摩天楼に舞うノスフェラトウ

神宅真言(カミヤ マコト)

序章:始まりの鐘のプレリュード

第〇話:沈む夕陽と、時計塔


  *


 水平線に沈みゆく太陽に照らされ、世界が朱く染まり始める。空は燃えるが如き紅、そして夕陽を飲み込む海ではさざ波が朱金に煌めいていた。


「世界とはこんなにも美しいものだったかな」


 巨大な時計塔の先端に立つ男が一人、笑う。


 その男はすらり背が高く、靡く髪は腰程にも長く、その白く透ける長髪は夕陽を受け朱に輝く。風景を見下ろす瞳は、空の色よりも濃い血のような紅。金属光沢を帯びた銀のロングコートもまた、風に弄ばれ朱の陽光を複雑に反射する。


 時計塔の頂点である狭い足場に佇むのは、その長身長髪の男とそして──淡い輝きを放つ、大きな卵が一つ。


「なあ、君もそうは思わないか?」


 男はちらと視線を卵に向け、呟いた。しかし卵からの返答は無い。反応が無い事を気に病む様子も無く、男は夕陽に視線を戻した。またさあと流れる風にコートが靡く。


 卵は微動だにしない。直径五十センチメートル程の大きな卵は不安定な足場にも転がり落ちる事無く、ただ静かに淡く輝いている。音の無い風景の中、男は口を閉ざし、卵もまた喋らない。沈黙が、世界を支配する。


 そして、緩やかに沈む夕陽が徐々に海面に飲まれ、残光を煌めかせながら本体が完全に姿を隠した瞬間──静寂は破られた。


 時計塔に唸りめいた機械音が響き、次いで、針が動いた。長針と短針が真っ直ぐに天と地を指し、一本の槍の如き姿となる。


 ──六時だ。


 ゴウン、ゴウゥン……鐘が時を知らせる。六つの鐘の音は朱き世界に知らしめるように大きく力強く、有無を言わせず鳴り響く。そう、それは──始まりの合図。


 男が笑う。美しく整ったこの世ならざる端正な顔に、裂けんばかりの笑みを浮かべる。


「約束した通り、ゲームを始めようか。君と私の……いや、世界の均衡を賭けたゲームを」


 言うが早いか、男は長い脚で卵を軽く、蹴った。おもむろに、ごく自然な動作で。


 卵はその時、初めて動いた。そして小さな足場から、それは簡単に転がり落ちる。高く高く天を貫くが如くそびえ立つ時計塔から、地上を目指し建物の隙間に吸い込まれてゆく。


 幾ばくかの後、重い地響きのような音と共に、ぐしゃり、と何かが砕ける音が重なった。染み渡るその残響に、男はいよいよ笑みを深くする。


「──さあ、楽しい楽しい、殺戮の時間だ……!」


 高らかにそう宣言した男の背後、透ける髪の向こう。


 ──黄金めいた輝く月が、闇を塗り込めたような海面から、今まさに姿を現そうとしていた。


  *


 ワタライ・ワダチは走っていた。


「畜生、何でこうなった!?」


 悪態をつきながらビルの隙間を駆ける。額に滲んだ汗を乱暴に手の甲で拭い、周囲に警戒の視線を投げながらただ闇雲に地面を蹴った。表通りは外灯で明るく照らされていたが、路地裏には照明は少ない。だが、煌々と輝く月が光を投げ掛け、裏道であっても幸か不幸か、暗くて足許が見えないという事は無かった。


 ワダチは十七歳の高校生である。それを証拠に、服装は学校指定の黒い標準学生服だ。金ボタンも詰め襟もきっちりと留めている中で、黒いレザーのバスケットシューズだけが服装における唯一の個性だった。


 しかしながらそんなささやかな主張を吹き飛ばす程に、ワダチの髪は燃える炎のように赤く、また瞳は朱金に輝いていた。日本人離れした父親譲りのその色彩はいつもワダチを悩ませて来たが、最近では開き直れる程には慣れてもきていた。


 そのトレードマークとも言える赤毛を乱しながら、風を切ってワダチは走る。もうかれこれ五分以上は駆け続けているだろうか。荒い息と共に、畜生、とまた乱暴な言葉が口から零れ落ちた。


「安全だって、危険な事なんて無いって言ったじゃないかあのオカマ野郎! あの嘘つきマッチョ! 次会った時には一発ぶん殴ってやる!」


 悪態はもはや罵声の様相を呈している。畜生、と再び叫んでワダチは息を荒げながら、人はおろか鼠や虫すら居ない綺麗な路地を突き進む。


 何処へ、などという目的地は無かった。強いて目的があるとすれば、敵から逃れる事と、仲間と合流する事の二つだろうか。土地勘などは全く無かった、何せ初めて訪れた場所だ。自分が何処を走っているのかすら見当がつかない。ただ先程遭った敵から逃げる為だけに、闇雲に進んでいた。


 体力には自信があった。ワダチは月光が降り注ぐ舗装された路地を全力でひた走る。高いビルの隙間を抜け、そして目の前に立ち塞がった丁字路を速度を緩めぬまま、勘だけで右に曲がった。


 その刹那──視界が光で溢れ、次いで熱風が全身を襲う。


「──っ!?」


 閃光が瞳を灼き、咄嗟に顔を腕で庇う。反射的に後ろに飛び退き、それでも凄まじい風圧に煽られてバランスを崩し地面に転がった。通り過ぎて行く熱に、ちりちりと肌が炙られる。


「い、今のは……!」


 呟きと共に薄く目を開く。まだじくりと痛みぼやける視界の中に、うっすらと何かが──考えるまでもない、恐らくは敵だ。ワダチはそう認識した瞬間、跳ねるように飛び起きた。


「──ろくに怪我すらしていないとは目算が違ったか。残念、余程貴様は運が良いようだ。それとも吾輩の運が悪いのか」


 段々と鮮明さを取り戻しつつある視界の中で、月下にもなお暗い影めいた黒尽くめの敵は笑う。マントめいたコートに制帽を被った昔の書生のようなその男は、お手玉のように手榴弾を弄びながら、靴音を鳴らしワダチへと近付いてくる。


 ワダチは呼吸を整え隙無く構えながら、目の前の敵を鋭く睨んだ。──この距離では逃げるのは悪手だろう、気は進まないが戦うしか選択肢は残されていないようだ。


「人にバクダン投げ付けといて、何だよその言い草。んなの運が良いだ悪いだ以前の問題だろ」


「ははっ、活きが良いな。そうでなくては殺し甲斐が無いというものだ」


 男の歩みが止まる。彼我の差、約五メートル。一歩で踏み込むには遠い距離だ、相手の用心深さにワダチは内心歯噛みする。


「殺されるつもりも無いっての! ──あんた、さっきの放送、真に受けてんの? 殺し合いしなきゃ出られないとかいう、物騒な内容のやつ」


「真に受けるも何も、最初から吾輩は貴様を殺すつもりだが?」


 吐き捨てるワダチに、男は器用に片眉を上げ口角を吊って笑う。チッと舌打ちをするワダチとは対照的に男は愉快げで、それが更にワダチを苛立たせた。


「普段ならこんな街中で大っぴらに戦闘など出来やしないのだが、──用意してくれた好機だ。存分に楽しませて貰おうではないか」


「この戦闘狂の、殺人鬼……!」


「お褒め頂き光栄だな。さあ、そろそろお喋りはもう飽きたろう? 貴様が肉塊に成り果てるよう、尽力する事にしようか」


「畜生がっ!」


 ワダチが叫んだのと、男が手榴弾を振りかぶったのは、ほぼ同時。


 ──そして一瞬の後、月の光すら吹き飛ばす程の眩い閃光が、闇を灼いたのだった。


  *

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