ぱん

むに

ぱん

 出会いと別れの季節である春……。

 涼しく吹く風が、わずかに残っていた春の花を散らせていく。

 校舎に照りつける陽射しは、まだ夏より随分と優しい。


 私立 高峰たかみね学園高等学校。通称「峰校みねこう

 部活の大会や定期考査、受験勉強との闘いを終えた生徒たちは皆、それぞれ次のステップへと進んだ。そして、新一年生が入学。

 今年も、生徒のみんなと関わっていくのが楽しみだ。


 私は木村すみれ。

 峰校の食堂に併設されたパン屋「夢堂ゆめどう」のおばちゃん(29歳)。

 実家の工場で焼いたパンを学校まで運搬し、売店で販売している。

 数年勤めた会社を退職して、母親からこの「お店」を受け継いだ。


 母親は長年この売店で生徒たちの成長を見守ってきた。でも、年齢のせいかここ何年か体調を崩しがちで、私が手伝うようになった訳。

 半年間一緒に働いて、任せられてからはずっと一人。

 思えば、今年度卒業していった三年生が私の母を知る最後の子どもたちだな。

 つまり、今の峰校の生徒たちにとって夢堂のおばちゃんと言えば私ってこと。


 午前八時を過ぎると、賑やかな生徒の話し声が聞こえ始める。

 換気のために開け放った窓から、新鮮な空気と一緒に入ってくるこの声が、私は大好き。


 そろそろ来る頃かな……。

 商品陳列棚を微調整していると、すたすたと軽快な足音が聞こえてきた。

「おはようございます!」

「おはよー」

 いつも朝一番に来てくれるのは彼、吉崎颯よしざきそうくん。

 小柄な体型にサラサラの黒髪……。一見か弱そうに見えるけど、秋冬になっても学ランを着らず長袖のYシャツで通すほど元気な男の子だ。

 峰校の売店は食堂と広い空間を共有していて、お昼時以外にも、自習に使われたり生徒同士が雑談をしたりする場所になっている。大型商業施設のフードコートにも似てるけど、それで例えるのはちょっと大げさか。

 彼は朝の時間、ここへ来て勉強をするのが習慣になっている。ここの雰囲気が好きで、家や教室でするより捗るらしい。


 カウンター越しに向かい合うと、私と目線がほぼ変わらない。まだまだ可愛い子どもだ。

「今日も課題?」

「いや、今日はちゃんと終わらせてきましたよ。シンプルに勉強です」

「そっか、偉いね」

 彼の手には数学の参考書と使い古されたノートが抱えられている。

「数学?」

「はい」

「今どの辺習ってるの?」

「……複素数とか、分かりますか」

「んー、分からん」

「ええ……」

 尋ねてはみたものの、私の頭では理解できなさそうなワードが登場してしまい、敢えなく会話が終了した。

「ごめん私、数学ほんと苦手だったから」

「そうなんですね……。実は僕も、理系ではあるんですけど文系から逃げただけの理系なんで、理系科目普通に苦手ですよ」

 はにかみながら話す颯くん。はぁ、なんて爽やかなんだろう。

「どれにする?」

「クロワッサン一つ下さい」

「おっけー。100円です。……はい、どうぞ」

 トングでパンを取り、薄いビニールの袋にさっと詰めて手渡す。

「ありがとうございます」

「はーい、どうも」

「あの、すみれさん……」

「うん」


「その……朝ごはん食べてないから嬉しいです」

「良かった。ありがとね」


 早速席について参考書を広げる颯くん。難しい問題を解く前に、一口。

 美味しそうにパンを頬張るその横顔を眺めながら、心の中で呟いた。


 今日も一日、頑張ってね。











 今日も言えなかった。

 半ば、悔しさをぶつけるような思いでパンにかじりつく。


「おいしい……」


 一口食べれば感じる、甘く優しい香り。

 僕の切ない思いを包み込むようにそれは広がっていき、ふるえる心を落ち着かせてくれた。

 美味しいものを食べられるって、本当に幸せなこと。

 作ってくれた人の想いがこもったものであれば、なおさらだ。

 夢堂のパンにはすみれさんの優しい人柄、温かい想いがつまっている。


 すみれさんのパンをこうして食べることができるだけで、僕は幸せなんだ。当たり前ではない、その幸せを噛み締めながら……。

「……」

 ふと、すみれさんの居る方から視線を感じたけど、思い過ごしだろう。

 僕なんか、日頃接する沢山の生徒たちのうちの一人に過ぎないんだから。

 それに、すみれさんから見たら、きっと子ども同然だ。


 毎日、夢堂のおばちゃんとしてカウンターに立つすみれさん。

 明るい茶色のロングヘアー。エプロンに白頭巾姿はいつも変わらない。

 学校中の皆んなから愛されるいろんな理由があるけど、何より魅力的なのは、明るい笑顔だと思う。

 ここの雰囲気が好きで、勉強が捗るから来てるなんてのは後付けの理由。

 すみれさんに会うため、僕は毎朝ここへ来ているんだ。

 間違いなく、すみれさんの笑顔は人を幸せにする力を持っている。

 僕の場合、目を合わせて会話するだけで心が晴れていくのを感じるほど。


 まあ、会話をしている最中はそれを楽しむような余裕は無いんだけど。

 胸がどきどきして、いつもどうでもいい会話しかできない。

 今日も……そうだった。


「はぁ……」

 見るだけで腹が立つ数学の参考書。中でも、苦手な問題と対峙する。

 難しい問題を解くには、本当にエネルギーがいる。

 この問題も、解決の見通しは立たない……。

 僕の本当の想いは、未だ伝えられないまま。



 でも、いつかは伝えようと思っている。

 やるべきことをしっかりやって、もっと成長して、目標を達成して。

 満を持して想いを伝えたい。それが僕の性格。

 僕の中で、この想いが本物かどうか確かめる時間も必要。

 ただひと時の……何と言うか、燃え上がった感情なのかも知れない。

 辛いけど、しばらくはこの気持ちを封印しよう。

 すみれさんを想う気持ちを、もう少し大切に温めてみよう。



 朝礼が始まる時間が迫り、僕は荷物をまとめて席を立った。

「パン、美味しかったです」

 その一言を言おうと思ったけど、すみれさんの周りには女子生徒のグループが集まっていて、皆んな楽しそうに笑っている。

 仕方ない。でも大丈夫。

 また明日、すみれさんの笑顔を見ることができるから……。

 焼き立てのパン、あなたが焼いてくれたパンの香りが、あなたを思い出させてくれるから。


 「いつも幸せを感じています、ありがとう」

 僕は心の中でそう呟き、夢堂を後にした。



 出会いと別れの季節である春……。

 涼しく吹く風が、わずかに残っていた春の花を散らせていく。

 峰校の校舎に照りつける陽射しは、まだ夏より随分と優しい。





 

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ぱん むに @truth62

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