけっこう辛い。

「おいしいねっ」

「うん、うまい」

 そのまま食べ進めていると、こちらを見ている瑞希の視線に気づく。

「じー…………」

「な、なんだよ」

「さっきのお返し」

「そんなに見られてると、なんか緊張して食べにくいって」

「だから、さっきのあたしの気持ちも味わってもらうぞっ。カレーといっしょにさ」

「そんなことしてないで、自分のぶん食えよ……」

「もうぜんぶ食べちゃったから」

 そう言って空っぽの皿を見せてくる瑞希。

「はやっ」

「悠がカレーを食べるのをひたすら見る業務に集中できるというわけです」

「そんな業務は存在しないってば」

 瑞希に見守られながら完食したところで、セットのコーヒーが遅れてやってくる。

「お腹いっぱいだー」

「ああ、けっこうボリュームあった」

「あ、いい眺め」

 コーヒーをストローで飲みながら、窓の外を見る俺たち。オーシャンビューに気付いたのが飯を食ったあとなのは、食い意地の張ったカップルだったなと思う。

「せっかくだし、行ってみるか?」

「お。いいねー」

 小さいころは一日かけて水族館を端から端まで探検していたので、すぐ近くの海まで行く時間と元気は残っていなかったんだよな。


「わーっ、ここまで来ると風つよっ」

 水族館を出て、海までやって来た。遊泳が許可されているところではないので、見渡しても人はまばらだ。

「ほんと、でも涼しくてちょうどいいな」

「うん、気持ちいいかも」

「やっぱり、目の前に大海原が広がってるのを見ると、開放的な気分になってくるな……」

 なんてつぶやいている間に、瑞希は走っていってしまった。

「待ってくれっ」

「いやー、そこに海があるから、待てないよ」

「それ、山に登る人のセリフだろ」

「そうだっけ? まあどっちでもいいよーっ、えいっ」

「うわっ!」

 瑞希に海水をかけられる俺。

「へへ、悔しかったらこっちまでおいでっ」

「くそっ、俺はスニーカーなのに……」

 瑞希はサンダルで来ていたので、抵抗なく入水している。

「こうなる未来が見えてたから、サンダル履いてきたんだもんねっ」

「エセ超能力者め」

 こうなったら、予想外の未来を現実にするしかない。

「うおおおおおおおっ」

 靴の中水浸し覚悟のダッシュで、瑞希のもとへ一直線の俺。

「わっ、そんなの聞いてないっ」

「言ってないから、当然っ。うおりゃあ…………」

 渾身の一撃を食らわせようとしたところで、手が止まる。

「うわああああっ、って、あれっ?」

「いやあの、メ、メイク落ちたら嫌かなって」

 朝のやりとりを思い出したからだ。

「え? あはは、あたしから先にしかけたんだし、気にしなくていいのに」

「な、なんだよそれ」

「ちゃんと殴られる覚悟を持って、殴ってますから。どっちにしろショーで一回濡れちゃったし」

「き、気を遣って損した……」

「……でも、悠のそういう優しいとこ、嫌いじゃないよ」

「み、瑞希……」

 なんだかいい雰囲気に持ちこめた気がする。

「っと、油断したところで、あたしのターン、反撃開始っ」

「ひ、ひきょうだっ!」


「いやー、結局どっちもびしょびしょだな……」

「乾かないと、帰りの電車乗れないね」

 ひとしきり遊んだあと、海沿いのベンチに腰かける。

 ちょうど日が沈む時間で、水平線に夕日が吸い込まれていくのが見える。

「きれいだな」

「うん、なんかロマンチックかも」

 そう言って、隣に座る瑞希がこちらに寄りかかってくる。

「……疲れた?」

「んー、疲れた。でも、楽しかったなあ」

「俺も」

 腰を落ち着けた瞬間、心地よい疲労感に包まれていた。

「また来たいな。来年の夏休みも、まずはここにしようよ」

「気が早くない?」

「そう? 一年なんてすぐだよ」

 来年も一緒にいるというのが当たり前、という口ぶりの瑞希。

 ……素直にうれしい。

「……そうだな、また来よう」

 瑞希と過ごす一年間を想像すると、思わず笑顔がこぼれる。

「あ、笑ってる」

「いやぁ、これからが楽しみだなって」

「えへへ、あたしも楽しみ。……今、めちゃくちゃ幸せかも」

「俺も」

「……帰りたくないなぁ」

「お母さん、心配するんじゃない?」

「悠といるって言ったら大丈夫だよ、たぶん」

「いやぁ……そんなことは、まあないとは言えないけど」

 瑞希のお母さんとも長い付き合いだからな……

「じゃあ、今夜泊まれるとこ、探そうよ」

 そう言って、スマホを操作しだす瑞希。

「いやいや、ちょっとそれは、もう少し段階を踏んで、というか……」

「えーっ、いいなと思ったのに」

「ごめん、まだ俺の覚悟が足りてない」

 ちょっとダサい自覚はある。

「……よしっ。じゃあ今日はまず、こんなところから、かなっ」

 そう言って立ち上がった瑞希が、俺の唇を奪った。

「んっ、ちゅっ……」

 一瞬何が起きたのか分からなかったけど、触れたことのない唇のやわらかい感触と、漏れてくる甘い吐息が俺の脳みそを刺激する。

「瑞希……」

「……へへ、まずはキスから、ねっ」

 唇を離したあと、俺のほうを向いてはにかむ瑞希。

「瑞希……好きだ」

 立ち上がって、思わず瑞希を抱きしめる。

「……っ! あたしも……すき」

 瑞希の温もりを感じる。……あたたかい。

 我慢できなくて、今度は俺から瑞希に唇を重ねる。

 ……気付いたら、そうしていた。

「っ! ちゅうううっ、んっ、んふっ……」

 瑞希のほうも、俺の唇を捉えて離さない。

「ご、ごめん、つい……」

「んはぁっ、いいんだよ。好きなだけ、いいよ。……あたしも、もっとしたいし」

「ああ……」

 

 気がつく頃には、あたりはもう真っ暗になっていた。

 さすがに帰らないと、ということで並んで歩く。

 お互いに疲れているのもあって会話はないけど、手はがっちりと繋いでいる。

 手の温もりは確かに感じているから、沈黙がかえって心地いい。

 このあたたかさを守っていきたい、と思いながら、俺たちは家路についた。


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俺と幼なじみと、元アイドル。 鈴鳴りん @sabayaaan

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