百七十一 王手

「はてさて。思ったよりも随分時間がかかってしまいました。少々深海をあなどっていましたね」


 魚人の将を討ち取った紅は、上層へ帰還するべく移動を始めていた。


 恐るべき妖力の一端を見せた紅い刀はすでに元通りの形となり、何事もなかったように大人しく鞘へ収まっている。

 同じく紅の長髪や着物も常の黒色を取り戻し、激闘の痕跡は微塵も感じられない。


 しかし水圧の枷は未だ健在であり、ゆっくりとしか泳げず浮上は困難を極めた。


 この状態で大陸棚から落下する激流に逆らって這い上がるのは、さすがの紅でも無理がある。


 仕方なく大きく迂回し、のろのろと着実に上方を目指すことしばし。


 やがて身体へのしかかっていた重しが徐々に軽くなり、ようやく深海の呪縛から解き放たれた紅は、一気に足を蹴り出して猛然と加速した。


 そうして浅海へ到達した頃には、海中へ射し込む日差しは大分弱々しいものとなっていた。


 深海から浮上するまでに、かなりの時間を費やしたのだ。


「おや。もうこんな刻限ですか。時が立つのは早いものです」


 水温の変化から察した紅は、勘を頼りに急ぎ戦場へ戻ろうと進む内に、ふと鼻先に馴染みあるにおいを捉えた。


 むせ返るような多量の血臭。即ち戦の証。


「方角は合っていたようですね」


 紅は嬉しそうにくすりと微笑むと、勇んで泳ぐ速度を上げた。


 間もなく、大勢が入り乱れる気配と喚声が感じ取れるようになると、向かう方向から慌てた様子の一団が迫って来た。


 察するに、形勢不利と見て脱走した魚人兵だろう。


 これを見逃す手はない。


 即断した紅はその群れの中央を一瞬ですり抜けていた。


「なるほど。皆様も到着なさっていたのですね」


 状況を把握した紅が呟くと同時に、脱走兵らが一斉に細切れとなって潮の流れに散って行く。


 紅が俯瞰ふかんした先、魚人軍が占拠していた海域は、人魚軍が包囲網を敷いて攻め込んでいる最中だったのだ。


「──無事だったか紅!」 


 すかさず紅が戦場へ斬り込もうとした時、先程の兵を追って来たのだろう人魚の部隊が現れ、その中からテティスの声が飛んできた。


「はい。この通り、敵将の首を獲って参りました」


 兵の間から抜け出してきたテティスが近寄って来たところへ、紅は左手に持っていた魚人の首を差し出した。


「この兜は!」


 受け取った首がかぶっていた黄金の兜を見て、テティスが驚愕の声を上げ、同様に周囲の兵もどよめいた。


「……姫様。殿下のもので間違いありません」

「やはりそうか……」


 見定めた親衛隊の言葉を受け、沈痛な表情を浮かべるテティス。


「どうかなさいましたか」


 こてりと首を傾げる紅に、テティスは目を伏せながら答えた。


「この兜は、魚人どもの襲撃の際に我らを逃がし、殿しんがりを務めた将軍、我が兄にして第一王子、ネレウスのものだ。魚人の手にあったということは、兄はもう……」

「なるほど。不似合いな装備だとは思いましたが、戦利品でしたか」


 同情の欠片も見せず、納得とばかりに頷く紅。


 しばし黙祷を捧げたテティスは、滲む涙をぬぐい取って紅へ向き直った。


「……覚悟はしていた。兄の仇を討ってくれた上、遺品を取り戻してくれたことに深く感謝する」

「礼は不要です。まだ全部片付いてもいませんし」


 深く一礼した人魚達に、紅はいつものように軽く流す。


「ああ……それもそうだな。大詰めと行こう」


 テティスは決意を新たにした様子で麗しい顔を引き締めた。


「それで。戦況はいかがですか」

「お前が先行して暴れてくれたお陰で順調だ。我らが到着した頃には、奴らはほぼ壊滅していたからな。しっかり陣形を整えさえすれば、後れを取ることはない。間もなく周辺の制圧は完了するだろう。後は宮殿に立てこもった連中だけだ」

「では最後の大掃除と参りましょう」

「ああ。だがその前に。もう結構な時間が経っている。水中呼吸の魔法をかけ直しておこう」


 逸る紅を制したテティスは、手をかざして詠唱を始めた。


「実に便利な術です。敵将に深海へ引きずり込まれても、きちんと息ができたので助かりました」

「深海!?」


 さらりと発した紅の言葉に、思わず詠唱を止めてしまうテティス。


「姿が見えないと思えば……よくもまあ無事でいたな。下層で生きていられるだけでも不思議なのに、魚人とやりあって倒してしまうとは。どこまでも驚かせてくれる」

「なかなかに貴重な体験でした。あなた方についてきたのは正解だったようです」

「それは何よりだ」


 相変わらず涼しい顔のままの紅に苦笑を見せると、テティスは再度詠唱して魔法を完成させた。


「これでよし。効果が切れる前に合流できてよかった」

「ありがとうございます」

「何の。もうひと働きしてもらうためだからな」


 紅の一礼に軽く手を振ると、テティスは部隊に向き直る。


「包囲が完了し次第、宮殿内に突入する。敵を駆逐し、王の安否を確かめるまで気を抜くな!」

『は!』


 檄を飛ばされた兵らが気炎を上げるのを横目に、紅は刀の柄を撫でつつ独り言を口にする。


「皆様士気が高くて何より。しかし私としては、もう一波乱起こると嬉しいのですが」


 そんな不謹慎な言葉が出るほどに、人魚軍の攻勢は凄まじく、魚人の抵抗を許さぬ一方的なものだった。


 ここに至り、人魚と魚人の力関係は逆転し、戦は最終局面を迎えようとしていた。

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