夜の慈母の娘と竜を招く姫、魔王と匿われた少年~星眼の王は夜のとばりの内でおこることならだいたい知っている~

百田桃

かぐよのとばりのひめ

 帝国領の東端には建国以前からの聖域がある。女神の泉を湛える島だ。一本の藤の根で覆えるほどの、島というより巨岩だが。

 地に着かぬ大君おおきみ、東の空の守護者である老竜にとってはどうでもいいが、人間には心細い足場だろう。青の大君は樹の根が籠のようになった中の泉へと、神女しんにょとも輝夜帷姫かぐよのとばりのひめとも呼ばれる姫君をそっと下ろした。帝城からの長い飛行で姫君の顔は蒼白になっていたが、落ち着きはらった様子で大君を見上げ、会釈をした。老竜は満足して頷き、ゆっくりと頭を上げて小島から離れた。

 姫君は息をついて泉をのぞきこもうとした。藍白の簡素な衣のすそがぬれ、夜色の髪の先が水面に落ちて広がる。水面に映る真っ白な疲れた顔。

 沈んでしまいたい。

 花が降る水面に溺れてしまいたい。

 神泉の癒やしと蘇生の力を、今、姫君自身も必要としていた。だが、彼女の務めは聖性を守ること。ふさわしくない者や許しを得ない者を退けること。

 藤花のとばりからる淡い光と影の中、清浄な涼気にあたって、ずっと安らいでいたかったが

 ――務めをはたさなければ

 姫君は立ち上がり、花すだれをくぐって雲海を見晴らす場所に歩み出た。遠くの空を舞う巨竜がこちらを振りかえったように見えた。青の大君に見えるかどうかはわからないが、姫は大君にほほ笑みかけた。天の守護聖獣の目は人間の微笑さえ見逃さないだろう。

 応えるように弧を描いて巨竜は空を泳いでいった。


 大君は気遣ってくれるけれど、姫は高所を怖がらない。

 神話に曰く

 ――始まりの大神おおかみが海底をすくっておかを造ろうとしたとき

   力あまって飛沫と岩が跳ね上がり、雲と浮島になった。

   強き者は高き島に登り、国を造り、覇を争った。

   弱き者は海に残されたが、混沌に沈み、魔物となって力を得た。

 姫の住まいは帝都である城を見下ろす高みにあって、姫は鳥舟で家の祠と城の神殿を日々行き来している。落ちたところで(誰か助けて)と思うだけで、風は巻き上げ、岩は直下にはせ参じ、岩肌に草が生い茂るだろう。神々の恩寵篤く「名を忘れられた夜の女神」の生まれ変わりと人々がうわさする、「神女」たるゆえんである。


 風が強くなった。近づいているということか。青き大君の雄姿の向こう、帝都の空から、女神の泉を求める者、守護者の見定めを受ける者が。

 花のとばりがさざめき、敬虔のあかしの衣が肌身にはりつく。風に流れて髪が重い。姫君は瞑目し、胸の前に両手を揃えて背筋を正した。

 このつとめは果たさなければ。

 私はまだ神女なのだから。

 

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