【短編】疲れたあなたに一杯を

蒼鳥 霊

前編

 何回も聞いたことがあるはずなのに名前すら知らない虫の鳴き声が聞こえる。

 まだ5月だというのに夏のような暑さに気持ちが鬱憤としてくる。


「死にたい」


 私はふと呟いた。

 別に本当に死にたいと思ったわけでもない。それなのに思わず呟いてしまったのは、度重なる残業とこの暑さから思考がやられたせいだろう。

 ズボンのポケットからスマホを出して時間を確認する。

23時56分。

 きっと、家にたどり着くころには日付が変わっているだろう。まあ、久しぶりに会社から家へと帰ることができるのだ。そのくらい気にすることではない。

 それにしても暑い。

 私は立ち止まり、上着を一枚脱ぐ。そして、脱いだ服を無造作に鞄に入れ、再び歩き出そうとした。

 ふと、目の前の鳥居が目に留まる。ここにはちょっとした丘があり、その上に建っている神社の入り口だ。確かここを通り抜けると家への近道となったはずである。


(よし通るか)


 そう思い私は神社の方へと足を向けた。

 頂上への階段を上りながら私は昔祖母に言われたことをふと思い出す。

 

『いいかい。あの神社で遊んではいけないよ。あそこの神様はいじわるでねぇ。時々境内にいる人をどこかへ連れてってしまうんだよ』


 そんな神様がいるならぜひとも私をこの面倒な社会から連れ出してほしいものだ。

 まあ、今思えばそれは子供を守るための方便だったんだろう。この神社は周りをちょっとした自然で囲まれており棘のある植物も多く、また小高い所ゆえに一歩足を滑らせてしまうと下へと転げ落ちてしまう。それに人の通る道からも見えにくいときたものだから子供が遊ぶには危険な場所である。

 しかし、夜とはいえ私はもう大人だ。それに今は一刻も早く家に帰って6時の出勤に備えたい。昔言い聞かせられたことなど気にしている場合ではないのだ。

 そんなことを考えているうちに頂上へとたどり着いた。

 目の前にはお社が建っている。

 私はお社には目もくれず、その裏へと回り込んだ。すると再び境内の外へと続く小道が現れる。あとはこの小道を下っていけばもう家はすぐそこである。

 私は小道へと一歩踏み出した。

 しかし、突然目の前が白くぼやけ足元がふらつく。度重なる仕事での疲労と夕食を食べていないことから来た立ち眩みであろうか。

 私は慌てて小道のわきに設置してある杭のようなものに捕まる。

 ふと浮遊感が体を包み込む。手の方を見ると杭が地面から抜けてしまっていた。


(ちょっと杭くらいちゃんと埋めておいてよ)


 誰とも知らない管理者の人に文句をたれながら私は体が倒れていく方向に目を向ける。

 坂はひどく急でないにしろ、転がり落ちれば草木にあたり軽傷では済まないだろう。即死することはまずないだろうが、今は真夜中であるからそのまま落下地点で誰にも発見されずお陀仏という事もありうる。

 死にたいなんて言ったからいけないのだろうか。それとも祖母の言う事を聞かなかったからだろうか。

 私はまもなく体に訪れるであろう衝撃に備え、目を閉じた。

 ドンッという音とともに体に衝撃が走る。

 だけど何かおかしい。転がり落ちるどころか体は水平の感覚を捉えているし、地面に触れている掌からは土ではなく滑らかでいて少し冷たい石のような感触が伝わってくる。

 私はゆっくり目を開いた。

 そこは建物の中だった。

 いったい何が起こったのか。そう思い私は周りを見回す。

いくつもの机といす、畳のスペース。壁一面に並んだ酒の数々。そこはまるで居酒屋のような場所であった。

 周りの状況はわかったが、なぜこんなところにいるのか私はますます混乱した。さっきまで明らかに神社にいて坂を転げ落ちようとしていたというのに。

 突如後ろからガラガラッと戸の空くような音がして私は振り向く。

 戸を開けて入ってきたのは暖簾を手に持った男性であった。見たところ20代後半から30代前半で、優しそうな雰囲気を醸し出している。

 その男性は私を見つけると申し訳なさそうに言う。


「すみませんお客さん。今日はもうお店閉めちゃったんですよ」


 そう言いながら店主らしきその人は私に手を差し出す。

 その手を掴ませてもらいゆっくりと立ち上がりながら、私は店主らしきその人に尋ねる。


「あの、お店って、ここはどこなんですか」


「どこって、居酒屋狐火……ん?」


 店主は立ち上がった私の顔を覗き込みじっと見つめる。


「…君もしかして人間?」


 予想もしてなかった問いかけに私は一瞬止まってしまう。


「もちろん、人間ですけど…」


 私の答えを聞いた店主は笑顔になったかと思うと、


「いや~嬉しいなぁ。来るの久しぶりだよ。まあ本業をほったらかしていたから仕方ないのかもしれないけど」


 と、よくわからないことを言いながら店の中の方へと歩いていく。


「えっ、ちょっ、ここどこですか」


 まだ私の問いにちゃんと答えてもらっていない。そう思いながら店主の方に顔を向けると、あるものが目に入った。

 店主のお尻らへんで揺れる黄金の尻尾のようなもの。頭のてっぺんらへんについた三角の耳のようなもの。

 ここで私はやっと悟った。


(ああ、なんだ。夢か)


 坂を転げ落ちたのは間違いない。きっと今頃は坂の下で気を失っているに違いない。その間に夢を見ているのだろう。


「お姉さん、どうぞこっちに座って」


 店主がカウンター前の椅子を引き、座るよう促してくれる。

 私は店の中に進みお礼を言いながらその椅子に座った。

 改めて店の中を見渡す。

 店内は木を基調としており、明るくそれでいて温かな雰囲気を醸し出している。自分の夢の中ながらなかなかお洒落な内装だなと思う。


「お姉さん、運がよかったね。もう少し早くここに来ていたら食べられていたかもしれないよ。うちの常連さんには血気盛んな妖達も多いからね」


 何を言っているのか内容はいまいちわからないが、きっと店主なりの冗談で笑わせようとしてくれたのだろう。

 私はそう思うと顔に少しばかりの笑みを浮かべる。

 トクトク、と店主のいる方から何か注がれるような音が聞こえる。


「今日は仕事帰り?ちょっと疲れが見えてるよ」


 そう言われて私はドキッとする。うまく笑えず愛想笑いの様になってしまったのかもしれない。

 少し申し訳なさそうにしながら私は答える。


「はい、会社から家に帰る途中でした」


「そうなんだね。そんなお疲れのところ申し訳ないんだけど、今日はお客さんいっぱい来てくれてね。あまり出せるものがないんだけど、何か出すからちょっとこれでも飲んでてよ。今日は奢るから」


 そう言いながら店主は徳利とお猪口を差し出してくる。

 いえいえ申し訳ないです、そもそも普段お酒は飲まないようにしているんです、と断ろうとして私は思いとどまる。

 そもそもこれは夢なのだ。仕事に配慮して飲酒を控えなくてもいいし、今日あったばかりの人に奢られることを遠慮する必要もない。自由にして問題ないのだ。

 そう思い私はそれらを受け取る。そして、お猪口にお酒を注ぐとそのまま勢いよく中身を飲み干した。

 久しぶりのアルコールに乾いた喉が潤わされる。鼻を抜けるツンとしたアルコールの匂い。渋みと少しばかりの果物のような甘味。これは――


「…ワイン?」


 徳利で差し出されたものだからてっきり日本酒だとばかり思っていたため、不意を突かれ思わず口に出してしまった。


「そうそう。ごめんね。今日日本酒ほとんど飲まれちゃって。それしかなかったんだ」


 まあそんなこともあるだろうと私は納得する。

 ただ、それならば徳利ではなくグラスとか他の入れ物に入れて出してくれればよかったのではないかとは思うが。

 そんな私の考えはよそに店主は調理をしだす。


「お姉さん、仕事は何をしてるの?」


 店主が気さくに話しかけてくる。

 普段あまり前に出ていくタイプではない私が会ったことのない部類の人(?)だ。私の頭が作り出した夢の中のはずなのに。


「営業です。うちの商品を扱ってもらえるよう他の企業に行くことが多いですね」


 いつもならあたふたしてしまいこのようなタイプの人とはうまく話すことができない。しかし、店主の出すやさしい雰囲気と夢であるとの認識が手伝ってか上手く返答することができた。


「へえ、そうなんだ。毎日大変なお仕事頑張ってるんだね」


「いえいえ、そんなことないですよ。私なんかもう一年もたつのに先輩に怒られてばかりで」


 私はとんでもないとばかりに手を前に出しながら否定する。


「そんなことないよ。今日だってこんな遅くまで頑張ってたんでしょ。それに毎日働いているだけで偉いって」


「いや、本当に私なんか」


 そう再度否定しながら私はワインを一口飲む。

 段々靄がかかるように頭が働かなくなってくる。お酒に対して強くないくせに久しぶりに飲んだのだ。きっともう酔いが回ってきたのだろう。

 その酔いのまま私は続けてしゃべる。


「この前だって、お前なんていてもいなくても同じだ、お前の代わりはいくらでもいるんだからな、って先輩に言われちゃって。本当に私なんかまだまだですよ。」


 そう言いながら私は泣きたくなってくる。

 どうして私はこんなところでまで自分を否定しているのだろうか。本当は気持ちよくお酒を飲んでいたかったのに。


「確かにそうかもしれないねぇ」


 手を動かしながら言った店主の言葉に、私は頭を殴られたような感情を覚えた。

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