第08話 男爵令嬢
訪れた不快感はそのまま刺すような鋭い痛みに変わり、同時に喉が焼ける感覚にも見舞われる。
「がっ……あがっ」
ルブランテの両手からカップとソーサーが滑り落ち、床に敷かれたカーペットの上に落ちる。
まだ半分ほど残っていた紅茶がシミを作ったのを見て、彼はある一つの推測に至った。
「ま、まざがロゼ……ッ、紅茶に、毒を……?」
たまらず床に両手をつき、まるで赤ん坊が如く四つん這いになる。
全身に異常なほど悪寒が走り、とてもじゃないがまともに立っていられない。
「あはは、許しを乞うみたいでいい眺めじゃないか。――ああそうさ、そのまさかだよ」
悪びれた様子もなく、紅茶に毒を盛ったことを認めたロゼッタ。
その顔からはこれまで見せていた自分に対する柔らかさが消え失せ、代わりに冷徹な表情が貼り付けられていた。
言葉遣いも丁寧な口調から一転、平民のように砕けて険の混じった物言いになっている。
「なじぇっ、んがっ、なぜ……っだぁっ⁉」
「なぜってそりゃアンタ、あたしの正体がテメェの命を狙う暗殺者だからに決まってるだろうさ」
「なっ……!」
予想もしていなかった返答にルブランテは目を剥く。
彼女が暗殺者?
そんな与太話は信じられない、信じたくない。
しかし、ならばこの状況はなんだ?
どうして自分は無様にも頭を垂れて地に伏し、苦しみに喘いでいるのだ?
分からない、分からない――。
混乱する頭で必死に理解しようとするものの、思考がぐるぐると乱れてまとまらない。
更に吐き気を堪えるにも限界がきてしまい恥を忍んで嘔吐すると、出てきたのは吐瀉物ではなく黒みがかった血塊だった。
毒が巡り、呂律も回らない。もはや一刻の猶予もないことだけはかろうじて理解した。
助けを、助けを呼ばなくては。
「だ、だれきゃっ……、だれきゃあ! あああ、どぼじでだりぇもごないっ!」
血の痰が喉に絡みつくのも構わずルブランテはなんとか声を絞り出すが、なんの反応もない。
これだけの騒ぎがあったら普通すぐさま臣下が飛んでくるべきだというのに、部屋の外は静寂に包まれ足音一つすら聞こえてこないとはどういうことか。
「おいおい、召使いを追い出したのはアンタ自身じゃないのさ。いやぁ、出された命令をきちんと遵守してて小物にはもったいないくらい忠誠心が高いようだ。もっとも、仕えるべき主を間違えたみたいだけど」
そう吐き捨てるロゼッタからの冷たい言葉に、ようやくルブランテは自分が騙されていたことに遅まきながら気がついた。
「ぐっ、余を
しかし至極まっとうな正論に返す言葉もなく、せめて憎しみを込めてロゼッタを面罵するぐらいしかできなかったが、それすらまともな発音にはならなかった。
「裏切るもなにも最初からそのつもりでアンタに近づいてただけのことさね。第一最初に裏切ったのはルブランテ、アンタの方だろ?」
「よぎゃ、げぇっ、おえぇ! はぁっ、はぁっ、余ぎゃ、だりぇれをうりゃぎっだだどっ⁉ がっ、ごぼごぼっ」
と、気合いでどうにかこうにか吠えたものの、もう一度大量の血を吐いてしまう。
これでは大声を上げることは叶わないだろう。
が、やはりロゼッタは意に介さず、涼しい顔のままとある名前を告げる。
それはルブランテもよく見知った女性のもの。
「公爵令嬢カムシール、……馬鹿なアンタが自分から捨てたと思いこんでる元婚約者だよ。あたしに夢中になってあの娘を裏切ったくせに、よくもまあ言えたもんだ。だけどアンタも可哀想だね、本当はあの娘から見捨てられただけだってのに」
「にゃ、にゃに……?」
とうとう視界すら霞んできたルブランテの脳裏に、カムシールの姿が思い起こされる。
あのまま素直に
「冥土の土産に教えてやるよ。こんな風に簡単なハニートラップに引っ掛けるような男がどうして今の今まで女に暗殺されかけなかったと思う? 答えは単純さ、これまではカムシールが陰ながらアンタを守っていたからだよ」
王太子暗殺のため学園に潜入し、自分との交際を餌に何人かの子息からターゲットの情報を聞き出していると、必ずといっていいほどカムシールの名前が挙がった。
曰く彼女はルブランテの婚約者かつお目付け役も担っており、その愚行を何度となく諌めてきたという。
また、王太子妃の地位を狙って彼との略奪婚を目論むいわゆる相談女はたくさんいたようだが、これもカムシールがそれとなく裏で阻止していたとも。
けれどもカムシールもほとほと嫌気が差したのだろう、ことロゼッタの時に限って接触どころかそもそも実際に無視されていた。
もちろんそれ自体イジメ行為ではなかったが、相談女を装うべく利用させてもらった。
「そんなカムシールがアンタを見捨てるきっかけになったのは、そう、例の婚約破棄の一件だね。本人も言ってただろ?
おかげでこうやって対象に警戒されることなく懐に潜り込めた、と続ける。
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