百八十七 絡み合う意図
公国の使者との会談後、見送りを済ませたシャトラークは再び応接間のソファに身を沈め、思わず脱力していた。
「……ふう。商談でこれほど緊張したのはいつぶりだろう」
額に浮かんでいた汗を袖口で拭い、ぽつりと呟く。
会談中は努めて平静を装っていたが、黒髪の少女が振るった目にも止まらぬ剣技は、彼の心を強烈に捕らえて離さなかった。
可憐な容姿からは想像もつかない鋭利な恫喝は、思い返すだけで身震いしそうになる。
動揺を抑えるべく深呼吸を繰り返していると、不意に中庭へ面した窓がかたりと開き、細身の影がするりと室内へ入り込んできた。
「ふふん。女の子に
床に降り立つと同時に楽し気な声を発したのは、鮮やかな薄緑色の長髪と、同色に染めた革鎧が目を引く若い女性。
常人離れした美麗な面立ちに、先の尖った特徴的な長い耳。
エウロア大陸北方の森林地帯に多く住む亜人種、エルフ族だった。
彼女の来訪を予期していたシャトラークは、驚きもせず肩をすくめる。
「ウルは間近にいなかったからそんなことが言えるのさ。おしとやかに見えて、とんでもない迫力だった。海賊と交渉した時だって、あれほど肝が冷えたことはない」
「確かに、堂に入った脅しぶりだったね」
名を呼ばれたエルフはくすりと微笑し、手の平をそっと差し出した。
するとその上へ、蝶に似た羽根を持つ、半透明の小人がゆらりと現れる。
エルフは他種族とは異なる独自の魔法を扱う。一般に精霊魔法と呼ばれ、自然に由来する力を使役するものだ。
小人はそれによって召喚された、シルフという精霊であった。
ウルは風を司るシルフを通じ、応接室の会話を遠方で聞いていたのだ。
「可愛い子と見れば、後先考えずに粉をかけるのは君の悪い癖だ。これに懲りたら、相手はよく選ぶといい」
「あそこまで美しいとは聞いてなかったからね。口説かないなんて、私の信条に反するよ」
まったく悪びれないシャトラークに、ウルは軽くため息をついた。
「やれやれ。呑気だね。これを見てもそんなことが言えるのかい?」
おもむろに壁に近寄り、手の甲でこつりと叩く。
するとたちまち壁全体にびしりと無数の直線が走り、次の瞬間には調度品諸共細かな破片となって崩れ落ちた。
「……は?」
シャトラークが目をむいて驚愕する間に、埃に混じってつんと鼻を刺す異臭が部屋に充満してゆく。
額縁のように切り抜かれた壁の向こう側。
隣室に散らばった、二十余りにも及ぶ人だったものの成れの果てが視界に映る。
壁ごとばらばらに刻み尽くされたそれらが発する猛烈な血臭が、応接室に流れ込んできたのだ。
「何事だこれは!?」
「遠目に観察していたから、辛うじて軌跡が見えた。君の
「……あの一瞬で」
想像すらしなかった次元の技を見せ付けられ、こみ上げた吐き気さえ忘れて絶句するシャトラーク。
目の前で起きたことだと言うのに、まるで夢の中の出来事のように現実味がなく、理解が追い付かない。
「警告というのも、むしろこちらに対してだったんじゃないかな。初めから伏兵に気付いていたんだろうね」
参った、と言わんばかりに両手を広げるウルの声は、シャトラークの耳を素通りしていた。
先程の会談で、シャトラークは意図的に伏せていた事柄がある。
評議国はすでに帝国から降伏勧告を受けており、賛成多数で可決する寸前であった。
そこへ黒衣の少女が率いる公国使節団が訪れ、議会は審議を一時差し戻した。
大陸において、和国人は珍しい。それが公国に属する少女となれば、件の英雄、帝国が言うところの悪魔に違いないと確信し、一計を案じることとなった。
会談の場を設けて少人数で誘き出し、少女を捕縛して帝国へ取り入る手土産にしようと画策したのだ。
成功すれば、より有利な条件で和平を結べよう。
いかに手練れとは言え、友好国による奇襲には対応できまいという思惑の元、応接室の隣に伏兵を忍ばせ、屋外に狙撃手を配置し、隙を見て奇襲する手はずを整えて臨んだ会談であった。
しかし、結果はどうだ。
襲撃を実行する以前に、大金を積んで雇った腕利きの傭兵達が、こうも容易く皆殺しにされるとは。
想定が甘かったことも否めないが、あの少女はあまりにも常軌を逸していると言う他ない。
「君が余計な話をして機嫌を損ねなければ、彼らは死ななかったかもね」
ウルの皮肉めいた言葉を受けて、我に返ったシャトラークは唐突にげらげらと笑い出した。
「……驚き過ぎておかしくなったのかい?」
「いやいや! あっははは! まさか
怪訝そうに眉をひそめるウルに、目元へ滲んだ涙を拭いながら答える。
評議会は複数人からなる合議制である特性上、決して一枚岩ではない。
使者にも語った通り、彼自身は抗戦派であり、降伏派の古参議員が立てた
「ここまで大胆不敵なお嬢さんは初めて見る。本気になってしまいそうだ」
「あれだけ派手に振られたのによく言うよ。それで、追っ手はどうする? 今なら先回りして船を押さえられるだろうけど」
「いや、必要ない」
宙に舞った埃を払いのけながら問うウルに、シャトラークはきっぱりと言い切った。
「やられっぱなしでいいのかい? 明確な武力行使だよ」
「こちらも罠を張っていたんだ。お互い様さ。兵の損失は痛いが、彼女の技量を知る授業料だと思えばいい。大体、主力部隊は国境に配置していて、
「町がこの部屋と同じ有り様になるだけだろうね。ふふ、見逃してもらえたのをよく理解してるじゃないか。思ったより冷静なようで安心したよ」
「こいつめ、試したな」
今しも多くの部下が惨殺されたばかりだというのに、平然と笑い合う二人。
命を商品とする傭兵など、替えの利く駒でしかないと割り切っているのだ。
「何にせよ、せっかく協力を取り付けたんだ。白紙になっては困る。君も、強引にことを進めればただでは済まないと思って撃たなかったんだろう?」
そう言って、シャトラークはウルの得物を指差した。
「まあ、ね」
ウルは浮かない表情で、背負った大弓を担ぎ直す。
精霊魔法と卓越した弓の腕前で名を馳せる彼女の存在こそ、議会の強気な立案を支える根幹だった。
しかし作戦開始を告げるはずの矢は結局放たれず、不審に思ったシャトラークはとっさに予定を変更し、穏便に場を収めたのだ。
「僕が狙いを絞れなかったのは本当に久しぶりだよ。帝国が手を焼く訳だね。誰かさんが台本を無視したお陰で、警戒が強まったせいでもあるんだけど」
「そう何度も蒸し返さないでくれ。悪かったって」
ウルにじとりと睨まれ、シャトラークはふいと目を逸らした。
「まあいいさ。結果的には、敵対しなくて正解だった。せいぜい利用させてもらおうか」
「彼女なら風向きを変えてくれそうだからね。では本会議場に戻って再審議と行こう。弱腰の爺様方の説得には、君の証言が必要だ」
「やれやれ。あそこは風通しが悪くて嫌いなんだけどな」
森の民らしい不平を口にするウルと共に部屋を後にしようとした時、シャトラークはふと床に散らばっていたものを目に留める。
黒衣の少女に斬り裂かれた、頭巾の切れ端。
それを一枚拾い上げ、鮮烈な出会いの記念品にすることにした。
「女神と悪魔を内包する、麗しの君よ。一体どんな未来を見せてくれるかな」
若き元首は異国の剣士に想いを馳せ、白絹へそっと口づけた。
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