第13話 それはどういう愛なのか
「……師匠、ちょっと動かないでください」
「ずっと同じ姿勢をしていると疲れるんだけどね。明日はいわば魔物の本拠地に侵入するわけだから、よく休まないと」
「この状況で俺がよく休めると思うんですか? やっぱり俺は床で」
「そうするくらいなら私が床に行くと、言ったよ」
簡素な村の、粗末な宿。
当然ソファなどと洒落たものがある訳もなく、寝る場所は床と寝台の二択である。そうしてどちらも、相手が床で寝るなどと許容できるはずがない。
そうして戦いを重ねた末の、たどり着いた結論が、半分ずつ使う、であった。
フィリップは強く目を閉じ、唇を噛み締める。きりきりと走る痛みに集中して、若干滲んできた血の味に集中する。
聴覚と、嗅覚。絶対に動かしてはいけない2つの感覚を死ぬ気で封印しながら、息を整えていたフィリップを乱すように、もぞもぞとルシルが動く。その度に甘いような香りがふわりと鼻を掠めて、フィリップは必死で脳内に昼過ぎに会った老人を思い返す。ルシルの存在を、思考から追い出す。
そうだ、杖に縋ってどうにか立っているような状態で、どうにも言葉が聞き取りづらくて、けれど訥々とフィリップ達に語ってくれた。
「気が狂う? そりゃあ、あの池に行ったからあ、ねえ」
方言なのだろうか、妙に間延びした口調で語ったその老人は、節くれだった指で背後を指差した。
「あそこにあ、神様がおる。勝手に行くなあと、村のもんはみんな知っとるにい、若いもんは駄目や。神様なぞいなあと言い張って、帰ってきたときなあもうどうしようもなくなあとる」
「その池はどちらに?」
丁寧に問いかけたルシルに、老人は不快感を露わにした。
「まさか行く気かあね」
「そうだね」
「やめとう」
「村の皆さんに迷惑はかけないよ」
「狂っとお人間に、迷惑なんぞ分からあ」
「私は一応元聖女で、こっちは魔術師だからね。狂わない方法くらいは知っている」
「元聖女お?」
じっくりとルシルの姿を上から下まで見つめた老人に、フィリップは咄嗟にその視線を遮りたい衝動に駆られた。けれど地面に縫い付けるようにして足を止めると、老人の言葉を待つ。
「元、て、何をやったんかあ」
「まあそれは、色々。でもまあ、討伐実績はそれなりにあるから安心してもらえないかな?」
かつての討伐を証明する書類を取り出してみせたルシルだったが、その前に一瞬だけ浮かべた、困ったような微笑みに、フィリップは小さく息を吸った。
「まあ、それなあら」
そうして老人に教えてもらった道をしっかりと記憶に叩き込み、けれどもう夜も遅いということで明日にしようと決めて、村に一軒しかない宿にやってきた。
そこで、使える部屋が一つしかないという、衝撃の事実を知らされたのだ。
「ねえ、フィル」
「し、しょう」
突然暗闇に響いたルシルの声が、必死で現実から逃げていたフィリップの意識を引き戻す。
途端に熱を取り戻しかけた身体を誤魔化すように、フィリップは数度、強く首を振った。
「君は、辛い?」
この状況が、という言外に含まれた意味を感じ取って、フィリップの心臓は一度大きく跳ねた。
「それは、はい」
一瞬迷って、けれど誤魔化すこともできず肯定したフィリップは、強く目を閉じた。五感の全てからルシルを遮断しようとするが、けれどルシルの少しだけ強張った声はそれを許さない。
「良いよ、と言ったら、君はどうする?」
「……は」
その意味が一瞬分からなくて、けれどすとんとその言葉を理解した瞬間、フィリップの頭が沸騰した。
今にでも布団を吹き飛ばしそうな腕を押さえ、フィリップは抑えた声で聞き返す。
「どういう意味です」
「君はそれを私に言わせるのかな?」
「……何を、考えてるんですか」
感情のない、冷え切った声で問い返され、ルシルはフィリップに背を向けたまま視線を伏せた。
どうやらまた間違えたらしい、ということは理解した。
少しだけ荒い吐息と、抑えつけるような低い声と、明らかに高い体温と、ルシルが身じろぐたびに硬直する身体と。
フィリップがそれを求めているとばかり、ルシルは思っていた。
「師匠は、どれだけ俺の気持ちを弄ぶんですか」
「……」
「俺の気持ちには応えられないと言っておきながら、こうして誘ってきて、俺をなんだと思ってるんですか。俺がそれを喜ぶとでも?」
分かってますよ、とフィリップは呟いた。
「あなたのそれが愛情だってことくらいは。辛いって言った俺を楽にしようとか、あの時俺を傷つけたことへの贖罪とか、そういう感情なんでしょう。あなたはいつだってそうだ、俺ばっかり優先して、自分のことは二の次で!」
「そ、れは」
「でも、いちいちどっちつかずなんですよ、はっきりしてください!」
ばさりと布団を跳ね除けて、フィリップは寝台から飛び出した。
このままここにいると、ぐちゃぐちゃになった感情のまま、目の前の人を無理やり奪ってしまいそうになる。
「俺の望むことを叶えたいなら、好きだって言ってくださいよ! キスしてください、抱かせてください! それができないなら、なんの期待もさせずに全部断ってはぐらかしてください! そうやってどっちつかずの態度を取られると、もう俺もどうして良いか分からない!」
「……好き、と言ったら?」
「どこまで俺を馬鹿にすれば気が済むんですか!?」
荒い息を数度ついた後、フィリップは意識して深く呼吸をする。
「私は」
暗闇の中で聞こえるルシルの声は、か細く、頼りなくフィリップの鼓膜を揺らした。
「私と一緒にいない方が、君のためだと思っている。正確に言うと、いた」
「……いた?」
「私と一緒にいない方が良いと思ったから、君を突き放して、君の気持ちには応えられないと言って、君を私から解放したつもりだった。だけど、その後に、君の顔を見て、全部私の勝手だったと気がついた。君の言うとおりだ、君の行く道を決めるのは私ではない。ごめん」
その声が今にも泣き出しそうに震えていることに、フィリップは気がついた。
いつだって気丈なルシルの、大抵のことは茶化して笑い飛ばすルシルの、こんな声を聞いたのは、フィリップにとって初めてのことだった。
「君が私の隣にいたいのなら、私はそれを受け入れる。それなら、私にできる全てを君にあげたい。君には笑っていてほしいし、君にあんな顔をしてほしくない。だから」
「俺の望むことを叶えようと、したんですか」
もぞりと、布団が動いたのを、フィリップの目は捉えた。
頷いたのだと思う。けれどその頷きが、フィリップに見えないと言うことに気づく余裕すら、今のルシルにはないのだろう。もう一度、ごめん、というかさついた囁きが聞こえた。
愛されていると、フィリップは思う。
ルシルはこの上なくフィリップを大切にしていて、いつだってフィリップの気持ちを思っていて、それは紛れもなく愛だ。
けれどそれが、どういう愛なのか、フィリップには分からなかった。
「師匠、教えてください。あなたが俺を笑わせたいと言うのは、俺を拾った師匠としての責任と愛情ですか? それとも」
あなた自身の、1人の女性としての感情ですか?
今までフィリップの問いには淀みなく答えてきたルシルの声が、初めて詰まった。
少しだけ置いて、ルシルは掠れた声で答えた。
「……分からない。ごめん」
それがどういう愛なのか。
それはルシルにも、分からなくなっていた。
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