フレンズ

フレンズ

「おじいちゃん! お話聞かせて!」


 分厚い灰色の雲が空を覆い、夜のように暗い昼のことでした。


とある小さな町に一人のおじいちゃんが住む、青い屋根の家がありました。


その日は、お客さんが来るというので、おじいちゃんは遊びに来ていた孫のカーロと一緒に、家の掃除をしていました。


掃除が一通り終わり、二人はソファに座ってひと息ついていましたが、カーロはおじいちゃんの膝に飛びついたのです。


おじいちゃんはいささか驚いたような顔をして、カーロを見下ろしました。


「おお、カーロ。お話が聞きたくなったのか」


「うん! だって、今日はおじいちゃんのお話が聞きたくてここに来たんだよ? それなのに、来たばっかりの僕に掃除を手伝ってよって、タオルでピアノをピカピカに拭かせるんだもん……」


 むくれるカーロに、おじいちゃんはこまったように笑いました。


「ごめんね。おじいちゃん一人じゃ、お客さんが来る前に終わりそうになかったから、手伝ってもらったんだ……よし、それじゃあ掃除も終わったことだし、お話しよう」


「わあい!」


 カーロはおじいちゃんのひざにこしを下ろすと、ソワソワと体を動かしました。


おじいちゃんのお話は、面白いものから切ないものまであり、まるで本当にあったことのように語ります。


カーロは自分がお話の中に入って、一緒に冒険をしている感覚が大好きでした。


この前は、とある家族のあたたかいお話で、その前は旅人のお話でした。


おじいちゃんのお話はちょっと言葉が難しいですが、何回も聞いていれば、そんな事は気にならないぐらいお話しにのめりこんでいました。


「ねえ、どんなお話? 今日はどんなお話?」


 誕生日のプレゼントをわたされる直前のようなはやる気持ちをおさえきれず、カーロはおじいちゃんを急かします。


おじいちゃんは、カーロの柔らかい小麦色のくせ毛をひと撫でして、なだめました。


「まあまあ、おちついて。お話は、にげないからね」


 おじいちゃんは、ソファの背もたれに深く寄りかかり直すと、遠くの方を見つめ、穏やかな声で話始めました。


「これは、今よりもずっと昔の話……」





 昔、この町よりもずっと遠いところに、人がたくさんいる大きな町があった。


昼間は子供たちの遊ぶ声がそこかしこで響き渡り、夜は人通りが少なかった。


だが、それぞれの家が冷たい夜にあたたかい灯りをともして、家族と楽しくお喋りをしていて、賑やかな音は絶えることはなかった。


そんな町に、アムールというカーロと同じくらいの年の少年がいた。


体力はあまりなくてやせていたけれど、心は優しく、たくましい少年だ。


また、明るくて人懐っこかったから、友達が沢山いた。


元気があればほとんどの時間を友達と遊び、楽しい時間を過ごしていた。


ある日、アムールは友達とかくれんぼをしようと、奥にいるお母さんに声をかけて、家のドアノブに手をかけた。


すると、お母さんは早足でアムールのもとに駆け寄り、目線を合わせるようにしゃがんだ。


アムールが出掛ける時に行ういつものことだったので、特に動じずにお母さんの言いつけを待った。


「いい? アムール。何度もしつこいけれども、遊ぶ時は、絶対に奥にある森の中に入ってはダメよ」


「うん!」


 アムールは元気よく答えたが、内心少しうんざりしていた。


何度も何度も遊びに行く度に言われると、そういった感情が湧くのも仕方のないことだ。


でも、お母さんの真剣な目を見ている内に、ああ、ほんとに大切なことなんだな、と自然とうっとうしい気持ちが消えていった。


そして、半ば儀式化しているそれを終えると、アムールは元気よく石畳の道に飛び出した。


レンガ調の住宅街を次々と通り過ぎると、大きな円を描き、真ん中に水飛沫を気持ちよさそうにあげている噴水がある広場に到着した。


五、六人ぐらいいる友達とまあまあ話した後、かくれんぼの鬼をじゃんけんで決めた。


アムールは、鬼から隠れる側になった。


鬼が数を数えている間、隠れる場所を探して皆散り散りに走った。アムールは最初、張りきって探していたが、なかなかいい隠れ場所が見つからなかった。


建物はいくらでもあるが、中に入るのは禁止というルールになっているし、影に隠れるのも単純で、面白味がなかった。


もうそろそろ鬼が探しに来る頃になっても、アムールは隠れ場所が見つからず、少しばかりの焦りとともに、どんどん奥に進んでいった。


アムールが疲れて、はた、と足を止めた時には、町並みは途絶え、周りに木々が乱立していた。


アムールのお腹の底が小さく跳ねた。


隠れる場所を夢中になって探している内に、いつの間にか森の中に入ってしまったのだった。


アムールは焦った。


お母さんの言いつけを破ってしまった罪悪感と怒られてしまうという恐怖心で汗が噴き出た。


慌てて来た道を戻ろうと、踵を返した。今ならまだ間に合う。大丈夫。


その時、森の奥から何やら音が聞こえてきた。


澄み渡るような、純粋な、ピアノの音だった。


アムールは音楽家の父親からピアノを習っていたため、ピアノに関しては多少知識がある方だった。


同じ楽譜でも個人によって、音の出し方はまるで違うのだ。


今まで父親に連れられて、いろんな人のピアノの音を聞いてみたが、生まれたての赤子の頬をそっと撫でるような音は聞いたことなかった。


曲も、聞いたことがないあたたかくて、優しく包み込む上等な綿制の毛布のようだった。


一体どんな人が弾いているのだろう、と気になったアムールは、結露で湿った土を思い切り蹴った。


走るたびに、風の音に混じって純粋な音が鼓膜をやんわりと覆う。


アムールはもうその音の虜になっていた。

 

周りの木々が興味深そうにアムールを見下ろしていても、空をせわしなく行き来しているカラスが睨みつけていても、かまわず音のする方へと走る。


この時アムールは、お母さんとの約束が頭から完全に抜け落ちていた。


アムールが足をがむしゃらに動かし続けている内に、町の広場と倍ぐらいある開けた場所の入り口にポツン、と立っていた。


そこから少し離れたところに、皮がはげかけた二人掛けのピアノ椅子に座って、グランドピアノを演奏している、アムールよりひと回り大きな少年がいた。


少年は顔の上半分を長い前髪で隠し、体はほこりだらけ。


口にはキバのようなものが出ており、腰にはボロボロの布を巻いているだけで、アムールのようにブラウスもズボンも着ていない。


でも、アムールはさほどそのみすぼらしい姿は気にならなかった。

 

音色の魅力がそれだけ強かったことも確かだが、太陽がスポットライトの役目を果たし、周りの木々が観客として聞くという自然の出来事がうまく重なったステージだったため、少年の姿はステージにあっていた。


そのステージは、アムールのお父さんに連れられて見てきた、何百万とかけられた格式高いステージのピアノコンクールを、悠に超える素晴らしさだった。


アムールはしばらくの間、周りの木々たちに紛れて、少年の演奏に身を委ねた。


少年は一つ一つの音を丁寧につなげ、曲をゆったりと演奏している。


ペダルを踏むことによって、純粋な音が誇張してより一層深くアムールの心に浸透した。


やがて曲が終わったのか、少年が鍵盤から手を離した。

 

音が名残惜しくも、余韻を残して空気に溶け込んでいった。


「ブラボー!」


 アムールはお腹から息を噴き上げるように声を出し、両手を頭の上に上げて、力一杯手を打った。


少年は拍手に驚いて椅子から転げ落ちるかのように降り、そのままピアノの影に隠れてしまった。


しばらくまごついていたが、アムールはひどい奴ではなさそうだと知ると、少年はおそるおそる顔を出し、アムールにこう尋ねた。


「き、君はだれ?」


「僕はアムール! 君の名前は?」


「え、えっと、ぼくは、ヴィレイン……どこから来たの? こんなところ、誰も来ないのに……」


「この奥にある町から来たんだよ! ピアノ、とっても上手だね! 僕初めてだよ、こんなに感動したの! 君が紡ぐ音もさっき弾いてた曲も、大好きになっちゃった!」


「えっ……僕の曲が、だ、大好き?」


「もしかして、ヴィレインが作ったの?」


「う、うん」


「曲作れるの!? すごいすごーい!」


アムールの顔が喜びに弾け、興奮してその場でピョンピョン飛び跳ねた。ヴィレインは怒涛の勢いに戸惑っていたが、口元は嬉しそうに緩んでいた。


「ねえねえ、この曲の……」


 と、アムールが言いかけた時、町の方から大きな鐘の音が鳴り響いた。この鐘は、もう暗くなるから家に帰りなさい、という合図だった。


この鐘を聞いた瞬間に、家に帰らないと、お母さんが心配してしまう。


「あっ、鐘だ。もうお家に帰らないと……」


 しかし、アムールは一つ心配事があった。


「帰り道、どこだろう……」


 何せ音を頼りに滅茶苦茶に走ったため、どこに歩を向けたらよいのか分からなくなっていた。


アムールは顔を曇らせた。


すると、それを見かねたのか、ヴィレインはピアノの影から出てきてじりじりとアムールに近づくと、小さな声でこう言った。


「その、嫌じゃなければなんだけど、僕が森の入り口まで、送る、よ?」


「本当? ありがとう!……でも」


 アムールは、益々顔を曇らせると、小さく不満をこぼした。


「まだ、帰りたくないなあ」


「えっ……」


「だって、ヴィレインのことももっと知りたいし、さっきの曲を最初から聞きたい……」


 口をとがらせ、駄々っ子のように体をくねらせたアムールに、ヴィレインは驚いたように口を開けていた。


「……どうして」


「ん?」


「どうして君は……」


「君、じゃなくて、アムール、だよ」


「……どうしてアムールはぼくのこと怖がらないの?」


「なんで?」


「えっ、だ、だって……こんなに体大きいし、キバみたいなの出てるし、それに……」


 ヴィレインは前髪を薄汚れた手でおさえた。アムールはキョトンとして、首を傾げた。


「……全然怖くないよ? あんな綺麗な音出せるし、それに何と言ってもあの曲! あったかくて、優しかった……ピアノの音や曲って、どういう人か表すって、お父さんが言ってたこと、すっごく分かった!」


 アムールは、ヴィレインの長い前髪の奥にあるであろう目を見つめた。


「僕、ヴィレインともっと仲良くなりたい! ヴィレインのこと、もっと知りたい!」


 ヴィレインは何か言おうと口を開きかけたが、すぐに唇を噛み、下を向いてうつむいた。


アムールはヴィレインの行動に、また首を傾げたが、ヴィレインの顔はすぐに上がった。


「ありがとう」


 日が沈みかけたオレンジ色の空に、ヴィレインの笑顔は、よく映えた。


それからというもの、アムールは友達と遊ぶ時、時間の半分をヴィレインと過ごすために当てた。


最初の内は、何の疑いもなく友達は受け入れていた。


けれど、それが毎回ともなると、どうしたのだろうと不思議がる子が出てきた。中には直接尋ねる子もいた。


そういう時は、ヴィレインと遊んでいることは伏せて、町の図書館によって本を読みたい、など、子供ながらの稚拙な噓で無理矢理誤魔化した。


お母さんに言いつけを破ったことへの後ろめたさもあったが、当のヴィレインから、遊んでいることは誰にも言わないでほしい、と口止めされていたからだ。


どうしてなのか、と尋ねたら、俯いて黙り込んでしまったので、アムールはあまり深く聞かなかった。


誰でも秘密にしたいことはあるだろう、ってね。


アムールとヴィレインは、会うと専らピアノを弾いた。


二人掛けのピアノ椅子を半分こに分けあって、順番に持ち曲を披露したり、連弾したりして、楽しい時間を過ごしていた。


ヴィレインはアムールが聞いたことのある曲から知らない曲まで幅広く知っており、弾き終わるたびにアムールは手が赤くなるほど力一杯拍手した。


ヴィレインが鍵盤をなぞる度、あの澄み渡る純粋な音が曲を包み込む。

 

どんなに聞きなじんだ曲でも、ヴィレインお手製の音のベールを纏うと、アムールがお目にかかることはなかった、新たな曲の姿が見えてくる。


アムールはその姿を見るのが堪らなく大好きだった。


ある日、いつもと変わらず、アムールは自分の持ち曲とヴィレインとの連弾が終わったので、ヴィレインが演奏するところを眺めていた。


出会ったばかりのころは、おどおどしたり、どこか怖がっている様子だった。


今でこそ隣に座れているが、出会って間もないころは指の先まで石化状態だった。


ピアノを通してヴィレインと交流していくうちに、ヴィレインの表情は段々と穏やかになっていった。


だが、出会う回数をどれだけ重ねても、知らないことは多かった。


ヴィレインは、自分のことをあまり話さなかった。


アムールはもっとヴィレインのことを知りたくて、色々質問した。例えば……


 どうして森に一人でいるのか。

 どうして前髪で顔の上半分を隠しているのか。

 どうしてピアノが森にあるのか。

 どうして君はそんなにピアノが上手いのか

 

等々。


 アムールはヴィレインと仲良くなりたいがために、無邪気な質問をぶつけた。


稀に答えてくれるものもあったが、ほとんどがなぜ誰にも遊んでいる事を言ってはいけないのか、と尋ねた時と同様の態度をヴィレインは取った。


さっき例に挙げた質問は、全部ヴィレインは答えなかったものだよ。


アムールは、その素振りを見ると、こちらまで悲しくなってしまうため、ヴィレインが無言で拒否した質問は、それ以来出さなかった。


しかし、時々この「どうして?」が、頭の中を巡ってしまうのも事実だった。


ヴィレインは、アムールがこの森を訪れた時に弾いていた、あのあたたかくて優しい曲を演奏していた。


「あ、この曲……!」


 ヴィレインが唯一作曲し、ヴィレインしか完成できない曲。


最初に会った時以来、この曲は聞いていなかったので、何だか新鮮な感じがした。


アムールは暫くその曲に耳を傾けていたが、突然何かを思い出したように、「あっ!」と声を上げた。


ヴィレインは驚き、繊細に力の強弱を調整した指が乱れ、不協和音が鳴り響いた。

  

アムールは慌ててヴィレインに謝った。


「ごめん! ……その曲の名前、聞いてなかったことを思い出して、思わず……」


「この曲の、名前?」


「本当は、初めて会った時に聞こうと思ったんだけど、あの時はちょうど鐘が鳴っちゃったから……ねえ、ヴィレイン。その曲の名前ってなあに?」


 ヴィレインは唇を引き結んで、俯いた。


この仕草は幾度となく見た。


また、無言で突き放されるんだ。


アムールはまたか……と思いながら、内心諦めようとした。


だが、ヴィレインはゆっくりと口を開いた。


「……ごめんね、アムール……実は、この曲の名前、ないんだ」


「……そうなの?」


 ヴィレインの態度と答えに意表をつかれたアムールは、若干素っ頓狂な調子で答えた。


「なかなか、いい名前が浮かばなくて……」


「そうだったんだ……じゃあさ!」


 アムールは俯いているヴィレインに、笑いかけた。


「僕が、名前つけるの手伝う! 今決めようよ!」


「えっ、今?」


「うん、今!」


 さっそくアムールは、腕を組んで考えに耽った。


いろんな言葉を頭の引き出しから引っ張り出して眺めてみるものの、すぐに放り出して、また別の言葉を探した。


幾度とそれを繰り返したが、これだ! という名前は見つからない。


アムールはヴィレインの方を見ると、ぎこちなく腕組みをして一生懸命考えているようだった。


「ヴィレイン、なにか浮かんだ?」


「ううん、なんにも」


「そっかぁ」


 アムールは腕組みをやめて、空を仰いだ。


重たそうな灰色の雲から、うっすら光が差し込んだ。


しばらくその光を見ていたアムールはヴィレインに、ふと浮かんできた疑問を投げかけた。


「ヴィレインはさ、この曲をどういう思いをこめて作ったの?」


「おもい?」


「うん。ピアノの先生――お父さんが言っていたんだけどね、曲にはそれぞれ、作った人の思いが込められているんだって。だから、ヴィレインの思いを知ったら、曲の名前が浮かびやすくなるかなって考えたんだ!」


「ぼくの……思い……」


 ヴィレインはしばらく考えて、ゆっくりと話し出した。


「僕はずっと、友達っていうものが、欲しかったんだ。だから、誰かと一緒に遊んだり、お喋りしたりとか……僕はしたことなかった。想像で、友達になったら、どういう感じになるのかなって考えるしかなかった。この曲は、僕の一種の理想のようなものなんだ。アムールのまねっこになっちゃうんだけど、友達が出来たら、あったかくて優しい気持ちになるんだろうなって、なったらいいなって……ごめん、あんまり上手くいえなくて」


「同じだ!」


 アムールは手で口を覆って、間髪入れずに叫んだ。


「僕もね、友達と一緒にいる時にね 、心があったかくなって、優しい気持ちになるの!」


「ほ、本当?」


 ヴィレインは俯いていた


「うん! 友達と遊んでいるときは楽しい気持ちが強いけれどもね。一番あったかく感じるのは、ヴィレインと一緒にいる時かな~」


「……え?」


「ん? どうしたの、ヴィレイン?」


 ヴィレインは低い声で驚くと、アムールはその様子に首を傾げた。


ヴィレインのすすけた灰色の肌が赤みを帯びた。そして、どことなくおぼつかない口元を懸命に動かして、たどたどしく言葉をつなげた。


「あの、あ、アムール……ぼくは、きみの、友達なの?」


「えっ、そうだよ? ヴィレインは友達だよ?」


 アムールは、ますますキョトンとした顔でヴィレインを見た。


 アムールは大きく目を見開いていたため、ヴィレインの顔がよく写った。


 顔はほのかに赤いまま口元が緩み切り、はにかむように笑った顔。


 アムールの脳裏に存分に焼き付いた。


 アムールの心が、あったかくて、優しい気持ちになった。


「ヴィレイン、いい名前が思いうかんだよ」


「えっ、ほんと? どんな名前?」


「『フレンド』!」


「『フレンド』?」


 ヴィレインは首を傾げた。ヴィレインは聞いたことがない言葉なのだろう。アムールは胸を張って、得意げに説明した。


「『フレンド』は『友達』っていう意味なんだよ! お父さんと音楽鑑賞に行った国で知った言葉なんだ。どうかな?」


「『フレンド』……いいね、それにしたいな」


 ヴィレインは口元を弧の形にすると、アムールは両手を高く上げた。


「やった! ……げほっごほっ」


「アムール? だ、大丈夫?」


 突然咳込みはじめたアムールの背中を、ヴィレインはあわててさすった。


「んん……うん! 大丈夫だよ!」


「良かった。でも、今日はお開きにしよう。なんだか天気も悪くなってきたし……」


 アムールは空を見ると、雲の隙間から出てきていたか細い光が完全に閉ざされ、雲がますます厚みを増したようで、色が濃くなっている。


「え~……わかった」


 アムールは内心まだ遊びたかったが、ヴィレインの心配そうな顔を見て、今日は帰ることにした。


 ヴィレインとアムールは椅子から降りると、森の入り口まで行くため、手を繋いだ。


「『フレンド』、最後までちゃんと聞きたかったなぁ」


「大丈夫だよ、アムール。いつでも『フレンド』は弾けるから」 


 二人はそんなたわいない話をしながら歩いた。  

 


 ――森で会うことになるのは、今日が最後だと知らずに。


 

  アムールは酷い病気になってしまった。


ヴィレインの曲を、『フレンド』と名付けて帰ってきた日、玄関先で倒れてしまったのだ。


朦朧とした意識の中でアムールの両親が何か言っているように聞こえたが、ほとんど覚えていない。


気づいたら、ベッド寝かされて、アムールの両親が医者の診察を受けていた。


アムールの病気は、村の流行病であるらしく、かかった人の多くを死にいたらせてしまう恐ろしい病気だと診断された。

 

幸い薬はあるものの、お金がかかる。


アムールの家ではその薬を支払うことができるお金がなかったからだ。


アムールの体は病弱だ。


病気に打ち勝てる免疫も体力もなく、ただただ元気を吸い取られていった。


毎日ベットで寝ていても良くならず、病気で苦しむ日々が続いた。


そして、変わらず病気と葛藤していたある夜中、アムールは、目が覚めた。


頭がブヨブヨと水っぽく腫れているようで、動かすと頭がくらくらしてしまうから、ベットの他に、机と椅子ぐらいしかない簡素な自室も見渡す気にもなれず、ジッとするしかない。 

  

枕もとの棚の上に揺らめいているろうそくの炎が、アムールの顔半分を照らす。


唇に少し当たっているので、これ以上乾燥しないように、ぬめり気が強くなった舌で舐めた。


何故かしょっぱい味が、口内に広がってむせた。


むせる声が虚しく宙を漂い、消えていく。


ヴィレインに会えない悔しさと一人きりの寂しさに押し潰されそうになり、涙が目の端に溜まった。


涙が今にも溢れ落ちそうになったその時、アムールベットの左側から十メートルぐらい離れたドアの外から、誰かが何事かを言い合っている声が聞こえた。


アムールの体は驚きのあまり、仰向けのまま固まった。


涙は流れ落ちたのか、引っ込んでしまったのか、目の端に濡れた感触はなくなっていた。


とりあえず声の主だけ聞こうと、耳を傾けた。


よくよく聞いてみると、言い合っている声はアムールの両親だった。


いつもは仲が良く、喧嘩をすることはほとんどなかった。


母親の甲高いヒステリックと父親の低い怒鳴り声がぶつかり合い、ドアの隙間をすり抜けて、不協和音がつんざいた。


「アムール……あの化け物……」


「森で……さらわれ……病気に……」


 アムールは喧嘩している内容は断片的にしか聞き取れず、なんて言っているのか理解できなかった。


悔しさと寂しさを押し退け、得体のしれない不安が湧き出ていてもたってもいられなくなり、アムールは目を固く閉じ、両手で耳をふさぎ、毛布を頭から被った。


頭が揺れて吐き気を催したが、無理やり胃に押し込めて、微動だにしないよう努めた。


どのくらいそうしていたのか。もう大丈夫だろう、と耳から手を離した。


不協和音はもう鳴っていなかった。


アムールはホッとして、頭を毛布の外に出した。


ほっとしたアムールは深く深く息をついた。


だが安心したのも束の間、アムールのベットのすぐ右横にある窓ガラスが割れた。


ガラスのかけらが数個、布団の上に落っこちた。


アムールは恐怖ですくみ上ってしまい、両親を呼ぼうにも声が出なくなり、頑張って絞り出そうとしても、ただ咳が出るだけであった。


鍵がかちり、と解錠音を立て、窓枠がきしんだ。中に、入ってきた。


アムールがそう感じた瞬間、頭上で何かが跳び、ベット横に重々しい音を立てて、着地した。


風が吹いて、ろうそくの炎が耳を雑に撫でるような音を出して、消えかかろうとしていたのが聞こえた。


アムールはもうダメだと覚悟して、目をまた固く瞑った。


「アムール……」


 少しおどおどした、相手を気遣う優しい声がアムールを包み込んだ。


アムールの恐怖心はたちまちなくなり、布団の中からとびだした。


ガラスが涼しげな音を立てて落ちたが気にも留めず、夜闇を縫って現れたヴィレインに一刻も早く会いたかった。


ヴィレインは、布団から勢いよく出てきたアムールに少し後ずさった。


アムールは勢いが止まらず、


「ヴィレイン!」


 と、前のめりになったが、頭が揺れてふらついてしまった。


ヴィレインはあわててアムールを抱きとめた。


「お、落ち着いて、アムール」


アムールの手を取って、背中を優しくさすった。


ガタイの良い体が、アムールを包み込み、興奮した心を少し落ち着けた。


「ヴィレイン、どうしてここに?」


「このごろ、アムールが森に来ないから心配で……ほら、この前咳してたでしょ? だから、気になって、アムールの家探してたら、流行り病にかかったっていうのを聞いて……」


「えっ、ヴィレインここに来たの?」


「うん」


 今までいくら家に誘っても、頑なに拒んでいたヴィレインが来てくれたことに、嬉しさを感じた。


「……ありがとう。来てくれて嬉しいよ、ヴィレイン」


 アムールは弱々しくヴィレインの手を握って微笑んだ。


ヴィレインも微笑み返して、アムールの手を握り返した。


「あとね、アムールにこれを渡そうと思ってたんだ。もしかしたら必要かなって……」


 ヴィレインは、アムールの手を握っていない方の手を差し出した。


その手の中には、透き通った淡い緑色の液体が小さな瓶の中に入っており、ろうそくの炎にあたって、なめらかにきらめいていた。


「これ、なあに?」


「これは、お薬だよ。……一応、ぼくが作ったも……」


「えっ? ヴィレインが作ったの?」


「うん。あそこの森で取れた薬草を練り混ぜて作ったんだ。どんな病気や怪我でもたちまち良くなるんだ。苦くないから、飲みやすいと思うよ」


「……嬉しい……、ありがとう、ヴィレイン」

 

 アムールの風邪で弱っていた心がヴィレインの優しさで打ち震え、涙が出そうだった。


舌足らずな口調でお礼を言うと、震える手で瓶を受け取り、蓋を開けて、薬を喉に流し込んだ。


森の緑の匂いが体に浸透し、アムールが悩まされていた奇妙な頭の感覚も、正常に戻っていった。


「……おいしい」


「よかったぁ」

 

 アムールは薬を飲んでほっとひと息つくと、ヴィレインは安心したように、ふっと顔を緩めた。


アムールはヴィレインに満面の笑みを向けた。


「すごい! もう元気になった! 明日からまた、森に遊びに行けるよ!」


「そんな、大げさな」


 ヴィレインは苦笑して、アムールの汗ばんだ頭を優しく撫でた。


「森は逃げないから。ちゃんと休んで――」


「キャアアアア!」


 甲高い叫び声が、ヴィレインの穏やかな言葉をかき消した。


声がした方を見ると、アムールのお母さんがまるで恐ろしいものを目の当たりにしたかのような顔をして、部屋のドアを開けたまま、棒立ちになっていた。


下には、鉄製の桶がひっくり返り、水が床に染み込んで歪な模様を作っている。


大方、アムールの汗に塗れた身体を拭きに来たんだろう。


アムールは、お母さんはヴィレインがいることに驚いていることは分かっていた。


だが、その叫びには、驚きよりも恐怖の方が先行していた。


ヴィレインが窓を割って勝手に入ってきたからかな、とアムールは思い、お母さんに事情を説明しようと口を開いた。


「あ、お母さん――」


 だが、なんとお母さんはアムールの言葉を傾けず、床に落ちていた桶を拾い、ヴィレインの顔面目掛けて投げつけた。

 

 桶はヴィレインの額に当たり、ヴィレインはよろめいた。


「ヴィ、ヴィレイン!」

 

 ヴィレインはアムールの布団に手をついて、いかつい肩を上下させていた。


「お母さん、待って、ヴィレインは悪いやつなんかじゃ……」


「アムール、その化け物から離れなさい! そいつはね、病気を流した悪いやつなのよ! いいえ、それだけではないわ、こいつはあの森の中に住んで、人をかどわかす化け物なのよ!」


 アムールはお母さんの言葉が信じられなかった。


まるで、外国の言葉を聞いているようだった。


怒りはすれど、話を聞かないで遮る事なんて絶対になかったし、冗談を言うような人ではない。


アムールは震える声で、もう一度お母さんに向き直った。


「お母さん、なに……言ってるの……ヴィレインはそんなやつなんかじゃ……それに、僕とヴィレインは、友達……」


「待ってて、アムール、今助けるわ!」

 

 アムールのお母さんは、ひとしきりまくし立てると、部屋のドアから離れ、どこかへ行った。


聞いて、もらえなかった。


言っている事を、理解してもらえなかった。


アムールはショックのあまり固まっていたが、ヴィレインのうめき声で我に返った。


「ヴィレイン!」


 アムールは俯いていたヴィレインの顔を覗き込むと、前髪の下から血が出ていた。


ヴィレインは苦しそうにうめき続けている。


「待ってね、ヴィレイン! 今すぐ手当てを……」

 

 アムールはヴィレインの顔を上げさせて、前髪を一気にかき上げた。


すると、アムールの目は驚きのあまり見開いた。


 

ヴィレインの目は、大きな一つ目だった。


 

瞳は、二人が出会った森の緑色によく似ていた。


おびえているのか、目を細くして涙で潤んでいる。

 

血は目に入らないギリギリでとどまっており、涙が出ていることも相まって、緑色の目を一層引き立たせていた。


「綺麗……」

 

 アムールはポツリと呟くと、ヴィレインの一つ目が大きく見開かれ、深い緑色の瞳孔がよく見えた。

 

しかし、その目は突然閉じられた。

 

アムールのお母さんが、箒の柄でヴィレインの頭を垂直に突いたのだ。


「アムールから離れなさい! この化け物!」

 

 アムールの制止も聞かずに、何度も何度もヴィレインの頭を叩いた。


ヴィレインは慌てて窓から逃げ出した。


「ヴィレイン! 待って!」

 

 アムールが窓から身を乗り出してヴィレインを引き留めたが、目の前には暗闇に塗り潰された町が広がっているがけだった。





「どうして……ヴィレインは化け物なの……?」

 

 カーロは混乱した目でおじいちゃんに問いかけました。

 

おじいちゃんはどこかもの悲しそうに笑うと、お話をつづけました。


「……これは、アムールが後に知ったことだが、ヴィレインはアムールが住んでいた町に生まれた。生まれつき緑色の一つ目で、キバも生え、体つきも大きかったから、周りの人から怖がられていた。ヴィレインの両親はそれでも頑張って育てていたそうだが、周りの悪口と年々成長して醜くなってくるヴィレインの姿に耐えきれなくなって、町を離れる際、森の中に捨てたんだ。邪魔になったピアノと一緒にね。そこからヴィレインはずっと独りぼっちで、町の人たちから蔑まれ、化け物と言われてきた。アムールの病気が治った後、両親からそう知らされて、こっそり森へと向かったが、ヴィレインはいなくなっていた」


「えっ、なんで?」


「アムールを守るためだよ。アムールの両親や町の人達は、『町を恨んで流行病を広めさせた化け物に襲われたかわいそうな子』として見られていた。ヴィレインは人一倍よく分かっていた。化け物と仲良くしているなんて知られたら、アムールが危険な目に合う、と考えた。だから、ヴィレインは自ら悪役になって、いなくなったんだよ」


「そんな、そんなの……」


 カーロは詰まってしまいました。


涙がボロボロと零れ落ちてしまったからです。


おじいちゃんはズボンのポケットからハンカチを取り出し、カーロの目元をそっとふきました。


「町の人たちも、アムールの両親も、ヴィレインのこと何にも知らない……」


 カーロは喉から絞り出すように言い、唇をかみました。


おじいちゃんはハンカチを持つ手を一瞬止めました。


そして、何事もなかったかのようにカーロ目元からあふれる涙を拭き続けました。

 

カーロの涙が少しおさまってくると、ハンカチズボンのポケットにしまい、優しく撫でました。


しばらくおじいちゃん、カーロを慰める時間が続きました。

 

重苦しい空気が漂い、カーロのすすり泣く声が響き渡りました。


暫くするとカーロは落ち着きましたが、まだ暗い顔です。


それでも構わず、おじいちゃんはまたお話をはじめました。


「その後成長したアムールは、ヴィレインを探すために旅に出た。世界中に音楽を届けながら、なんとか生活する毎日を送っていた。ある日……」


 カーロは黙っておじいちゃんを見上げ、嫌そうに首を振りました。


もう、お話を聞く元気はカーロにありませんでした。


おじいちゃんはそれを見ると、お話を一旦区切りました。


そして、にっこりと笑い、のんびりした様子で、カーロに尋ねました。


「カーロ、おじいちゃんの名前を知ってる?」


「えっ?」


 突然の質問にカーロは目を丸くしました。


カーロはずっと「おじいちゃん」と呼んでいて、それが名前だと思っていたので、質問の意味がよくわかりません。


「おじいちゃん、じゃないの?」


「ふふっ……」


 おじいちゃんは、カーロの頭を楽しそうに撫でました。



 ピンポーン



 玄関の呼び鈴が鳴りました。


「おっと、お客さんが来たみたいだね。一緒に出迎えようか」


「……うん」


 カーロはとりあえず頷き、ソファからおりました。


おじいちゃんの質問が気になって仕方ありませんが、今はお客さんが先です。


おじいちゃんはそれを見透かしたかのように、小さく笑い声をもらしました。


「だいじょうぶだよ、カーロ」


 おじいちゃんはゆっくりと立ち上がりました。


「全部、分かるからね」


 カーロは首を傾げました。


さっきからおじいちゃんの言っていることは訳が分かりません。


そんなカーロをよそに、おじいちゃんはソファから立ち上がり、リビングのドアを開けると、カーロは手招きをしました。


「さあ、おいで。お客さんにあいさつしにいこうね」


 モヤモヤとした気持ちを抱えながら、カーロはおじいちゃんに着いていきました。


やがて、玄関にたどり着き、おじいちゃんは鍵を開けました。


おじいちゃんはドアノブをゆっくり回して開けると、いつの間に晴れたのか、あたかかくて、優しい光が玄関に入ってきました。


「やあ、いらっしゃい」


 おじいちゃんは柔らかな声でお客さんを招きました。


カーロは、お客さんの姿を見て、口をあんぐりと開けて、固まってしまいました。


お客さんは、大きくて綺麗な緑色の瞳を持った、一つ目をしていたのです。


お洒落なスーツを着た一つ目のお客さんは、にっこりと笑ってこう言いました。


「お邪魔します、アムール」

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