トラは毎日勝っている

湾多珠巳

Tigers is winning everyday 前編



 トラが負けた。大坂城ティーゲルズ、対多摩川トロールズ戦でいいとこなしの完敗。まだ五月だと言うのに、これで二度目の六連敗だ。

 もとより優勝なんて望めないのはわかっている。が、ペナント開始後二ヶ月も持たずに、不動の最下位を築き上げてしまうのはあんまりではないか。

 夢を見せてくれ。せめて、夏まで。あるいは、Aクラス入りだけでも。

 ちなみに、俺は今失業中だ。むろんセ・リーグの順位と俺の人生設計とは何の関係もないが、こういう時期にこういう状況が重なると、ダブルで気が滅入ろうってもんだ。

 アパートで一人悶々としていても埒が明かないので、通勤ラッシュが収まった頃合いに、駅へ出かけることにした。日々つつがなく会社づとめしていた時からの習慣で、改札横の売店でスポーツ紙を物色するのが日課になっているのだ。

 予想はしていたが、朝刊で売り切れているものはなかった。虎の勝ち負けが新聞売上に直結する関西圏の中でも、俺の市はとりわけその傾向が露骨だ。仕入れ部数は相当絞ってるだろうに、どのスポーツ紙もラックの中に大部数がみっしり詰まっており、見るからに売れ行きが悪そうだ。

 俺と同じリストラ組だろうか、少し年かさのおやじが一人、商品を物色していた。一部ずつ、各紙を指先でちょいと引き出し、トップの見出しを見ては引っ込める、を繰り返している。

「ちょっと。読むのは買ってからにしぃや」

 いかにも駅中生活ん十年、という感じの、よく見知ったおばさんが文句を飛ばしている。おやじはへらっと笑って、

「いやいや、ティーゲルズが勝ってる新聞はないんかいな、思うてなあ」

「あるかいな、そんなもん」

「分かっとるけど、探してまうねんて」

「いっそあんたが作りぃや。売れるんやったら置いたるわ」

 どこかで聞いたようなネタそのまんまの応酬だが、実はこの二人がこの会話をするのは初めてではない。同じようなやりとりを俺は三度以上、耳にしている。たわいのない冗談を言い交わしてから、結局おやじはいつもと同じ新聞を買っていくのが毎度のパターンだ。

 ある意味、平和な光景だが、俺は見ていていたたまれない気分になってきた。

 というか、ティーゲルズの六連敗(二回目)という重大事をこんなくだらぬ笑いに紛らわせてはならない。

 もっと危機感なり切迫感なりがあってしかるべきだろうっ。なんでこんなに泰然としていられるのか! この男にはトラへの愛はないのかっ!?

 いつになくイラついた気分になってしまい、その場から離れるべく、俺はそのままきびすを返した。途端に、すぐ後ろにいた男とぶつかりかけて、一瞬棒立ちになった。

「おっと……すんません」

 言って小さく頭を下げた俺に、しかしその男は片手を軽く上げ、

「あなたは見たくないですか?」

 だしぬけに質問をぶつけてよこした。

「は?」

「大坂城ティーゲルズが勝ってる新聞ですよ。いや、新聞と言わず、映像を、その経過すべてを見たくはないですか? もちろん、昨日の試合の話です」

 囁くような小声なのに、不思議と俺の耳には朗々と響き渡るようなセリフとして聞こえた。

 改めてまじまじと男の姿を上から下まで見た。妙な感触だった。年齢不詳の平凡な顔つきで、きっちりした折り目正しい佇まいの中に、妙に疲れたような物悲しい印象がある。そしてその服装。黒の上下にグレーのシャツ、ネクタイはやはり黒、靴と帽子も黒。芸人でなければ葬儀屋か、殺し屋か。こんな陰気なのが近くにいれば、すぐにそれと知れそうなものなのに、いったいいつ俺の背後へ忍び寄ってきたのか。

「何言いたいんかわからんねんけど。あんたもトラキチか?」

「いえ、私は、いわばただの商売人ですよ。虎ファンのみなさんを相手にしている」

「はん。そらつまり、架空の新聞記事とか、フェイクの勝ち試合の動画なんか買わへんか、みたいな話かいな?」

「違います。言葉通りの意味です。昨日、あなたはティーゲルズの負け試合をご覧になったのでしょう? その通り、トラは負けた。ですが―――勝ってもいるんですよ」

 胡散臭いチンピラと決めつけてさっさと追い払わなかったのは、無意識のうちにその男に何か期待できるものを感じ取っていたからだろうか? だが俺はもちろん、詭弁そのもののような男の言い草など、とても受け入れられなかった。

「精神論のつもりか? ほめるべきところはほめたれ、とかの? どこに勝ちの要素があるんや。先発から早々に崩れての十一対二。草野球並やったやないか」

「一対七です」

 あまりにもさりげない返事で、何を言っているのかすぐには分からなかった。

「何やて?」

「先発吉野は二回裏のピンチを切り抜けた後、七回まで無失点。それに打線が応えて、四、六、七回に二点ずつ、九回にダメ押しのクレンスキーのホームラン。快勝でしたよ。『通天閣吹雪』は小一時間ほど収まりませんでしたね。私はこの目で見ました」

 あんたアホか、と嗤い飛ばそうとしたが、できなかった。男の表情に狂気とか小ずるさみたいなものは一切見当たらず、知的な光めいたものすら感じられた。

 男の口元が、ふわっと三日月の形に開いた。

「どうやら興味が多少はおありのようですね。いかがです、場所を変えてお話しませんか?」



 いささか怪しみながらも男について駅を出ると、ものの五分ほどでとある雑居ビルの一室にたどりついた。妙なところに連れ込まれてはたまらない、とは思っていたが、少なくとも包囲殲滅戦を食らいそうな営業担当ず御一同を相手どる心配はなさそうな、うらびれて人気ひとけのない安物件だ。

 通された部屋も、何かの事務所だとは察せられるものの、事務机とイス数脚とパソコンとロッカーがあるだけだ。カーペットはもちろん、案内プレートすらなく、その気になれば三分で夜逃げできそうなほど簡素な部屋だった。もちろん、人員は男一人だけだった。

「まずはこちらをどうぞ」

 作業台と応接テーブルを兼ねているのだろう、部屋のど真ん中に置いてある机の上に、男がぱさりと新聞のようなものを置いた。手に取ると、サイズも内容も新聞そのものだったが、紙質が違う。電子版の紙面をわざわざ新聞サイズの紙にプリントアウトしたもののようだった。が、そんな差異はどうでもよかった。問題なのは、それがまさに今日の日付の朝刊であり――虎の勝ち試合を報じているスポーツ新聞であるということだ。

 公立病院の診察室のような簡素な丸イスに腰を下ろし、俺は順にページをめくって中身をつぶさにチェックした。二面、三面、四面……最終面に至るまで、正真正銘昨日の試合の、いや、昨日の試合が勝っていたならこう書かれていただろうと思われる紙面構成そのままだった。

 一晩でここまでの記事を捏造したということか? 何人がかりで? 本職の新聞並みの企画力……どころではない、合成写真の制作の手間を考えれば、その何倍もの人件費がいる。いったいどこの何者がこんなものの偽造に血道を上げているというのだろうか。まあ、虎ファンの中になら、そういうイカれた集団がいてもおかしくはないが、それにしても。

 最後に改めて新聞の銘を確認する。俺は半信半疑ながらこう言うしかなかった。

「これは……まずいんやないか。このフェイクは確かにようできてる。けど、新聞の名前まで、ほんまのもんそのまんまやったら――」

「フェイクでなく、それはまさに本物のサンスポですよ」

「いや、あんた、売り文句ではったり効かせるのは結構やけど――」

「ではこれはどうです?」

 そう言ってリモコンを手に取り、机の端のディスプレイを立ち上げた。ややせせこましい画面に、突然プロ野球のナイター中継の模様が映し出され、ノイズの塊のような球場の大歓声が、薄暗い部屋の空気を震わせた。

 一見テレビ録画風のそれは、まさに昨日の多摩川大坂城戦、二回表のヤマ場。ツーアウト一、三塁で吉野が大篠のサインに首を振り、頷いて、改めてモーションに入ったところ。直後、外角いっぱいの球を大篠が捕り損ない、エラーが絡んで二点献上、ここから一方的に試合が壊れていく、という流れになるはず……だったが……。

『ストライク! 見逃し三振!  外角ギリギリのフォークボール、これは手が出ませんっ! 吉野、大ピンチを無失点で切り抜けました。試合は0対0、いい流れでティーゲルズが攻撃に入ります!』

 唖然とする俺の目の前で、その録画だか合成画像だかはそのまま理想的なゲーム展開を披露し続けた。さきほど男が俺に語ったように、大坂城が一対七で勝利する、という。

 二時間ちょっとの間、俺はみじろぎもせずにディスプレイを凝視し続けた。が、どれだけあらを探せど、どのカット、どのシーンとて偽造の痕跡など微塵もない。いや、別に俺は専門家じゃないが、これだけの長時間で、これだけ自然な仕上がりの映像、フェイクだとすれば、ハリウッド並の技術力だろう。

「いかがですか?」

 男の声で我に返ると、ディスプレイは消えていて、部屋はもとの静けさを取り戻していた。俺は降参の印に両手を軽く挙げてみせた。

「大したもんや。あれ全部半日で作ったってことか?」

「何度でも申しますが、すべて実際のテレビ中継でしたよ」

「じゃあそういうことにしてもええけど……そやったらどこからあんな電波拾ってきた?」

 机を挟んだ反対側に男が腰を下ろした。ほんの少しだけ、打ち明け話をする時のような間が空いて、男の双眸が俺の目とまともにぶつかった。

「多世界理論というものをご存知でしょうか?」

「ふん、この宇宙とは別の平行世界が無限にあるっちゅう、あれか? まあ、映画やらゲームなんかではよう聞くネタやけどな」

「では、あの理論はれっきとした最新物理学の世界モデルだということも?」

「知ってはいる。やけど、えらい学者が何を言おうが、その理論って結局証明できへん種類のもんやろ? ティーゲルズがタイガーズになっとる世界とか、セリーグで常勝チームになっとる世界とか、そんなとこにどうせ行かれへんのやし、まさに机上の空論やんか。俺は眉唾やと思うてるけどな」

「なるほど。否定はなさらない、と?」

「いやまあ……証明しようがない以上、否定もしようがないと……いやまて、まさか」

「そう、そのまさかです」

 男が横を指差した。人の背丈ぐらいのねずみ色の細長い金属製の箱がいくつか、机の傍らに突っ立っている。ロッカーだと思っていたが、どうも何かの機械らしい。改めて見ると、なかなかに複雑そうな構造のようだ。ケーブルが相当な本数出入りしているし、微かな作動音らしいものも聞こえた。

「今この瞬間も、この装置を通じて、いくつもの世界からの情報が私の手元に送られております」

 つまりこれが……平行世界との通信設備だというわけか? 確かに通信と言っても、突き詰めて言えば電子の波だ。別世界の物体であるもう一人の俺がロッカーから出てきてこの世界の俺と握手するというのは、ツッコミどころ満載な話だが、電子のゆらぎをやりとりするだけなら、いくらか現実性が……うーん、あると言えるんだろうか?

「そして、私どもはそれらさまざまな世界と、回線越しにではありますがつながりを持っています。たとえば、そうですね、あなたが億万長者の家庭に生まれている世界。あなたが幼くして交通事故で亡くなっている世界。あなたが今日これから理想的な女性と運命の出会いをする世界、などなど」 

「ほお」

「そういうたくさんの可能性ある世界の中に、大坂城が昨日勝った世界、というものも当然存在します」

「その世界の電波なり情報なりを、あの機械で受信している、と?」

「受信、と言うと語弊があるのですが、まあおおむねそういうことです」

 少しだけ間が空いた。もういくつか質問を飛ばしてもよかったのだが、俺は不意に、そんなことをしても仕方ない、と気づいた。

「いくらや?」

「はい?」

「その機械からの……電波かネットか知らんけど、その接続料や。契約の話やろ、これは? いくらすんねん?」

 むろん男の説明を頭から鵜呑みに出来たわけじゃない。が、この先はどうせ堂々巡りだ。俺自身に引きつけて言えば、要は、いささかインチキ臭いにしろ、文句のつけようがないほど完成度の高いこの夢のような配信を、届けてもらうのか断るのか、という問題だ。

 ただそれだけの問題であれば、ここは一択だろう。少なくとも、欺瞞と空元気ばかり目につく現実のスポーツ新聞よりは、ずっとましなものに、今の俺には思えたのだ。

「これは……いや、お話が早いですな」

 そういった俺の心の動きは全部見通してもいたのだろう、男は一つ苦笑すると、片手の動き一つでシンプルな料金表をテーブルの上に置く。

「一チャンネルきりの有線サービスとしては、破格に高いものとなりますが、それでも?」

「おいおい、ここまで来といてそういう言い方はないやろう」

「配信があるのは、この世界でティーゲルズが負けを喫した時だけです。もしもこれからチームが立ち直り始めたら、契約料のかなりの分がムダになりますが?」

「今から急に連勝街道へ乗っかれるようなチーム状態やないやろ。それはそうと、そんな場合はもちろん何かの割引規定ぐらい、用意してるんやろな?」

「さて、なにぶん私どもはシンプルな料金体系を身上としておりますので……」

 しばしの駆け引きを楽しんでから、結局俺は中の上ランクのメニューで契約した。失業中の身としては、やや贅沢な娯楽費かも知れないが、これがあれば今シーズンはパチンコと飲み歩きを自重するぐらい、なんでもない。むしろ安上がりかも知れない。

 契約書にサインした時の俺の顔は、ここ何年も縁がなかったような晴れ晴れとした表情だったと思う。


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