百七十 真なる闇に咲く

 艶一つない黒々とした深海を斬り裂き、数多の水刃が乱れ飛ぶ。


 対するは闇に溶ける黒髪と黒衣の少女。

 全身を覆い尽くす水圧に囚われ不自由を強いられながらも、手首を返すのみで紅い剣を巧みに操り、飛来する全てを防ぎ切っている。


 しかし頭上から容赦なく降り注ぐ水刃を受け止める度、より深みへと沈み、みしみしと骨格へ負荷がかかる音がグドの耳に届いていた。


 少女の動きは明らかに精彩を欠き、防戦一方に回っているが、最小の動きで攻撃を捌き切る技量は健在なまま。最早見事と言うより他はない。


 特筆すべきは、初見の技をも容易く見切る観察眼と、即座に対応できる驚異の反応速度。


 恐らくグドの挙動や水刃の発する音から軌道を読み、先んじて剣を置くことで防御を成立させているのだろう。

 言うは易しだが、実行できる者が今の世にどれだけいるものか。


 水圧は強まる一方。確実に死地へ向かっている最中さなか、冷静さを保って対処を続ける様にはグドも舌を巻くばかりであった。


 追い詰めつつあるのは間違いないが、己の縄張りに引き込んでなおここまで粘られるとは、とんだ誤算だった。過去の戦歴を思い返しても、疑いようもなく比肩する者のない最強の敵である。


 ならばこそ、全身全霊をもって叩き潰すべし。


 グドは両手に加えて足をも交え、水の中で舞い踊るように身を捻って猛然と水刃を量産し始めた。


 単純計算で倍となった攻撃密度に、少女もすぐには対応できず。

 徐々に均衡が崩れ、受け損ねた水刃が黒衣の端を浅く斬り裂く場面が垣間見えるようになった。


 それですら一撃もまともに被弾しないのは恐ろしくもあったが、押し切るのも時間の問題であろう。


 ……と、そう思えたのも束の間。


 ふと軽やかな笑い声が暗中に響く。


「ふふ。よく練られた武に、地の利を活かした戦運び。実にお見事です。魚人の戦、とくと堪能させて頂きました」


 今にも死が迫っている状況にも関わらず、まるで緊張感のない穏やかな声色。


「そうかい。観念したなら首を出しな。すぐ楽にしてやるぜ」


 グドは不審に思ったが、表に出さぬよう強気の姿勢を崩さなかった。


「それには及びません。どうやら策は出尽くしたようですし、見学は終わりです。これ以上の長居は無用。そろそろ決着を付けておいとまするとしましょう」


 平然と放った少女の言葉に、グドは思わず耳を疑った。


 この窮地きゅうちくつがえす一手をまだ持っていると言うのか。


「させるかよ! このまま沈んでくたばりな!」


 不吉な予感に駆られたグドが攻撃速度を上げようとした瞬間、突如少女との間に横たわる空間にあった全ての水刃が、ぱぁんと弾け飛んだ。


「何……!?」


 あまりのことに呆けて攻撃の手を止めたグドの頬を、ひゅんと一筋の軌跡が浅く斬り裂いた。


「ちっ!」


 我に返って再び水刃を放つが、ことごとくが砕け散って行く。


 その合間からちらりと覗いた少女の挙動を見て、グドは戦慄した。


 左手の親指を弾く。

 ただそれだけの所作で、弾丸のごとき水流を撃ち出しているではないか。


 即座にグドの脳裏に、「指弾しだん」という単語が横切る。


 かつて海賊時代の仲間に、拳へ親指を握り込んで素早く弾くことで、凝縮した空気のつぶてを発射する徒手の奥義を扱う達人がいた。


 少女はそれを海中でやってのけたのだ。


 しかもグドの手数に劣らぬ勢いで連射し、たちまち形勢を五分に押し戻してしまった。


 なんたる理不尽。どこまで道理を捻じ曲げれば気が済むのか。


 グドはぎりぎりと歯ぎしりしつつも、怒りを抑え込んで戦況を分析する。


 水刃は相殺されて少女に届かなくなった。しかし、重圧と極寒の水温が体力を奪っていくことには変わりない。このまま拮抗していれば、先に力尽きるのは少女の方だ。


 肝は冷えたが、依然こちらが有利なまま。

 集中さえ途切れなければ、勝ちが揺らぐことはない。


 そう己に言い聞かせて奮起するグドを他所に、少女は水弾を放ちながら、守備から解放された剣へ口づけをしていた。


「起きなさい、くれない


 そう少女が一言発した瞬間、グドの背筋をぞわりと激しい悪寒が撫で上げた。


 一瞬くらりと眩暈めまいを覚え、揺れた目の焦点が無意識に紅い刀身へ吸い寄せられる。


 そこでグドは奇怪なものを見た。


 抜き身の刃の輪郭がどろりと崩れ、ゆらゆらと海中へ広がり始めたのだ。


 水にインクを垂らしたように、ゆっくりと暗黒へ溶け出していく鮮やかな紅色。


 グドが見惚れて動けずにいる内に、刃であったものはすっかり少女を覆い尽くし、その姿を劇的に変化させていた。


 黒髪は燃えるような真紅に染まり。

 闇と同化していた着衣もまた液体を吸い、破れた部分まで補修されて元通りになっている。その色も血の如き禍々しい紅色に塗り替わっていた。


 いや、ではない。


 ここまで漂う嗅ぎ慣れた鉄錆の臭いから察するに、きっと血液そのものなのだと直感する。


 恐らく、あの剣がこれまで吸って来た犠牲者の血が具現化したのではないか。


 海中でも一切衰えぬ切れ味から魔剣の類だろうと見当を付けていたが、まさかこれほどおぞましいものだったとは。


「それがてめえの奥の手か……!!」

「それほど大層なものでもありません」


 姿は変われど、涼し気な態度は変わらず。

 思わずグドが吐き捨てた言葉に微笑を返すと、さらなる異変が唐突に起きた。


 少女の持つ刃を失くした剣の柄から、細長い何かが蠢きながら大量に湧き始めたのだ。


 それは布切れで型を取ったような、薄っぺらい腕の形をしていた。


 反物を転がすようにひらひらと伸びてゆく、無数の紅い腕、腕、腕。


 少女を中心に螺旋を描きながら周囲を侵食する様は、まるで開きゆく花弁を連想させる。



 やがて深淵に狂い咲く、大輪の紅い花。



 輝く笑みを浮かべた美貌と異形なる水中花の組み合わせは、畏怖をも感じさせる美を誇っていた。


 実際その存在感に魅入られたグドは、押し寄せる腕の気配に気付くのが遅れ、接近を許してしまった。


「うお!?」


 揺らめきながら迫る腕の群れを、とっさに繰り出した水刃で薙ぎ払うグド。


 腕は一瞬で霧散するが、たちまち形を取り戻して前進を再開する。


 動きは遅く、迎撃は容易い。

 しかし己の推測通り血でできているなら、いくら蹴散らしたところで無駄ではないのか。


 胸中に湧き上がる恐怖を押し込め、無我夢中で手足を振るうグド。


 その奮闘を嘲笑あざわらうかのように腕は刻々と増え続け、今や海域を塗り潰さんばかりの範囲を占めて退路を断っていた。


「この量……! てめえ、今までどれだけ斬ってきやがった!?」


 略奪者として多くの命を刈り取って来たグドが言えたことではないが、少女のごうは己とは桁違いであると本能的に察したのだ。


「はて。いちいち数えたこともありませんね」


 グドの怒声に、小首を傾げて酷薄に返す少女。


 そうやり取りする間にも、おびただしい数の腕がグドを囲んでにじり寄る。


 海をけが赤潮あかしおのように。

 あるいは、道連れを求める亡者のように。


「くそが! 来るんじゃねえ!!」


 狂乱したグドは激しく周囲の海水を混ぜ返して抵抗するも、圧倒的な物量の前に呑み込まれる。


 際限なく湧き出す紅い腕がついにグドを捕らえ、首から下へ幾重にも巻き付いてきつく縛り上げた。


 少女は言葉の通り、いつでも勝負を終わらせられたのだ。


 指一本動かせず、絶望が浮かんだその眼前へ、いつの間にか少女が現れ丁寧に一礼する。


「それでは、御首おんくび頂戴ちょうだい致します」


 直後、深海の水圧に耐える肉体が一瞬で押し潰され、断末魔を上げる間もなく意識が途絶えたグドの首が、黄金の兜と共に水中へ舞った。

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