夏休みの定番です7

「坊主、せっかくだからもいでみろ」


 顔の泥を手拭いで拭いながら、豪快に笑う漆間のおじいちゃん。

 ユリウスはぐるりと畑を囲う動物除けの網と、おじいさんを何度も見比べて口を開く。


「ここに実っているものを、全て育てているのか?」

「おう、そうだぞ。ここは全部うちの畑だ」


 少し得意気に、おじいさんが胸を張りました。漆間さんちの畑は大きい。このあたりの山沿いにある畑は、半分以上漆間のおじいさんが毎日手入れをしています。ぐるりと周囲を見渡して、ユリウスもどうやらそれを理解したらしい。 拒否するかと思いきや、意外にも促されるまま畑に入り、説明を受けつつたどたどしくも何本かキュウリをもぎ取った。


「……痛い」

「ははは。キュウリは小せぇ棘があるからな。なぁに大したことねぇさ、男がそんなもん気にすんな」

「美味しそうなの採れたね。今日のご飯で使ってもらおうよ」


 初めての収穫を労ると、ユリウスはこくりと頷いて野菜をそっと籠へ入れた。


「トマトと枝豆はまたあとで届けてやっから、坊主がもいだのは先に持ってけ」

「いつも本当にありがとうございます」

「いやなに、浦都さんちからもよくしてもらってるからなぁ。お互い様だ」


 また豪快に笑った漆間のおじいちゃんが、最後にユリウスへキュウリを一本差し出した。


「冷やしておいたやつ、手伝ってくれた坊主にお礼だ。食ってみ」

「……でも」

「やっぱり採れたてが一番だからなぁ」

「あら、良かったね」


 ユリウスは戸惑いつつも、言われるがままポリッとキュウリをかじる。


「……うまい」 


 小さな呟きと同時に、畑の上で群生する木々の隙間から気持ちのいい涼やかな風が吹き抜けた。あおられたユリウスの麦わら帽子がふわっと飛んで、私は慌てて追いかける。

 拾って戻れば、ユリウスはこちらに背を向けて畑の端に立っていました。何かに心奪われたように、キュウリを握った腕がだらりと下がる。


 山の傾斜に作られたこの段々畑からは、私たちの住む田舎町が見下ろせます。

 緑豊かな山々に見守られるように田園風景が広がり、鮮やかな青い空には大きな入道雲が浮かぶ。眼下に広がる田畑には、太陽を背にぐるりと旋回するトンビの影が映っていた。


 のどかでいつもの風景。絵にかいたようなド田舎だけど──


「…………綺麗だな」


 ふわりと髪を揺らして、小さな背中から呟くような声が聞こえた。


 ──私もそう思う。

 私の好きなこの景色を、世界の違う人にもそう言ってもらえて嬉しかった。

 彼の瞳にも、同じように映っているのが嬉しかった。

 でも、だからこそ。


「向こうも、こんなに綺麗だったのだろうか……」


 ポツリと落ちた言葉を、ユリウスが一体どんな表情で口にしたのかが、喉に小さな棘が刺さったように気になった。


*****


「ただいまー」


 ガラガラと音を立てて玄関の引き戸を引くと、茶の間からぴょこんとツインテールが顔を覗かせる。


「おかえりー」

「あれ、千鳥より遅くなっちゃった?」


 ゆまちゃんの家に寄っていく。と言って別れたはずの妹に出迎えられてしまいました。どうやら寄り道がすぎてしまったようです。

 各々紙袋と野菜籠を置いて玄関先に腰を下ろし、ユリウスと靴を脱ぎ始めたタイミングでガラッと引き戸が開いた。

 そこに居たのは、体操着姿で竹刀袋を肩に担いだ女子高生。


「沙代、おかえり」

「ただいま。二人で出かけてたの?」


 部活帰りの沙代が、私と並ぶユリウスを見てわずかに目を見開いた。


「お昼出来てるわよー。お父さんとおばあちゃんはもう食べちゃったんだからね。あんたたちも早くしなさい」


 玄関で会話する私たちの声に気が付いたのか、千鳥に変わって今度は母の声が茶の間から響く。


「あ、ユリウス。漆間のおじいちゃんからもらった野菜、お母さんに持って行って」


 言うと彼は小さく頷いて野菜籠を抱えた。そのままいそいそと廊下の奥に消えていく。

 意外にも、ユリウスは採った野菜を自ら抱えて家まで歩いてくれたのです。紙袋二つプラス野菜を覚悟していた私にはとてもありがたかった。


「……これは驚いた」


 その後姿を見送って、沙代がポツリと呟いた。そして私の横に腰かけて靴を脱ぐ。屈む沙代の後頭部を見ながら、私は意を決して声をかけてみた。


「ユリウスを連れてきたのは……本当に叩き直すため、だけなの?」


 ピクリ。と、沙代の指が反応したような気がした。ゆっくりと、切れ長の目が私に向けられる。


「……なんで?」


 短く淡泊な沙代の言葉と真っ直ぐ向けられた瞳。それに見据えられて──私はつい、視線を逸らしてしまった。


 沙代が嫌いなわけではない。仲が悪いわけではない。けど、ただ、沙代と二人っきりで話すのは……少し苦手。

 才能のある妹と、欠片どころか皆無な姉。誰でも察しは付くでしょう。いえ、むしろお願いします察してください。

 ユリウスに「兄は規格外」なんて言っていた沙代が、私のことはなんと語っていたのか。──それどころか、話題にすら出ていなかったりして。あ、やばいへこみそう。


「今日ユリウスと一緒にいて……まあ、首を傾げたいことがいくつかね」


 誤魔化すように言葉を紡ぐと、思案するような声に併せて沙代が顎に手を添える。


「うーん、ここで話すには長いかな。……でも、綾姉にはそのうち聞いてほしい」

「ああ、別に今でなくてもいいよ。ならそのうちね」


 そこでふと思い立った。それは本当に、なんとなくだったのだけれど──


「あのさ……向こうの異世界とやらには、セミっていないの?」

「え? いるよいるいるいる。この田舎並にすっごいうるさい」


 心底鬱陶しそうに手を振って、沙代は言いました。


「そうなの……」


 すると、またもや玄関の引き戸がガラガラどころかピシャアアアッ! と勢いよく開く。

 開けた視界に飛び込んできた眩い金髪が目に痛い。その全身は感極まったように打ち震えている。


「…………サヨおおおおおおぉぉぉっっ!」


 呆気に取られた私たち姉妹に構わず、金髪もといギルベルトが吼えながら沙代に向かった。広げられた彼の両手は明らかに抱擁を求めていたけれど──ひょいっと、その情熱はそれはもう軽やかにかわされました。

 私の目には、まるでギルベルトが玄関の入り口から猛然と突進し、勝手に式台しきだいにつまずいて廊下へゴロゴロと転がっていったただのアホにしか見えません。


「ブカツとやらは終わったのか!?」


 しかしめげないなこの人! 転がった先で勢いよく跳ね起きた顔は、何事もなかったかのようです。


「今日はね。午後からは道場に顔出す」


 こっちも少しは表情変えようよ!? 沙代こそ今の一連の流れがまるで幻だったかのようです。


「ブカツは明日もあるのか?」

「うん。明日は午後からだけど」

「な──っ、私も行くぞ!」

「ダメ。ギルが来るとウザいしうるさい」


 あれ、この二人って将来を約束した恋人同士なんだよね? そうだよねあの初日の大騒ぎは夢じゃないよね!?

 一人頭を悩ませる私を置いて、ぎゃあぎゃあ言い争いながら彼らは茶の間へ向かってしまいました。

 直後聞こえた「ユリウス! 貴様ここにいたのかーっ!」というギルベルトの叫びでようやく我に返った私も、急いでサンダルを脱ぎ捨てる。


 ユリウスを部屋の角に追い詰めていたギルベルトをなんとかちゃぶ台につかせていると、今度は千鳥がデジカメを片手に少年へ近づいていきました。ユリウスの手を引き、私の横に二人が座る。


「ユリちゃん見て見て! こんなにたくさん撮れたよ。今日はありがとう!」


 並んでデジカメをのぞき込む様子は、まるで兄妹のようで微笑ましいですね。けれど、ユリウスはお礼を述べる千鳥を前にゆるゆると頭を振った。


「……俺は、何もしていない」


 そうだね。気絶していたものね。

 彼の葛藤を表したかのような、小さな呟き。けれど、千鳥はそんなことなど気にしていないようです。


「でも一緒に来てくれたでしょう? あや姉とユリちゃんと虫取りできて楽しかったよ!」

「まあ、良かったわねえ千鳥。ユリちゃん付き合ってくれてありがとうね」


 お盆に昼食を乗せて茶の間へ現れた母が言えば、千鳥は大きく頷いた。ここまで喜んでいただけたなら、この暑い中虫取り網を振り回したかいがあるってもんですね。

 ユリウス自身も、あれほど役立たずだったにも関わらず喜んでくれる千鳥に驚いているようです。顔が千鳥の方を向いたまま固まっている。


「お兄ちゃんが帰ってきたら、今度はカブトムシを捕りに行こうね!」


 まさに濁りのない、輝くような笑顔で誘う千鳥に、ユリウスはこっくりと首を縦に振った。

 すると私とユリウスの前に味噌を添えたキュウリの皿が、コトリと置かれました。


「ユリちゃんが採ってきてくれたのよ。みんなでいただきましょう」


 ついさっき彼がもいできたキュウリたちです。母が全員に配膳している間、ユリウスの視線はじっとキュウリに注がれる。

 そして──とても小さい声だったけれど、わずかに動いた口元から零れた言葉を、私は確かに聞いた。


「……いただきます」

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