第2話
「ん……」
エリスがゆっくり瞼を上げると、眩しいほどの青い空が広がっていた。
意識を失う前の悪夢のような光景も、焦げ臭さもない。雲一つない晴天。
わずかに鼻をかすめたのは花の香りだった。
(……わたし、失敗したの?)
あまりにものどかな景色に、エリスは失敗して天国に来てしまったのかと思った。
けれど、起き上がろうと身じろぎした瞬間に走った体の痛みに現実に引き戻された。
「うっ……」
呻き声をあげて、かろうじて動かすことができた手に視線を落とすと、指や手首につけていた魔術具の魔石がすべて粉々に砕け散っていた。魔石を詰めて肩から下げていたバックも見当たらないし、おまけに魔力は使い切ってほぼ空っぽの状態だった。
何重にも防御結界を張っていたおかげか、火傷は負っていなかったものの、それでも吹きとばされた際の衝撃はものすごかったらしく、どこかに打ちつけたらしい体は傷だらけで動かそうとしただけで痛みを伴った。
(ここ、どこ?)
エリスは仰向けのまま首を巡らせて周囲の様子をうかがってみた。
踝ほどの長さの草が生えそろったなだらかな平原には、白や黄色の花がそこかしこに咲いている。
本当にのどかな場所だ。
直前にいた場所とあまりにも違いすぎて、エリスは急に不安になった。
時間を跳躍できたのか、それともただ空間を転移しただけなのか、この状況では確かめるすべがない。
(だれか探さなきゃ)
せめて町か村まで移動したいところだ。
先ほどよりもゆっくりした動きで上半身を起こしてほっと息をつくと、ズキリと胸が痛んだ。
これだけ痛むのならば、肋骨の一本や二本折れていても不思議ではない。
恐る恐る腕や足を動かしてみて骨が折れていないことを確認してから、慎重に立ち上がってみる。
痛いなんて言っていられない。
なんとか明るいうちに安全な場所まで移動しなければ。
エリスは痛みに歯を食いしばりながら、一歩また一歩とあてもなく歩き始めた。
***
空に星が輝きだした頃、エリスはようやく集落の明かりらしきものを見つけた。
舗装されていない地面に残った轍と、真新しい馬の足跡を頼りに歩いてきたのが功を奏したようだ。
長時間歩き続けていた足はじくじくと痛んだが、目的地ができたことで重かった足どりが軽くなった。
先ほどまで、どこまで歩けばいいんだろうと沈みかけていた心が浮上する。
たとえまだまだ距離があったとしても、夜の闇にぽっかりと浮かんだ明かりは、エリスにとって希望の光に見えた。
あそこに行けば誰かに会える――ほっとして張りつめていた気持ちが緩んだ。
だから、気づくのが遅れた。
ガサガサと草をかき分けて近づいてくる音に気づいた時にはすでに遅く、狼の接近を許してしまっていた。
目視で確認できるくらい近くに、二匹の狼を確認できた。
狼はエリスと目が合うとピタリと動きを止め、一定の距離を保ったまま様子をうかがっているようだった。
エリスは二匹を見たままゆっくりと後ずさった。
(マズイ、マズイ、マズイ、マズイ! どうする!? どうしたらいい!?)
魔力が万全な状態なら火球の魔術で追い払っているところだが、少し前に魔術で飲み水を生成したせいで、火球を発生させるだけの魔力すら残っていなかった。もちろん転移の魔術も使えない。残っている魔力でかろうじて使えるのは、目くらまし程度の光を発生させる魔術だけだ。とてもではないが追い払うことはできないだろう。
逃げるしかない。
エリスは道中で杖にしようと拾った棒を両手で構え、手早く魔術を展開させて棒の先に小さな光を発生させた。
できるだけ長く光るように出力は控えめだが、暗い中にいきなり光が灯ったら眩しく感じるはずだ。
「あっち行って!!」
ぶんぶんと棒を大きく振って狼たちを威嚇する。狼たちは突如現れた光にその場から飛び退き、少し距離をとって警戒を強めた。
明るくなった分、狼の姿がよく見える。
口の隙間から見える尖った歯が恐怖を助長させた。
足がすくんで棒を持つ手が震えたけれど、エリスはただただ助かりたい一心で棒を振り回し続けた。
このまま狼が逃げてくれるのを願ったが、棒の先に灯った光に慣れてきたのか、狼たちは再びゆっくりと距離を詰めてきた。
グルルルル……。
狼の唸り声に、エリスはビクリと動きを止めて悲鳴をかみ殺した。
怖くてどうにかなってしまいそうだ。
膠着した状態がしばらく続いた後、狼が地を蹴って飛びかかってきた。
「うわあああああああ!!」
エリスは無我夢中で残っていた魔力すべてを使って棒の先を眩く光らせ、片方の狼の口に棒をつっこんだ。
狼から断末魔にも似た鳴き声が上がる。それと同時に、エリスは狼に背を向けて駆け出した。
後ろを振り返る余裕なんてなかった。
とにかく必死に、遠くに見える明かりに向かって走った。
しかし、すぐにもう一匹の狼が追いかけてきた。
人間の足で逃げ切れるはずもなく、背中に衝撃が走る。
「っぅ!!」
狼に飛びかかられた際に、鋭い爪で背中を抉られたのだ。
痛いというより熱い。
エリスは勢いのまま地面に倒れて、自分の背中に乗り上げた狼を振り返った。
狼が喉元に噛みつこうと大きな口を開けているのが目に入った。
もうだめだと思った瞬間、勢いよく飛んできた火の玉がエリスの背中にいた狼に命中した。
キャウン! と悲鳴のような鳴き声と共に、狼の体が火に包まれる。
突然の攻撃に驚いた狼はエリスの背中から下りると、火だるまのまま森の方へと逃げていった。
(なに? 何が起こったの?)
エリスが上半身を起こしてポカンとしていると、カサカサと草を踏む音が近づいてきた。
「大丈夫ですか!?」
男の人の声に、呆気にとられたままエリスは振り返った。
月明かりの下をこちらに向かって走ってくる姿が見える。
足元まである黒いローブを着たその青年は、ぼてぼてととても走りにくそうにエリスのところまで走ってくると、膝を折って心配そうな表情を浮かべた。
歳は二十代前半くらいだろうか。艶やかな深緑色の長い髪にアメジストのような紫の目が印象的だった。
優しそうな面差しの青年は、エリスの擦り傷だらけの体を見ると、あわあわと手を彷徨わせながら狼狽えた。
「ひどい怪我じゃないですか! 早く手当しないと……立てますか?」
不意に優しい言葉をかけられて、エリスの中にいろいろな感情が一気に押し寄せてきた。
目が覚めてからずっと不安でたまらなかった。誰もいない、ここがどこかもわからない。そんな中を執念のようなもので歩き続けて、疲れて、痛くて、心細くて。狼に襲われた時は怖くてたまらなくて――助かったんだという実感とやっと人に会えたという安堵感で、今まで堪えていた涙が溢れだした。
みるみるうちに涙で視界が滲む。何か言わなければと思うのに、喉の奥につかえたように上手く言葉にできない。
疲労が限界に達していたエリスは、張りつめていた糸がプツッと切れたように意識を手放した。
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