オーシャンズ・クロス ~漆黒の騎士と白亜の賢者~
海山 紺
第1話 海上の戦乙女
「誰か、助けてぇ!!」
鼓膜が張り裂けんばかりの女性の叫び声と赤ん坊の泣き声が、海上で虚しく響いていた。
母親らしき女性は自宅の玄関扉の前で座り込み、子供を庇うようにひしと抱きしめている。そして、眼前に迫りくる脅威に恐怖と怯えを隠せていなかった。
海上住宅街は既に半壊状態で、海面にはコンクリートの残骸やガラスの破片が無惨に漂っている。その中に遺骸が紛れていないのは、住民全員が常備している水上バイクや電動サーフボードで無事に難を逃れたからだ。
だが、運悪く女性のバイクは数日前から故障しており、家から離れられない。
八方塞がりの最悪な状況も相まって、女性は差し出されることのない救いの手を探し続けることしか出来なかった。
「だ、誰かっ……」
もう何度目か分からない「誰か」を口にしたその時、女性の喉がひゅっと鳴いた。
数百メートル先で住宅街を喰い荒らす脅威——一匹の青黒い巨大な
それらの生き物は通常の個体よりも数十倍の巨躯を誇り、それこそ一軒家を丸呑みしたり噛み砕いたりできる程の大きな口と、強靭な牙や顎を持っている。
所謂、海の魔物——通称〈
巨大鮫は獲物を視認するや否や、凄まじい咆哮をあげて猛進した。子分らしき海蛇たちも後に続く。
海面すれすれを浮遊しながらこちらに迫りくる魔物の群れ。
奴らとの距離が縮まる程、その大きさと獰猛さを思い知らされた。
「いやああぁぁぁぁ!!!」
母親の絶呼に伴って、子供の泣き声も激しくなる。
遂に目と鼻の先にまで海魔たちがやってきたところで、女性は死を悟った。
せめて息子だけでもどうにかして助けられないだろうかと、僅かに残っていた理性が必死に突破口を見つけんとする。
だが、そんな考えはすぐに恐怖に打ちのめされた。
反射的に息子を抱く両腕に力が籠る。
両目も堅く閉ざされ、透明なものが溢れては頬を伝った。
——ごめんね……。
怖い思いをさせてしまっていることへの謝罪。
まだ生まれて数か月しか経っていないのに、もうこの世を去らなければならないことへの謝罪。
そして、親だというのに我が子一人すら守れないことへの謝罪——。
数多の謝罪を心の中で呟きつつ、女性は最期の喚声をあげた。
だが、巨大鮫の鈍く光る牙が赤く染まることは無かった。
むしろ、青黒の体躯の方から血潮が繁吹いた。
先ほどの猛々しい咆哮とはうって異なり、痛烈な鳴声が周囲の空気を震わせる。
「え……?」
一体何が起きたのか。
恐る恐る目を開けたのも束の間、女性は信じられないと言わんばかりに瞠目した。
そこには、巨大鮫の背を疾走しながら十字剣で斬撃を入れる小柄な少女がいた。
彼女が鋭い連撃を刻むたびに、巨大鮫は暴れ狂いながら苦悶する。
当然少女の足場も不安定になるが、彼女はそれを意に介さず俊敏な身のこなしで巨大鮫の頭部に到達した。
「死ね」
凛然とした声音でそう呟いた後、少女は躊躇いなく愛剣を脳天に突き刺す。
すると、巨大鮫は一瞬硬直したように身動きを止め、そのまま海面に落ちた。
ざぶんと大きな波音が立ち、女性と子供に波しぶきがかかる。
だが、そんなことを気にしていられる余裕は無く、女性は茫然としていた。
「すみません。もう少し早く来ていれば、あなたとお子さんをこんな怖い目に遭わせることは無かったのに。お怪我はありませんか」
いつの間にか、小柄な少女は巨大鮫の背から降り立ち、バイクに乗ってこちらに駆けつけていた。
先ほどの冷酷な声音から一転、柔和で落ち着きのある声を掛けられ、女性はまだ状況の整理がつかないまま少女を見上げた。
毛先が緩やかに波打ったボブカットの黒髪と黒曜の瞳。
両耳に付けられた銀の十字架ピアスが潮風に揺られた髪の間から垣間見え、その神秘的な美しさに息を呑んだ。
そして、可憐な少女の矮躯を包むのは威厳ある濃藍の軍服。何よりも視線を惹くのは、胸元に装着された漆黒の十字架とその中央部に咲く真紅の薔薇。
海色の軍服と特徴的なブローチを身に着ける人物を、この世で知らない者はいない。
「あの……あなたは、もしかして……」
「はい。〈騎士海軍〉の者です」
座り込む女性と同じ目線になって微笑みかける少女。
彼女の素性とその微笑みに女性は安堵し、強張っていた体が一気に脱力した。
だが、すぐに焦燥を浮かべて周囲を見渡す。
「海蛇はっ!?」
「ご安心を。鮫を駆除する前に
少女が指さした方角を見やると、確かに海蛇がまさしく漂流している丸太の如く海面に伏していた。女性が巨大鮫に気を取られている間、騎士の少女が海蛇を狙撃してくれていたらしい。
それにしても、よくあの短時間で的確に海蛇数匹を仕留め、なおかつ親玉である巨大鮫をその小柄な体躯で斬りつけることが出来たものだと、女性は秘かに感嘆する。
何より自分たちが命を落とさずに済んだことに驚かざるを得なかった。
「もうすぐ部下も到着しますので、それまで私と一緒にここで待機してください」
「え、でも……」
「大丈夫。先ほど月光照明弾を海中に投げ入れたので、暫くは海魔も寄ってこないはずですから」
海魔は月光を嫌い、夜間は海面に浮上してこない習性がある。
海上に人間が住めるのも、家内の照明として月光灯を使っているからだ。月光灯はその名の通り、月の光を吸収して蓄えた特殊な電球を指す。
少女騎士の言葉を信じ、女性は「分かりました」と同意した。
そして、微かに口角をあげて尋ねる。
「本当に……助けていただいてありがとうございました。あの、よろしければお名前を伺っても?」
失礼しましたと、海上の戦乙女は自身の胸に手を添えて名乗る。
「私は
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