ひさしい



叫び声のする方へと走り出す白柳めゐ。

その声が確かであるのであれば、彼女は誰よりも逢いたい存在であった。

走り、向かい、そして、こちらへと迫る影を見つける。

どすん、どすんと、足音を鳴らしながら、その姿が露わとなる。


「ちょ、無理ですって、デカ過ぎる…つかデカい、何がどうしたらこんな成長するんですかッ!あびゃあああッ!!」


全力疾走しながら此方へと向かって来る一人の男。

学生服を着込み、頭部には目元を覆い隠す様に帽子が被られている。

その姿を見た白柳めゐは、感極まった。

「…ッ」


声にならない。

その存在は、彼女にとっては特別な存在だった。

樹木の上から、声が聞こえてくる。

八城道信ではない、それは逃げ惑う男の師匠であるらしい。

幼い少女だ、長い袖に身を通し、手には自らの体と同等の大きさを持つ瓢箪を片手に持っている。

その中身は酒であるらしく、瓢箪の口を近づけると、一気に煽った。

弟子の必死な姿を肴にして飲んでいるらしい。


「きゃははッ!おい白柳ぃ、死ぬぞぉ!」


上機嫌な様子で笑っている幼い少女。

その姿は紛れも無く、未成年であるのが見て取れるが、実際の所、実年齢は必死に逃げ惑う男の三倍は生きている。

息を切らしながら、男が叫んだ。


「死ぬ、いやマジでッ!笑ってる暇あったら助けて下さいよッ!限りない唯一の命を救うのがあんたの仕事でしょうがああ!?」


悲痛の願いに対し、少女は瓢箪を枕にして告げる。


「いやお前が死んでも誰も困らん」


何とも非情な言葉だった。

それを真面に聞いた男は口を大きく開き、酸素と共に絶叫を響かせる。


「最悪だああァ!生きて帰ったら絶対に訴訟するッ!裁判だッ!裁判場で会いましょう先生ェ!!」


師匠。

男と少女が師弟関係である事が分かった。

尤も、男の存在を知っている白柳めゐにとっては、関係性など既に看破している様なものであるのだが。

そして、呆然と立ち尽くしている白柳めゐに気が付いた男は、腕を振りながら叫ぶ。


「ちょ、あんたっ!危ないですよこんな所でボケってしてたら、あの、聞いてますかッ!?あの、立ち往生ッ!?」


どすん、どすん、と音が響き続ける。

男の後ろには、巨大な戒濁が居た。

木々を薙ぎ倒しながら近づいて来るそれは、巨大な像である。

足が八本生えており、尻尾の先端には棘の生えた瘤が出来ている。

長く太い鼻の先端は、人間の手が多く生えていて、見るだけでグロテスクなものだった。

男を追ってきているのは明白である。


狙いは男である為に、白柳めゐがその場から離れれば、それだけで良いのだが、白柳めゐは一行に動こうとしなかった。

だから、彼女が動かない事に、男は察すると共に逃げる脚を止めて踵を返す。

まるで、白柳めゐを守るかの様に、彼女に背を向けて、腰に携えた刀を抜き放つ。


「逃げて欲しいのに逃げないなんてッ!ああもうッ『鬼爪おにづめ』ェ!!」


そう叫ぶと共に、彼は自身の封具を抜刀した。

刀である、それを構えると共に、黒い妖気が刀身から溢れ出した。



「外れろッ『鬼爪』ッ!!」


迫り来る巨体。

刃から放たれるは、髪程に細い斬撃。

それが巨体に向けられると、その肉体が分断される。

肉の塊となって、巨体が地面に落ちた。


「ッ…ふぅ…」


鬼爪。

現体がある戒濁では無く、分類としては現象である。

風と同化し、生物を切り刻む自然の大鎌。

古来より不可思議な鎌鼬の現象を、鬼の爪と称される地域から名付けられた。


この戒濁は言うなれば、斬撃自体が戒濁であり、無造作に切り裂く事が出来る一撃を放つ。

封具は日本刀、契約によって命令を加え、対象の名を口にする事で発動する。

命令の文は複数存在し、その命令によって斬撃の性能が切り替わる。


外れろ、と言った命令の場合。

斬撃を与える対象の肉体を数十個の肉塊に分断させる事を目的とした命令であった。


刀を地面に突き刺すと、男は情けない声と共に息を吐く。

肩で息をしながら、弱音を吐き出した。


「ふひゃあああぁ、死、死ぬ、マジでこんな仕事続けたら死ぬ…ひぃいぃぃ…」


涙目を浮かべている男は、自分の帽子が風圧によって飛んだ事に気が付く。

周囲を見回した結果、その帽子が白柳めゐの手元に握られている事を察した。

そうして、人が自分の奇声を聞いていたと思うと、男は恥ずかしそうに頬を染めながら後頭部を掻く。


「あ、す、すいませんね、帽子、はは、いや、恥ずかしい、奇声挙げまくって聞かれてましたよねぇ…はは」


脂汗が流れ出す。

確実に変人だと思われていると、男は思っていた。

呆然と立ち尽くす白柳めゐの顔から、その様に察していた。


「いやあ、俺は、なんと言うか戦闘に向いてないんで、ははは」


言い訳をする様に補足する男は、ゆっくりと白柳めゐの元に近づく。

帽子を持っている彼女から帽子を受け取ろうとしていた矢先。

白柳めゐは、思わず口から言葉を呟いていた。


「…旦那」


白柳めゐの心の奥には、懐かしさで溢れていた。

あの頃と全然変わらない姿、仕草、言動。

昔であれば煩わしいとすら思えたその存在は、今になると何よりも焦がれていたものだった。


「え?モダンな?洒落てるって言ってる感じですか?」


耳が遠いのか、阿呆な風に聞き間違える男。

そして背後からは、小さな背をした少女が、酒を入れた瓢箪を持ちながら近づいて来る。


「なんだ、どうした白柳、絡まれとんのか?」


白柳。

それは、白柳めゐの事を言っているワケではない。

当時では、彼女の名前は白柳ではなく黒柩である。

そして、当時で白柳と言う名前で通っている人間は、今、目の前に居る男一人だけだ。


「えーっと…俺、白柳未介ようすけって言います、いや、別に名乗ったのは恩を着せようとか恩着せがましい事を考えているワケじゃなくて、これから封令師の同期になるような人だから、挨拶をしたと言うか」


白柳未介。

この男の言い訳が最後まで口にする事は無かった。

此処が記憶の中であろうとも、本物だとしか思えない存在に彼女は縋りたくなった。


「旦那ッ」


声を漏らし、白柳めゐは、白柳未介の胸の中に飛び込んだ。

唐突な行動に、固まる白柳未介と、幼い少女。

幼い少女は、ぐびり、と酒を飲むと、白柳未介に伺う。


「良かったな白柳、人生の幸運全部使ったぞ、女子に惚れられたらしい」


「いや、えぇ!?」


動転しているらしく、白柳未介も言葉にならない様子だった。


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