第二部
「なぜだ」
アーモンドフィッシュの小袋を三つまとめて切り開けた本能寺みつぐはそのままざばっと中身を呑み、ばりばりと砕いた。
「わたしの推論が根本から間違っていた?」
「小学校の卒アルも中学の卒アルも高校の卒アルも手に入れたけど、全部千葉」
「その周辺も張り込んだけど全然出てこない」
「本当に1日中ほとんど家から出ないのか?」
「張り込みの効率が悪いのはわかっている」
「だけどこんなにエリアを絞り込んだのに成果が出ないのはおかしくないか」
こっわ。
声には出さなかったが、自室で勢いよく独り言を吐き飛ばすみつぐの様子に矢島七菜香は恐怖した。最初は手当たり次第に千葉県全域を調査しようとしていた本能寺みつぐだったが、急に方針を変えたのは夏休みに入って三日後ぐらいだった。千葉県の古本屋に立ち寄った彼女は、そこで一冊の本を見つける。卒アル、卒業アルバムである。
今、本能寺みつぐの部屋には音楽雑誌と同じくらいの数の卒業アルバムがある。それが乱雑に部屋中にばらまかれている。彼女は数あるその中から、飛田ケイトの顔にそっくりな少年の顔を見つけ出し、彼の住んでいたエリアを割り出したのである――最初、彼女の口から金沢将馬の名前を聞いたときはさすがに耳を疑ったものである。そこで彼女は、おのれの勘と推論に裏付けされた飛田ケイト千葉出身説に確信を持った。
誰でもインターネットに接続し情報にアクセスできる時代から数十年、今やスマートフォンの発達により、それがどこでも、に変化し、さらに誰もが情報の発信源になれる時代。本気を出せば著名人の居所などリアルタイムで追跡できるのだが、幸運なことに飛田ケイトの所属するPOD Stand!! はそこまで大きな人気があるわけでもなく、また、名前も違うおかげで、彼の過去を発信する人間はいなかった。そうでもなければ、今度こそ住所から電話番号、毎日のルーティーンさえ筒抜けだっただろう。
だが、彼女の話によれば、それですら飛田ケイトこと金沢将馬の動向をつかむことができず、結局しらみつぶしに千葉を彷徨ったそう。
そんな迷える本能寺みつぐの追跡を邪魔したのが、もちろん矢島七菜香だった。彼女は味方の振りをして本能寺みつぐの行動をすべて金沢将馬に伝えていた。深夜にこっそり家を出たり、早朝に帰ってきたり、ライブがあった日はメンバーと時間をずらしたりすることで行方をくらませていたのだ。おかげで、ライブ会場を張っていた本能寺みつぐは、飛田ケイトのSNSに載っていた私服と全く同じ格好をしたマスクとサングラス姿の男を追いかけて、何も知らない会場スタッフの住所を突き止めることに成功した。彼女はいたく落胆した。その会場スタッフは飛田ケイトから千円札とともに彼の私服を受け取り、小遣い稼ぎにライブ会場を出たのである。飛田ケイトはその私服をわざとSNSに上げていたのは言うまでもない。だが、そうしろと指示したのはすべて矢島七菜香であった。
「もう、こうなったら適当にここにいる人に連絡とって、どこに住んでたか心当たり訊くしかないかな」
本能寺みつぐは卒業アルバムをぺらぺらめくりながらそう言った。
「それはもう不審者じゃん」
すかさず矢島七菜香は指摘した。
「……だよね。それがもとでケイトに変な噂立っても嫌だし」
ばちん、とみつぐは卒業アルバムを閉じ、机の脇に積んだ。
「っていうか使っちゃだめでしょ。気持ち悪い」
「そうだね。やっぱどこか地価の安い東京近辺のどこかに住んでるのかな? SNSに上げてた広そうな部屋だって、区じゃなかったら全然ありそうだし。だ捜索範囲を広げる必要があるな」
「よく知らないけど、アイドルだったらどこ住んでるとか噂立たないの?」
「PODはまだまだ知名度低いし、リーダーの城中ナイト君ぐらいじゃないとそういう話は聞かないな。それでも出身中学とかの噂とか、ジムで見かけたとかぐらいだし」
「そっか」
「ねえ、七菜香は夏休み暇?」
「まあね」
「じゃあさ、今度遊びに行かない?」
「いいよ! いつ?」
なんだか久々のやりとりだなあ、と七菜香は思った。
「今週の水曜は?」
「え、ああ、水曜か」
その日は金沢将馬とデートの約束があった。ちょうど仕事の次の日で、『厄介な』ファンを撒くために、その日は都内のカプセルホテルで過ごすらしい。だから、そのままデートに繰り出す算段だったのだ。
「なんかあったっけ。水曜って」
「え? ああ、部活だよ。お前と違って忙しいの」
七菜香は嘘をついた。
「そう。呼んだらすぐ来るし、メッセだって滅茶苦茶早く返事来るからそうでもないのかと思ってた」
「まさか。一応テニス部のエースだからね」
違う。そうすれば本能寺みつぐの動向を知ることができるから優先していたのだ。
「エースは嘘でしょ」
「ばれたか」
「そりゃそうでしょ」
「じゃあさ、今からちょっと出かけようよ。こんなとこいたら頭おかしくなっちゃうじゃん」
七菜香はさっと立ち上がった。
「うーん、遠慮しとく」
「えー、なんで」
七菜香は不満を垂れた。
「勉強。七菜香と違って忙しいの」
そういえばこの部屋、卒アルと金沢将馬の写真に交じって、真っ赤な分厚い本や、七菜香にはわからない資格の本などが散見された。
「マジかよ。やべえな」
七菜香は素直に感想を述べた。
「夏休みは好きなだけ勉強もバイトもできるからね。バイト代で本買って千葉いって将馬を探す。いいでしょ?」
そうかなあ、と七菜香は思った。昼間で寝たり、毎日だらだらSNSを見て、彼氏とデートする。これがベストだと思う。勿論口にはしない。
「いいじゃん。行こ。なんかみつぐ、変だよ。こんなに勉強までしてさ」
七菜香はそういってみつぐの袖を引っ張った。すると、みつぐは諦めたようにため息をついた。
「確かにね」
「でしょ?」
「わかった。行くから」
といって立ち上がった。そのとき、ジャージの裾が、机の上のゴミに触れてばさりと落ちた。
「それさ、もう食べるのやめたら?」
なんとなく気味が悪いと七菜香は思ったからだ。
「……そうだね。ちょっとそう思う」
歯切れ悪くみつぐはそういった。
『これってどう思う?』
矢島七菜香のスマホに一件のメッセージが来たのは、八月の中旬、彼女がぐっすり寝ていた夜中も夜中、深夜であった。寝る前につけていたエアコンはタイマー機能で当の昔に切れており、呼吸をすると蒸した熱い空気と、放っておいたポテトチップスの饐えたコンソメの臭いがした。
電気をつけるまでもなく光るスマートフォンの画面。その明かりを頼りにそれを掴んだ。
「なにがだし。全くもう」
画面に表示されたメッセージに七菜香はぼんやり寝ぼけながら突っ込みを入れた。だけど、それを無視するようなことはしない。何故ならば、その差出人は『桂馬』だからだ。もちろん、将棋の駒ではない。そのメッセージアプリ上では彼女の彼氏である金沢将馬の名である。
彼の名前が自分のスマホに通知されているところを友人の本能寺みつぐにみられでもしたら大惨事は免れない。そこまで矢島七菜香はバカではないので、そうやってぼやかすように言ってあるのだ。
しばらく彼女は『これ』が表示されるまでおとなしく画面を眺めていたが、それ以降なにも起こらない。仕方なしにアプリを起動してみると、画像が添付されているのがわかった。これ、とはこの画像のことを指すのだろう。
「なにこれ」
そして、それを見た七菜香は思わず独り言ちた。
すべて、見慣れた男、すなわち金沢将馬の画像である。机の上に写真を並べ、それを撮影したものらしい。金沢将馬の写真自体はどこにでもある。一応彼はアイドルなので、『飛田ケイト』と調べればいくらでも彼の画像が出てくる。
『どうしたの?』
寝ぼけた頭で七菜香は質問を送った。すぐに返事が返ってきた。
『おかしくない?』
「なにが?」
もう一度七菜香は訊ねた。
『全部、多分隠し撮りだと思う』
将馬の言葉にうすら寒い気配がした。もう一度画像を見ると、やはり既視感溢れる写真ばかりだが、よくみるとそのどれもがカメラ目線ではない。たまにあるテレビや配信の切り抜きがかもしれないが、それにしたってまるで遠くから撮ったようにも見える。
『これ、どうしたの?』
覚えはある。真っ先に浮かんだのはもちろん、友人の本能寺みつぐである。それでも、その可能性を否定したくて、関係ない問いをしてしまう。
『家のポストに入ってた』
「まじかよ」
七菜香は頭を抱えた。
『これ、七菜香の友達かな』
七菜香の心中はどんどん落ち込んでいく。数日前にみつぐと話した時、彼女はまだ将馬の居所を掴めていないことを相変わらず嘆いた。となると、本当に最近、なんらかの方法で偶然彼を見つけたに違いない。否、とはいえまだみつぐが犯人と決まったわけではない、が。とりあえず七菜香はそのままメッセージアプリの通話ボタンを押し、将馬に連絡を入れた。
『びっくりした。どうしたの?』
スマホの向こうで将馬が言った。
「ごめん。大丈夫? 心配になっちゃって」
『大丈夫だよ。誰も家の前にはいなかったし』
「そっか。それならよかった」
とひとまず声も聞けて安心する。
『やっぱ、ばれちゃったのかな』
「まだあいつだと決まってはいないと思うけど」
『そうだけど。ついにおれにもストーカーがつくぐらいには有名になったかな』
七菜香の心配がどうでもよくなるぐらい、スマホの向こうの金沢将馬は気の抜けたことを言っている。
「少しは心配した方がいいよ。みつぐじゃないにしても、ストーカーって絶対ヤバいから」
と七菜香は釘を刺した。とはいえ思い浮かぶのはやっぱり本能寺みつぐと彼女の部屋である。壁や天井にまで貼られた飛田ケイトの写真やポスター、そして最近では大量の卒業アルバムまで買い占めていたのだ。異常である。そんな異常者に近しいものに彼氏である金沢将馬が付きまとわれているとすると不気味でしょうがない。
『まあね。事務所でも一応注意はされるからね。でも大丈夫っしょ。それより、明日遊びに行くのどうしよっか』
「え、ああ、そうだよね……」
彼女の心配はあっさりと流されてしまった。
『まあいっか。おれはいつもより早く出て、ちょっとふらふらしてから待ち合わせ場所いくわ。それで大丈夫っしょ』
「うーん、そうかな」
どうしてもあのみつぐの異様な執着するさまを思い出していしまい、返事があいまいになる。
そのとき、七菜香のスマホのスピーカーから甲高い電子音がした。
『あれ? 誰か来たな』
将馬の声とともに、彼が姿勢を変える衣擦れの音がする。立ち上がろうとしているらしい。
「ねえ、ちょっと待って」
七菜香は慌てて言った。
『なんで?』
きょとんとした将馬の声が七菜香の気を逆なでした。
「ピンポンの音だよね? 聞こえたよ? 行くのおかしいじゃん。時間もだって今、二時だよ、夜中じゃん」
『でもなあ』
気の抜けた将馬の言葉を煽るようにもう一度インターホンが鳴る。
「ねえ! そうだ、家族は?」
『今日はいない』
彼の両親は銀行員と弁護士、というのは嘘だったが、二人が家にあんまりいないのは事実だった。実際は多忙な警察官と世界を股に掛ける写真家という異色な夫婦だそう。おかげで将馬と七菜香は楽しくおうちデートが楽しめていたわけなのだが。
『ちょっと行ってくる。もしもストーカーならがつんと言ってやればいいじゃん。もしくはそのまま警察に連れていくよ』
呑気に将馬はそういった。
「いやいや、おかしいでしょ」
『そう? じゃあいったん切るね。明日の面白い話が増えて嬉しいよ。楽しみにしてて』
「あ、ちょっと」
そんな七菜香の声を遮るように通話が切れた。
「あいつ……」
ついつい本能寺みつぐに電話を掛けそうになるのをぎりぎりでこらえる。特に身はないが、気になってカーテンを開けて窓の外を見る。いつの間にか、街灯の灯りすらかき消さんとする量の黒い雨がばあばあと降っていた。
「で、結局、昨日の夜の話なんだけどさ」
「うん」
デートも終盤、夜十時過ぎ。ホテルのベッドで浅く呼吸を整える矢島七菜香へ金沢将馬は言った。もったいぶる彼の顔を七菜香は注視した。
「玄関開けたらさ、なんと、誰もいなかったってわけ」
そういってふん、と自慢げに彼は鼻を鳴らした。
「はあ」
七菜香はため息をついた。勿論彼は自慢できることなど一つもしていない。部屋から玄関に移動して、ドアを開けただけである。七菜香に覆いかぶさっていた彼はぐるんと体を反転し、彼女の隣であおむけになった。
「その内容でよく今まで引き伸ばしたね」
夕方から待ち合わせ、その間今に至るまで、金沢将馬は昨日の夜中の出来事を内緒、の一点張りで引き延ばし、最後にホテルを指差して、聞かれたら困るからここで話そ、などといって七菜香をホテルへ連れ込んだのである。別に構わない、という心情はもちろんあるが、それにしたってなんだか損した気分でもある。彼のなんだかんだ筋肉の張った上腕から肩までを頬でなでつつ七菜香は思った。
「でもさ、誰か家に来たんでしょ」
「そうだけどさ。昨日雨も風もすごかったじゃん。石でもあたったんじゃない」
そんなことあるのだろうか。
「そんなことあんの?」
「そうとしか言いようないじゃん」
七菜香は思案した。あるのだろうか。
「待ち合わせ場所に普通にいた時点で心配はなかったけどね」
「っていうか、七菜香が気にしすぎなんだよ。今日の格好とかまじ笑ったし。芸能人かよ」
大仰な帽子にサングラス。七菜香は完全防備な姿で待ち合わせに来たのである。それが今、部屋の隅の鞄に突き刺さっている。
「うっさい。将馬こそ気にしろよ」
「してるじゃん」
「いつも同じ帽子とマスクじゃいつかばれるよ」
「はいはい。とりあえず、またなんかあったら事務所にも相談するし、それでいいっしょ」
「今しろし」
「だってデートあったから。明日、明日するから」
彼氏の余りに知性のない行動に七菜香はため息をついた。あと、もう少しだけ思慮深いと嬉しいのだけれど、などとぼんやり七菜香は思った。これではただの能天気な性欲モンスターである。
結局、七菜香が家に帰ったのは夜の十二時を回ったところだった。心配する家庭もあるだろうが、矢島家においてはそういうところはあまりなかった。兄の方がだいぶ自由奔放で、高校生の頃から麻雀に明け暮れ、帰らない日もあった。おかげで七菜香に対しても門限についてきつく言われることはあまりなかった。とはいえ、過剰に干渉されるのも困るので、泊りはよほどのことがない限り避けることにしていた。
そんなわけで七菜香は居間でテレビを見ているらしい家族をよそに、早々に部屋に戻った。さっきまで将馬と一緒にいたホテルの一室とは異なり、雑然とした部屋である。生来の無精である彼女は片付けが苦手であった。だが、だからと言って困ったことはない。部屋が汚い人間には人間なりに、それでも何がどこにあるのかはわかるものである。
故に、少し浮ついた頭であっても、部屋に小さな箱一つが増えたことにもすぐに気付いた。箱、というよりは包みか。ベージュの紙に包装された何かが置いてある。
――嫌な予感がする。
楽しかった気分はすぐに消え、鞄を床に降ろした。そして、包みを手に取る。
――矢島 七菜香 様 江
油性マジックできりっとそんな言葉が書いてある。包みの隙間に指を入れ、びりりと破く。
――写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真、写真――
声にならない悲鳴を上げて、七菜香はそれを床にぶちまけた。全て金沢将馬の写真であった。
最後の一枚の背景は暗く、カメラのレンズについたらしい水滴で歪んだ写真が極めつけだった。昨日撮られたものだと七菜香は直感した。
七菜香は包みを手に、慌てて居間にいる家族の元へ向かった。
「これ、なに?」
居間にいたのは兄の仁助だった。深夜特有の奇怪なくどいバラエティ番組を見ている。
「ああ、なんかポストに入ってたから。どうかした?」
包み紙を見せつけてくる妹に、仁助は面倒くさそうに答えた。
「誰がポストに入れたとかは?」
「わかるわけねえじゃん」
「……わかった」
「なんかやばいのだった?」
さすがに七菜香の様子に予感がしたのか、珍しく仁助は心配そうに訊ねた。
「ううん、大丈夫」
そういって七菜香は自室に戻った。もはや確定的であった。ストーカーは七菜香と金沢将馬の関係にまで気づいたのだ。いつ気づいたのだろうか? 包みは当然、七菜香が帰ってくる前に届けられたのだから、少なくとも今日ではない。ずっと前から知っていたのだろう。そして、家まで突き止めていた。その時点で寒気がする。
自室の床には、さっき落とした写真が散らばっている。恐る恐る一枚ち枚摘み上げる。知っている彼の知らない顔。駅から家への帰り道、スタジオやどこかのビルから出てくる彼の姿。本当に、よくもこんなに撮れたものだと感心する。
その中の一枚、何の気もなしにめくった写真には、同じ筆跡でこう書いてあった。
――今日、楽しかった?
「相談って、なに?」
矢島七菜香は訊ねた。
奇しくも金沢将馬の地元の喫茶店にして、七菜香と本能寺みつぐが最初に千葉を訪れたとき、最後に寄った喫茶店で二人は会っていた。
相談がある、とシンプルに将馬は七菜香を呼び出した。恐るべきことに七菜香の家に大量の写真が送られてきた日の翌々日である。二人の机の上にはブラックコーヒーとカフェオレが並んでいる。
「これ、見て」
そういって彼が鞄から取り出した封筒。大判のそれから数枚の紙を取り出した。
「昨日、事務所が止めた記事」
「え。なにこれ」
それは金沢将馬ことPOD Stand!! のメンバー、飛田ケイトが女子高生とホテルに入っていくところを押さえた記事であった。確かに字面的は完全にアウトだった。
「ぶっちゃけおれ達はまだ、そんなに売れてないしさ。スキャンダルって言ってももっとすごい先輩たちに比べたら知名度ないから向こうも簡単に引き下がってくれたけど。まあ、やばいことになったよね」
「……」
七菜香は押し黙ってしまった。
「おれさ、もう事務所辞めようかと思う」
「え?」
突然の宣言に七菜香は声を上げた。
「別に、アイドルってやりたくてやったわけじゃなくってさ。母さんがたまたま撮ったおれの写真見て事務所から声かかっただけだし」
「うん。前に聞いたけど……」
「事務所に迷惑掛かるのも、メンバーに何かあっても困るし。それに、七菜香にも写真が送られてたし、迷惑がかかるのはよくない。どう思う?」
「将馬はそれでいいの?」
「まあ、ね。もう潮時かなって。正直さ、やっぱり向いてない。じんちゃんとか七菜香と将棋してる方がよっぽど楽しかったんだよね」
じんちゃんとは矢島仁助、七菜香の兄のことである。
「でも、その後は?」
「わかんない。でも、まじめに働こうかな。それか、資格とったりとか。警察でもいいかも。父さんも飽きたらいつでもそうしろっていってたし」
「そっか……」
七菜香は何と声を掛けたらいいかわからなかった。
「七菜香はさ、アイドルのおれのことが好きだった?」
「違う」
七菜香はすぐさま否定した。
「そうじゃない」
「そっか。よかった。おれさ、ずっと昔、じんちゃんと遊んでる時も七菜香のこと好きだったし、久しぶりに会って、なんかすごく安心したんだよね。やっぱり、ファンからもいろいろ応援してもらえるけどさ、そうじゃなくって」
そういいながら将馬は遠くをぼんやりと眺め、改めて七菜香をまっすぐ見つめた。
「アイドルは辞める。でも、七菜香がずっとおれの傍にいてくれるように頑張るから。信じて」
そういって、机の上で七菜香の手に自分の手を将馬は重ねた。
「わかった。わたしは大丈夫」
「ありがとう」
「でも」
七菜香はそういって立ち上がった。
「将馬がアイドルとして頑張ろうとしてたのはわたしだって知ってるし、でも、それをこんな風にして終わらすのは違うと思う」
「え、まあ」
「やめてもいいけど、その前に気になる事だけすっきりしたい。だから、少しだけ時間、ちょうだい」
家が割れている、というのはシンプルに便利だと矢島七菜香は思った。
ここには数回しか来たことはないが、今回は特に体が震える。問いたださねばならないことが山ほどある。
そんな思いとともに七菜香は本能寺宅にやってきた。インターホンを鳴らすと、本人があっさりと出てきたのだから面食らった。
「ちょうどいい。あなたの言い分を聞いてあげよう。そうしたら自分の考えや行動が整理できると思う。助けてあげるよ」
ジャージ姿の彼女は、あっさりと七菜香を家の中に招き入れた。七菜香は無言で家に入った。きょろきょろする七菜香を一瞥すると、
「家族はみんな旅行に行ってるから大丈夫。でもお客さん用のお茶がどこにあるのかもよくわかんないし、そういうのはなしでいい? お菓子もないんだよなー。面倒だから」
「そう。麦茶でいいよ」
「えー。なんか図々しいな」
その一言に、ちょっとしたおかしさと、あくまでフランクな彼女にぞっとした。何を考えているのかわからない。
「入りなよ」
そういって、彼女は自室の部屋を開いた。
「……」
みつぐの部屋は魔境から変貌していた。以前は言ったときの魔境とは打って変わり、整然とうずたかく積まれた本が柱のよう。そして額縁に収められた金沢将馬の写真がずらりと並ぶ。それを見てようやく、この部屋の彼の写真の違和感に気付いた。そうだ、この部屋に貼られている写真は、これと同じだ。
「やばくなったね」
「そう?」
みつぐは首を傾げた。
「これ、どういうつもり?」
七菜香は鞄から写真と、将馬から借りてきた記事を取り出した。
「なにそれ。将馬の写真じゃん。どうやって手に入れたの」
無感情にみつぐは言った。白々しい。
「これ、前にみつぐの部屋に貼ってあった奴と同じだよね。どういうつもり?」
「別に。最低じゃない、アイドルやってて女作ってさ。しかも女子高生だって、まじくだらねえ」
そういってみつぐは椅子にどっかりと座り、くるくると回り始めた。
「みつぐがやったの?」
「そうだよ。びっくりしたよね、まさか七菜香みたいなバカにかっさらわれるなんてね。どうやったの?」
「そういうんじゃない」
「言いたくないならいいよ。興味ないし。で、あいつはどうするって? 事務所の力で記事潰して、まだアイドル続けるの?」
「やめるってさ」
「そう。あっさりだね。まあ、アイドルやる気なさそうだったしなー」
そういって宙をぼうっと見つめる。
「それは違う。将馬はそんな、適当にアイドルしてたわけじゃない」
「ならナイト君みたいにトレーナー付きでジムでも通えっての。歌も下手糞な癖に女引っかけて、何様だっての」
それを言われると七菜香は何も言えなくなった。
「バカはバカらしく黙ってりゃいいの。はー、かったる。もう気は済んだ? それとも、わたしが二人に謝ったらいい? それとも事務所にもうしません、って一筆かこっか」
そういってみつぐは宙に指で自分の名前をふわふわと書いた。
「それで、わたしが納得すると思った?」
「しないの? だって、七菜香ってバカじゃん」
「そうだよ。バカだった。でも、それはみつぐもおんなじだったじゃん。だから」
七菜香はそういってポケットからゴミを取り出した。そのゴミに、本能寺みつぐは覚えがあった。ありすぎた。
「わたしも、アーモンドフィッシュ食った。みつぐがおかしくなったのもこれからでしょ! 変な知恵ばっかつけやがって。でも、今はもう一緒だからな!」
「ドドポンバカじゃん」
みつぐは目を見開き口をあんぐり開けて驚いた。全身の毛穴が開く感覚すらあった。絶句した。笑止、自分をはるかに超えるバカを通り越した阿呆、その向こう側の究極の知性のなさの水平線、更にを見た、と思った。
「そうだよ。そうに決まってる。バカか。これで何かが変わるわけじゃない。っていうかこれ、おいしいけど口ぱさぱさするし、っていうか魚、口の中に刺さらない? アーモンドだって、こんなの食べ過ぎたらニキビ出るだろ! 最悪じゃん! こんなのもりもり食うとかありえん」
「はあ。何を言い出すかと思ったけどマジで意味わからん。どうした、確かにお菓子はないって言ったけど、アーモンドフィッシュならたくさんあるよ。いる? それで帰ってくれる?」
みつぐは呆れてそう言った。
「帰らん」
「しつこいなあ。こうなるんだったら家族旅行、行けばよかった。七菜香が来るのはわかってたし、寂しがると思って残ったのにさ」
「うるせえ。みつぐ、本当のこと言って。なんで将馬を追いかけるのやめたの?」
「はあ? 嘘ついてファン騙すやつとか応援するわけねえだろ」
「違う。みつぐはファンじゃなくて、将馬と結婚するって言ったじゃん」
「うっせえな。もうやめたよ」
「でも、結婚しようとしてた。嫌いだった勉強もまじめにして、資格まで取ろうとしてたじゃん。いい大学いってなんか金持ちになるとかいってたろ! ストーカーっぽいことだって、あくまでも近づくためにやってたじゃん。みつぐ、降りるのはなし。わたしも、悪かったと思う」
「はあ? 何言ってんだよ」
「だから謝る。ごめんなさい!」
急に七菜香は頭を深々と下げた。
「みつぐが先に、将馬のこと好きだったのに、それを知ってたのに、将馬と付き合ってごめんなさい」
さらに、七菜香は震える膝を押さえつける様に自分の手を乗せて、そのまま体重をかけて身を畳み、ぴたりと土下座した。
「ごめんなさい、何も言わないで勝手に進めて、ごめんなさい。みつぐのことを、傷つけて、本当に、ごめんなさい。みつぐに、不本意なことをたくさんさせて、ごめんなさい」
「ちょ、ちょっと、困るから」
みつぐは椅子から降りると膝をついて七菜香の背に手を当てた。
「急に、やめてよ」
そういって七菜香の上体をみつぐは起こした。貢は驚いた。七菜香の顔は涙でぐしょぐしょになっていた。彼女は袖で顔を拭う。
「みつぐはバカだけど、でも、そういうところも、わたし好きだった。急に勉強して賢くなり始めても、いきなり結婚するって言いだした時はびっくりしたけど、そういう突拍子もないとこもバカだし、やっぱりみつぐだって思ってた。だけど、これは違うよ」
「違うったって、わたし……」
「みつぐ、わたしと将馬くっつけて、それでおしまいにしようとしてるでしょ」
「え?」
「将馬だったら、事務所にもわたしにも迷惑がかかるぐらいだったらアイドル辞めて、本当にわたしのこと好きだったら適当に働くって思ってたんでしょ」
「それは……」
「なんで降りるの。戦おうよ。ちゃんと、将馬のこと、取り合おう」
「な、何言ってんの? バカじゃないの」
「そうだよ。バカだもん。みつぐみたいに勉強して、地道に努力して、頭使ったりしないで、たまたま兄貴がアイドルと友達だっただけなんだもん」
「い、意味が分からない!」
「わたしは、確かに将馬好きだけど、みつぐだって大好きだから!」
「え?」
みつぐは顔を赤くして七菜香を見つめた。
「いや、そういうんじゃないよ」
七菜香は早口で訂正する。
「そういうんじゃないけど、みつぐが勉強したりストーカー頑張って全然遊んでくれなくなって、やっぱりわたし、寂しかった!」
そういって七菜香はみつぐに抱き着いた。
「は、はあ? ば、ばか、ちょっと、暑いし!」
「もう、どうしたらいいの!」
涙声で絶叫する。
「知らねえよ! 知らないから! この、クソ、バカ力! ドドポンゴリラめ! 離れろ! バカ! バカ力!」
抱き着く七菜香をはがそうとみつぐは暴れたが、まったく効果がなかった。というよりも、そもそも体に力が入らなかった。この状況がおかしかった。何だか知らないが、笑えてきてしまった。二人はもつれたま床にごろんと転がった。
「はっはっは、もう。わかったよ、わかった。降参。そうだよ。将馬は歌もダンスも大してやる気ないし、顔だけで売ってるやる気のないアイドルだから、適当に脅せばどうせやめるってすぐに言うって思った。彼女を守るためって大義名分さえあれば余計にね。それに、無職になったら将馬のお父さんはかなり厳しい人だから無理にでも警察やらせるだろうし、そうでもなかったら適当にまたわたしが誘導して仕事するように仕向けるつもりでした! いい? 満足? もう、七菜香は、わたしの想像以上にバカだなあ」
みつぐは一気にそういうと、天井をじっと見つめた。そうでもしないと、目から不本意なものがどばどばと流れ出るからだ。
「……なんで降りたの?」
しつこいな。
「全部話すから、そうしたら放してくれる?」
「うん」
みつぐの顔の横で、七菜香がうなずくのがわかった。
本能寺みつぐは、実はかなり早期に飛田ケイトの動向を掴んでいた。
そして、彼女が飛田ケイトこと金沢将馬を諦めたのには明確な経緯があった。
「このお土産、どうみても千葉じゃん」
それは、本能寺みつぐが、POD Stand!! と同じ事務所の先輩アイドルグループ、Might Height HereのSNSをチェックしていた時だった。後輩のアイドルからもらった差し入れの中に、ひときわ目立つ巨大な袋。ピーナッツである。もちろん、千葉の名産品にピーナッツが含まれていることをみつぐは理解している。というか、パッケージにも堂々と書いてある。
POD Stand!! に千葉出身のメンバーはいない。そして、彼らの中でも派手派手しくプロフィールを捏造しているメンバーの筆頭が飛田ケイトであった。七月に入ったすぐの頃、すでにこの時、みつぐは飛田ケイトの王子様設定に疑問を持っていた。
「箸の使い方きたねえな」
「ダンス下手糞だな」
「一人だけシューズがいまだに古い」
「そもそも歌もやる気ねえ」
「全体的に顔と身長以外にいいとこねえから設定で盛ってんな」
それが本能寺みつぐの分析だった。
そして、それに加算される巨大なピーナッツの差し入れ。そうだ、きっと彼は六本木に住んでいるわけではない。前にSNSに載せていたやたらと間取りの広そうな家も、多分六本木には存在しないのだ。彼女はそう合点した。
七月も末になるころ、貯金は少し潤っていた。
「本能寺さん、実は前から言おうと思ってたんだけどね。バイト、やめていいよ」
「いいえ、やります」
本能寺みつぐは期末テストが終わった直後からバイトに精を出していた。明るくてきれいな喫茶店である。立地は六本木。
「いや、もういいよ。イヤイヤやってるでしょ」
「そんなことありません」
休憩室で数学の参考書を読んでいるみつぐを捕まえたのはオーナーの吹田真吾であった。三十代の男だが、方々から集めた金とカリスマ性であっさりと六本木のこの店を買い取り、今風のいけてる喫茶店に改装したのだ。
みつぐは急いで背筋を伸ばしてスマホを机の上に放置してオーナーに向き直っていた。彼はその様子にふふっ、と笑った。
「接客がよくなかったでしょうか? それとも注文のミスとかしてましたか?」
みつぐ自身、クビになるようなことをした覚えはなかった。ほかの店員やバイトともうまくやっていたはずだ。
「違うよ」
そういってオーナーは首を振った。
「本能寺さん、POD Stand!! のファンでしょ。飛田君かな」
「はい! ……いいえ! 違います!」
勢いで肯定した後、みつぐはしまったと思った。そう、この喫茶店は何を隠そう、飛田ケイトのお気に入りの店として紹介されたのだ。彼のファンとしれれば、不純な動機でバイトをしているのがばれてしまう。客目当てでバイトをしてるなど、バイトテロの火種である。未然に防ぐのが店側の当然の対応である。
「あの、その……」
みつぐは口ごもった。
「別にいいんだけどね。でも、飛田君はうちの店、来ないよ」
「え? なんでですか」
思わず食いついてしまい、みつぐは口を押えた。もう遅かったが。その様子にオーナーは笑ってしまっていた。
「やっぱりね。前に休憩室で飛田君の写真見てたでしょ。あれ見てピンと来た」
「……」
何となく恥ずかしくなってみつぐは黙り込んだ。
「あのね。飛田君はウチを行きつけにしてないよ。知り合いに雑誌編集者がいてね。店のリニューアルに合わせて記事を出せないか、お願いしたんだ。そしたら、ちょうどいいからってあのアイドルの行きつけの店として紹介されることになったわけ」
「え、そうなんですか」
「だからいくら働いても会えないよ。せっかくだから一回ぐらい来てくれるかなーなんて思ってたんだけどこりゃ駄目だね」
彼はポリポリと頭をかいた。
「は、はい」
みつぐはあいまいにうなずいた。
「不純な動機ってのもそうだし、でも、なんていうのかなあ、騙してるみたいで申し訳なくってさ」
「そ、そうですか」
みつぐは気まずくなってうつむいた。
「勿論、それでもいいっていうなら続けてくれてもいいんだけどね。本能寺さんは仕事の覚えもいいし、計算も早いから凄く助かってる。だからかなあ」
不思議そうに彼は首を振ると、
「なんか罪悪感がすごくってさ。本能寺さんならどこの店でもやっていけると思うし」
「そうですか……」
みつぐはそのまま思案した。
「僕は金稼ぎが出来ればそれでいいってスタンスだけど、金稼ぎには努力が必要だ。で、努力の原動力は正当な報酬だ。この二つは常に相互関係であってほしい、って僕は期待してる、のかな」
カリスマオーナーとすら持ち上げられる吹田にしてはめずらしく、歯切れ悪そうに言った。
「もちろん、実らない努力もある。例えばそれは、本能寺さんがここでバイトを続けるってことだと思う」
「それは……」
「まあ、僕の言うことを信じないでバイト続けてくれると店としても助かるんだけどね。正直、店長よりもイケてるよ。もう少し勉強したら経営任せられる気がする」
急に持ち上げられて、みつぐは顔が赤くなるのを感じた。
「でも、ここは僕を信じて努力してほしい。まあ、不純だなあとは思うんだけど、やっぱ見てられないな」
「不純ですか」
「まあね。ファンとして会いたいならライブでも行けばいいんだけど、君はそうもいかないんだろう。だったら、そうだなあ」
彼は何かを思い出す様に首をひねり、
「そうだ、せっかくだったら通ってくれるって思ったんだけどさ、なんでかっていうと、飛田君さ、うちのコーヒー、よく通った近所の喫茶店に似てるって言ってたんだよね」
「マジですか」
「そう。マジ。店の雰囲気は全然違うのに、そっくりな味でびっくりしました、だってよ。むかついたから覚えてる。店長だって歴は長いし経験もあるのにさ、それを似てるって言いやがって。店長に足りないのは経営センスだけなんだっての」
私怨を感じた。
「ウチの味も匂いも覚えてるでしょ。よかったらいろんな喫茶店回ってチェックしてみたらいいんじゃないかな。あとこれ」
オーナーはエプロンのポケットから封筒を取り出した。
「短い間だったけどお給料。振り込むと手数料がかかるからね」
後でみつぐが中身を確認したところ、同封されていた明細よりも多い額が入っていた。これがみつぐの軍資金。
そしてそれを千葉への遠征に充てることにした。七菜香には悪いが、喫茶店巡りに付き合ってもらうつもりだった。一人で喫茶店に入るのは少し勇気がいるし、七菜香は昔千葉に住んでいたという。変なタイミングでちょいちょいディズニーランドの自慢をされるからよく覚えていたのだ。
勿論、みつぐに人探しのノウハウはない。だが、どんな刑事ドラマでも、古畑任三郎でさえも地道に現場に通ったり聞き込みをする。大体どんなアームチェア・ディテクティブだって実地を疎かにするものはいないのだ。多分。
しかして、ただのあてずっぽう、というわけでもない。
七菜香には言わなかったが、オーナーのヒントを基に喫茶店の目星をつけた。その結果、多く見積もっても十軒ほど回ればヒントがつかめる算段だった。
バイト先の喫茶店の豆の種類はそっくり。でも立地、そして店の雰囲気は違う。やめる前にコーヒー豆の情報を店長から聞き出し、あまつさえ似た店舗が千葉にないかも訊ねておいた。店長が勉強熱心なおかげですでにこの時、より有力な店の情報を得ることができた。その上で、この店の雰囲気とは違う、暗めの、かつ学生が通えるレベルのお値段、近所に住宅がある、などなど、どんどん候補は絞ることができた。
果たして、一日目、その最後の四件目にして本能寺みつぐは目当ての店を見つけた。六本木でバイトしていた店とそっくりな味の店を見つけた。暑さも忘れて、唇の上のコーヒーの味さえ確かめ、確信した。七菜香は神妙な面持ちに変わったみつぐのことを、苦いのが苦手なのに我慢している、と捉えたらしいが事実は違った。みつぐは、この近くに飛田ケイトの存在を感じていた。
みつぐはすぐにそれを七菜香に伝えようとしたが、なぜか言葉が喉につっかえた。ただ単に、自分をバカにした表情の彼女が気に食わなかっただけかもしれない。そもそも、コーヒーの味が近いからと言って飛田ケイトの住居に近づいたと考えるのもおかしい。そうだ、わたしは確度の低いことを口にしたくないのだと、みつぐは結論した――妙に余裕ぶった彼女の顔は見なかったことにして。
「卒業アルバム、買い取ります」
やりたくない方法にみつぐは手を付けた。三日たっても成果が出なかったからである。古本屋に行って、片端から店舗へそう持ち掛けた。誰が売っているのかは知らないが、有名人の過去の情報を記者が握っているのはこういうところから流れている。店に在庫のない年代のモノは、もう少しお金を積んだら『探してあげよう』と快く対応してもらえた。喫茶店のオーナー、吹田には申し訳ないが、最初から不純なことに使うとわかって渡されたお金である。罪悪感はあまりなかった。今思うと、彼の情報を横流しした口止め料も含まれていたのだと思う。つまり彼も共犯者である。
買い叩いた大量の卒アルを読み進めるうち、ついに飛田ケイトとそっくりな顔の少年を見つけた。髪も染めてないし、どことなく地味な表情の男。その名も、金沢将馬。後でわかったことだが、将棋が好きな祖父が名付け親だという。趣味・特技の欄にも将棋、と書いてあった。合点がいった。飛田ケイトという名前は将棋をもじったものだ。学校のエリアも喫茶店と被っている。
金沢将馬をキーワードに、残りの卒業アルバムを見つけるのは簡単だった。年代もわかったし、地域も絞れた。だが、この時すでに、みつぐはこの方法で捜索したことを少し後悔した。
それは、小学校の卒業アルバムだった。金沢将馬のプロフィールの欄に、へたくそな自画像や何かのイラスト、それに対する思いが書かれている。どの子供たちも、その時のはやりのアニメや漫画のキャラクターやスポーツの絵を描いている中、将棋の駒を書く渋さを見せつける金沢将馬少年だったが、その中に小さな人型のイラストがあった。隣に十字のマークが二つ並んでいる。この時、みつぐは明確に嫌な予感がした。これは、十字ではなく、プラスでもなく、カタカナなのではないか、という疑問だ。
さらに、高校の卒業アルバムでも気になるものを見つけた。最後のページの寄せ書き部分に、黒く塗りつぶされている箇所がある。気になってその上から紙を当てて鉛筆でこすると、相合傘が出てきたので笑ってしまった。だが、その内容に首を傾げた。相手は、『ヒナ』そして『ショウマ』であった。おそらく金沢将馬で違いないだろう。どうやら高校時代でもモテてはいたらしい。そりゃそうだ、とみつぐは納得した。だが、気になるのは黒く塗りつぶされていることだった。振られているに違いない。アルバムの顔写真を見る限り、このヒナという少女、かなりかわいい。不思議だとみつぐは思った。
一方で、こうも思った。もしも、この金沢将馬という男、小学校の卒業アルバムの好きなものとして挙げた、この『十十』という人型のイラストをいまだに引き摺っているとしたら……
疑念はずっとみつぐの脳内に付きまとった。
だとすると、わたしはとんでもない過ちを犯しているのではないか。
本能寺みつぐは気づいてしまった。
『矢島七菜香は本当に味方なのか』
もとから確率の低い行動をとっている自覚はあった。手当たり次第に千葉をほっつき歩いて探すなどバカげている。だが、もしもその確率をさらに下げている行動を、自らしているとしたら。
もしも、矢島七菜香を利用して金沢将馬を見つけることができてしまったら。
みつぐは、過去に自分が七菜香に送ったメッセージを見直した。ストーカーまがいの行動を逐次七菜香に報告している。人に話すことで思考は整理される。七菜香はちょうどいい壁だったはず。
いつからだ?
みつぐは思案した。いつから、そう考えたとき、ピンとくるものがあった。それは七菜香の行動ではなく、飛田ケイトのSNSだった。
元々彼のSNSはレッスンや出演情報が主で、稀にプライベートの食事風景が載る程度だった。
だが、ちょうど七月の末あたりから私服、かつ家の写真が増えてきた。みつぐも飛田ケイトの住んでいる場所を特定するためにプライベートの画像をひたすら漁ったことがあったが、その数はほとんどなかった。これぞ、というのはデビューしたての、彼の王子様イメージが固まる前のわずかな期間に掲載された写真だけだった。それが、ここ最近になって急に増えてきた。
もしも、自分の発言が七菜香を動かし、金沢将馬に影響を与えているとしたら。
急に数の増えた彼の私服は全て、六本木近辺のショップで入手可能なものだ。さらに、そのほとんどがみつぐの元バイト先付近というのも恣意的に思える。これが高度な知恵比べだとしたらありえないが、相手がもしも大体の教科は赤点、そのほかもぎりぎりの矢島七菜香だとしたら十分あり得る。
「ひどくない?」
「だって、七菜香バカじゃん」
「うるせえ」
みつぐは自分の行動や考えを七菜香に丁寧に説明していた。長い長いみつぐの話の過程で、すでに七菜香はみつぐから離れており、今は二人並んでPOD Stand!! のライブのDVDを見ていた。
「じゃあ待って、割と前からばれてたの?」
「ばれてはないよ。でもそうだとは思ってた」
「最悪だ」
「ほんとだよ」
頭を抱える七菜香にみつぐは呆れてそう言った。
「ごめん」
七菜香はもう一度素直に謝った。
「もういい? 疲れた」
みつぐはそういって床に転がった。
「なんで降りたのか聞いてない」
「しつこいなあ」
みつぐはそういって天井をぼやあっと見つめる。
「わたし、八月入ってから二人がホテルに入ったの見たよ」
「あー……」
七菜香は気まずそうにそういった。
「千葉に行くって言って、七菜香の尾行した。遊ぶの断られたときにさ、もうわかったわ。テニス部のやつにメッセ送ったら七菜香は夏休み入ってから一度も部活出てないって言ってたし」
「うーわー」
七菜香は膝を抱えて丸くなった。
「ちなみに、アオイも言ってたよ。多分七菜香に彼氏できたって」
「なんでわかんだよ」
「ニナも彼氏できて部活さぼりまくってたっしょ。テニス部のみんな察してる」
「わー、まじかよ」
「ってわけ。ちょっとわたしもつらくなってきたわ。みつぐもだいぶ嘘つきだけど、わたしも後半は千葉行かないで二人の尾行ばっかしてたから。あーまじ、なにやってんだろ」
「ごめん。もう大丈夫」
「そうだ。わかればよし。帰れ」
しっしっ、そういってみつぐは玄関を指差した。
「ごめん。わかった」
「おう、そうしろ」
そういってみつぐは七菜香に背を向けて転がった。
「でもさ、みつぐ、やっぱり諦めてほしくない」
「断る。言ってる意味自分でもっかい考えろブス。しばらくは無理だよ」
「……わかった。ねえ、また連絡していい?」
「やだ」
徹底して七菜香を跳ねのける。
「わかった。じゃあ、また、今度」
七菜香が諦める番だった。七菜香はそういってみつぐの家を後にした。
「無理に決まってるじゃん、ね」
みつぐが諦めたのには、本当の理由がある。
だが、一方で、整理せねばならない、とも思った。自分が諦めるのに、きちんと推論ではなく結論を持たねばならない。そう感じる。
――なぜ、金沢将馬と矢島七菜香が付き合うことになったのか。どうして自分に付け入る隙がないのか。
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