【夢譚】 琥珀の女神

「子育ては雌がやるものだと思っていたが」


 男の言葉に、鏡の前で身支度を整えていた妻がぴくりと眉を動かす。不愉快そうに長い髪を後ろに払いながら、鏡越しに男に鋭い視線を投げた。

 かつて美しい琥珀色だったその髪は、ここ数年で白髪が増えた。目立たぬように侍女が編み上げていく。


「相変わらず無神経な発言だな。レヴィン」


 レヴィンと呼ばれた男が首を傾げると、長い黒髪がさらさらと流れた。

 妻はよく、この無神経という言葉を使うが、どうにもその機微が男には理解できない。理解できないから、何度も指摘される。


「今あなたは、わたしを前妻と比べた。そしてわたしが前妻がしていた事が出来ていないと指摘したようなものだ」


 妻はそういうと、顎を上げる。侍女がその唇に筆を走らせると、くすんだ妻の顔色が少し明るく見えた。

「そういう意味ではない。穿ち過ぎだ」

 こういうやりとりも、もう数えきれない。


 だが、今朝、夜明け前にようやく自国に帰り、休む間もなく朝議に参加しようとしている妻にとっては気分のいい発言ではなかったのだろう。

 男はただ、妻が子育てより国王としての仕事を優先する事が不満だったのだが。


 そんな気持ちを汲む気のない妻は、くるりとこちらを向く。侍女たちがせっせと身支度の仕上げをし、そしてそれが終わると静かに部屋から出ていく。それを呆れたように見送り、妻は深くため息を付いた。


 侍女に下がれと、自分の夫が命じたのを知ってはいるのだろう。だが、朝議までもう僅かな時間しかない。妻は手のかかる子供を見る目で、カウチソファに頬杖をついて座る夫を見下ろした。


「言いたいことはわかる。……だが、もう少しの辛抱だ。堪えてくれレヴィン」

 妻は男王のような口調で言い切る。

 男はそんな彼女の姿が決して嫌いではない。そもそも、既に二十年以上も連れ添っているのだ。彼女の性格のことなら、よく分かっている。


「もうわたしは中央には関わらない。アルトゥールにはもう、わたしの力は必要ない」

 少し寂しそうな、それでいてすっきりしたような口調で妻は言う。このニ十年間、自国の立て直しをしながら、甥を皇族として立たせることに奮闘していた彼女は、どうやらその仕事をやりきったらしい。

 男は頷いた。

「幼いジークヴァルトがもし王位つく事があっても、中央と距離があれば残されたものだけで御せる。……あの子に負担をかけたくないのだ」


 妻が苦々しそうに言うので、男は眉根を寄せて手を差し伸べる。その腕にそっと妻が体を寄せた。


我が息子ジークヴァルトは一歳だ。まだまだ先の話だろう」

 妻があまりにも寂しげな顔をするので、男はひどく胸が騒ついた。抱き寄せた妻の体は、いつのまにか枯れ枝のように細くなっている。たった数ヶ月皇都に行っている間に、これほど痩せたのか。男は絶句する。


「レヴィン、私はおそらく、そう長くはないと思う」

 男の目をしっかり見つめながら、妻は言う。それは夜の湖面のような、静かな声だった。

 黒鳶色の瞳は迷いなく、真っ直ぐに男を見つめている。この瞳の色と琥珀色の髪は、彼女がこの大地の恩恵を強く受けている証だ。

 大地の女神、琥珀の女神の末裔。そして女性にしか継承されないと言うその力は、彼女を最後に途絶えることになるのだろう。


 そう、今彼女は自分の死を宣告したのだ。


「何を馬鹿な」

「黒翼の魔女ともあろうものが、たかが人間の死期も見れぬのか。難儀だな」

 妻はそう言い、笑う。その笑顔に、どこか無謀で無鉄砲で、いつでも感情の赴くままに生きていた小娘の姿を見て、男は言葉を失う。出会ったばかりの彼女は、ただ眩しい、それこそ太陽の光を一身に浴びて成長する若木のような娘だった。


「まだ死ぬ年ではないだろう」

「私の体はジークヴァルトを産んだ時、なにか大きく損なわれてしまったのだよ。そしてそれは、多分もう二度と元には戻らない」

 確かに、男は知っていた。

 妻の体から、嗅ぎ慣れぬ異臭がすることに。

 だが、それを認めなたくはなかった。


 認めない?

 男は内心、首をかしげる。

 人ならざる自分が抱くには不自然な考えだ。まるで人間のようではないか。


「なぜ」

 男の乾いた声に、妻は笑って答えた。

「まぁ、孫が数人いてもおかしくない歳だったからね。仕方ない」

 そう言って手を伸ばす。男の体にそっと、自分の体を重ねた。

「あの子の成人まで見届けたいが、それはあなたにお願いしよう」


 男は首を振る。

「断る。おまえのいない人の世には興味がない」

 妻がくすくすと耳元で笑う。

「あなたは銀の守護者でしょう」

「もはや銀の子はアルトゥールだけ。あれには強く金の血が入った。もはやわたしの守護は必要ない」


「じゃあ、我が息子ジークヴァルトは? あの子は護ってくれないの?」

 拗ねたように言う妻の体を強く抱きしめる。

「お前の命を削るなら、子など持つべきではなかった」

 腕の中の妻の体がぴくりと震え、そして強い力で男の体を押し退ける。

「それは一番言ってはいけない。許さないよレヴィン」

 妻は強く男を睨む。

「あの子は私が望んだものだ。わたしがあなたに唯一望んだもの。それを否定するのは、絶対に許さない」


「すまない……」

 男は弱々しく言いながら、妻を抱きしめる。自然、その腕に力がこもる。

 心の中に深く、絶望が広がった。


「そんなに怯えないで、レヴィン。わたしにはこの呪いがある。だから、わたしは死んでもあなたの前に戻るわ。何度でも……」

 だからそれまで、待っていて。どうかどうか、あの子のことをお願いね。


 その抱擁が、生きていた彼女と交わした、最後のものとなった。



 ■■■■■


「ちょっとレヴィ、なーんで室内に入ってるのよう!」


 少しだけあの頃のジークリンデの面影を持つ、息子ジークヴァルトの遠い遠い子孫だと言う娘の傍で、猫の姿の妻が不満そうに声を上げた。

 娘は魔物の瘴気に当たったのだろう、昨晩からずっと熱を出している。それに寄り添う妻の隣にいるだけなのに、なぜ怒られるのかがわからない。男は首をかしげる。


「いちおうチルはレディなんだから、いくらおじいちゃんでも、レヴィがいたらびっくりするでしょ!?」

 妻はぷりぷり怒りながら、ぱしぱしと尻尾を振っている。

 そういえば、貴族社会では娘は男に素肌を晒してはいけないのだ。寝顔など見られたら困るかもしれない。

 ーーーこの娘が貴族でない事も、ましてや初対面の他人だということも、今の彼はどうでもいいことだった。


「わかった」

 男はそう言うと、姿を変化させる。長身の身体が黒い靄に包まれ、そのまま縮んでいく。ばさりと翼を一度広げて、残っていた靄を払った。

 

「鴉だから許されるとかじゃないと思うけど」


 呆れた様子で目を細くする妻に、彼は変化した鴉の姿のまま、首を傾ける。

「我が愛しの妻ジークリンデ、わたしは片時も君から離れないと決めている」

 尻尾を揺らしていた妻は、その言葉にふう、とため息をついた。

「重い! 重いのよ!」


 それから落ち着かない様子で、妻は自分の肉球を舐めている。これは言葉とは裏腹に喜んでいるなと男は判断し、二本の足で地面を蹴って娘に眠るベッドの木枠に留まった。

 その男を妻はぎりっと睨む。

「チルを起こさないでよね!」

 おや、やはり怒っているのだろうか。

 鴉に扮した男は首を傾げながら、その二人の様子を眺めた。


 あの死別から400年、妻はその魂に刻んだ呪いにより、何度も転生を繰り返した。

 その魂の器は人以外のありとあらゆる生き物。そして今、妻は猫の姿でここにいる。

 寄り添い合い、温もりを感じることのできるこの器は、人であったころに次ぐほど、長く寄り添うことができた。


 だが、これまで何度も繰り返したように、終わりが近づいている。またあの、身を斬られるような死別を経験し、そして妻が新たに生まれてくるまで長い月日を一人で待つことになるのだろう。


 この黒猫の姿の妻を迎えるまで、彼は三十年待った。死別から再び生まれるまで、その間隔は回を重ねるたびに長くなっていく。


 この400年間、愛おしい妻と共に過ごした時間より、彼女の転生を待つ孤独な時間の方が上回ってしまった。この黒猫の姿が損なわれた後、再び彼女を見つけ出すまで、一体何年かかるのだろうか。


 いやむしろ。

 男は冷ややかな予感を感じる。


 妻がその魂に呪いを刻むのに、琥珀の女神の力を使った。

 女神そのもの力ではない。琥珀の女神が子孫に残した力の一部、最後の残滓と言ってもいい。

 さらに琥珀の女神の力は、六人の女神の中で最も弱いもの。

 その力を用いて刻んだ呪いは、いったい何年効力を持ち続けるのだろう。


 これが最後かもしれない。

 記憶がないほど長く存在していた男の心に、静かな絶望が沈み、澱のように凝り固まっていく。

 妻のいない孤独は、彼女と出会う以前より苦しく、辛いものだ。


 その時、声量は抑えてあるものの、底抜けに明るい声がした。


「大丈夫よー! レヴィ心配しないで!」

 人間のころとくらべると、すっかり小さくなってしまった妻が、琥珀色の瞳をきらきらと輝かせて言う。

「すぐチルの熱は下がるから、そうしたらみんなで遊びに行きましょう! ここ海が近いから、楽しいわよ!」


 べルンシュタインの海は灰色だったけど、こっちの海は青いのよ! だから蒼海なのかしらなどと楽しそうに妻は言う。


 王女のくせに草原の真ん中を駆けぬけ、海に突き出た岬の端で、子鹿のように跳ね回りながら歌っていた、琥珀色の髪の娘の姿が脳裏を過ぎる。

 追いかけてくる妹たち、銀の髪の双子姫を抱きしめ、振り回し、一緒に泥に塗れて笑い合っていたまだ少女だった頃の妻。


 もう一度、人の姿の君と寄り添いたい。

 それが例え、本当の最後だとしても。


 男は祈る。

 この世界に、自分達以外の神は存在しない事を知りながら。


 ______________________________


 冒頭の一言は酷い性差別発言ですが、レヴィンの前妻?は竜なので、人の感覚と大きく異なります。

 竜の雄は子育てに加わらないので、雌だけが子供を育てます。

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