二、公称五千、実数二千

 泥酔したが昨晩のことは覚えている。今日が韓玄の初登庁だが、宴会に列席していた官人たちは今日あえて欠席しようという話をしていた。無礼には無礼で返そうというわけだ。私は酔いつぶれていたから彼らと調子を合わせる義理はあるまい。通常通りに出勤した。私はこの長沙で武官の筆頭である。自分の挙動が周囲に与える影響を意識する必要がある。昨日の韓玄はたしかに無礼であったが勤務は勤務で粛々と行うべきだ。

 季秋の橙色の朝日が斜めから目を射かけてくる。私が額に生の馬肉をあてがいながら兵士の調練を見ていると、韓玄が子鹿のような足取りでやってきた。

「おはようございます黄将軍」

今日は正装である。決まり通りの朝服だがいい生地を使っている。そのしなやかな絹は一体どこから取り寄せたのか。青紫色の大きなじゅがあつらえたように潤いのある光彩を添えている。それで陽光を背負ってにこやかに話しかけてくるのだから出来過ぎである。

「おはようございます韓府君」

さきほど堂内で官吏を集めての着任の挨拶はあったのだが、間近で顔を合わせるのは今が最初だから互いの挨拶はおはようでいいだろう。韓玄は目を細めて部隊のほうを眺めた。

「少ないですね」

「公称五千、実数二千です」

「二千人もいない。歯抜けが多いですね」

一見しただけで分かるのだろうか。しかしまあ、たしかにすかすかである。

「怪我や病気で休んでいる者がいます」

「こんなに? 最近この長沙で戦争や疫病があったのですか?」

痛いところを突かれた。ここにいるのは公費で養っている兵士たちだが、土地の有力者に人手を融通している。個人の家で奴隷同然に使われているということだ。帳簿上では怪我だとか病気だとかの理由をつけて休んでいることにしておき、有力者たちに便宜を図るのである。地方の行政は持ちつ持たれつだ。

「とりたてて戦争や疫病があったわけではありません。元来風土病の多い土地です」

「休んでいる者に関する記録を見たいです」


 韓玄には帳簿を出しておくと返事をして追い返しておき、帳簿を引っ張り出すのと並行して関係先に伝令を飛ばす。韓玄が兵士の数が不審であることに気づいた様子であると。韓玄が五色棒の曹操の狂信者であるとすればこれは面倒なことになる。兵士の名簿を改竄して人員を流用したのだから、公文書偽造、横領、贈収賄もからむだろう。何人が処分されるか分からない。そのこと自体は些末なことだ。怖いのは利権を享受している土地の有力者たちと太守との間に摩擦が生じることである。地方長官と土地の有力者はなあなあで利権を分け合ってこその平和なのだ。常識である。三尺のわらべでも知っていることだ。

「クソッ! クソが!」

帳簿を荒々しく取り出しながら思わず声が出た。


 郡府に帳簿を持っていくところである。門前で老女がわめいている。このばあさんは毎日郡府の門前でわめいているが、誰もが無視して通り過ぎている。慣れた光景なので気にもとめずに中に入ると、門のすぐ内側で韓玄が腕組みをして声のするほうを向いて立っているので驚いた。

「あ、府君はご存知ないのですね。あの老人は気がふれているんです」

「訴えている内容はおかしくないように思いますが」

「妄想をわめいているだけです。あれを毎日やっているんです。誰も気にもとめません」

こう言いながら自分の眉間に深い縦じわが刻まれるのを感じた。あのばあさんは妄想をわめいているのではない。二年前にばあさんの息子がしょうこうの中洲で水死体で発見された。その後すぐにばあさんの息子の嫁が土豪のこう家に強奪まがいの貰われ方をした。何が起こったかは誰の目にもあきらかである。しかし誰も取り上げない。ばあさんは息子が連れ去られた時の様子まで語っているのだが、調査が行われることはない。これを韓玄が案件として取り上げる事態を想像して、私の眉間にしわがよったのだ。

「あれをまともに取り上げれば血をみることになるでしょうね」

事もなげに言うと、韓玄は私の持ってきた竹簡の入った袋を受け取った。三十斤はゆうにある重さだ。意外に力持ちである。


 翌日には流用されていた兵たちが部隊に戻ってきた。戻った者たちがどんな表情をしているかと食事時をそっと覗いていると、何かの当番でもしていたのか遅れて来た兵士が

「あっ、将軍! ぼく戻ってきました!」

と手を振ってきた。

「うん。おかえり」

この兵士には覚えがある。物事の認知や行動のしかたが世間一般とずれているため入営当初からよく目立っていた。今の短い会話だけでも彼がどんなふうにずれているかが伝わると思う。もし私が兵士という立場であれば、将軍の姿を見た時にいつもお菓子をくれる母方のおじいちゃんに出会った時のような声のかけかたはしないだろう。人手の融通の要望があった時にいちはやく外へ出されていたから、部隊の同僚から持て余されているのだろう。

「戻ってこれて嬉しいです。軍隊もいやだけどりょうさんの家はもっと嫌ですよ! 何か失敗するとすぐに棒でたたくんだもの。ほら!」

こう言いながら服をめくって見せてきた。脇腹と背中にあざがある。

「でも顔をたたかないから優しいですよねぇ。うふふ。でも軍隊はもっといいな。失敗しないようにみんなが助けてくれるもん」

「誰かが足をひっぱると全滅するからだ。互いに助け合わなければいけない。自分が困っている時にみんなが助けてくれるのと同じように、誰かが困っている時は自分が助けてやるんだぞ」

「えっ、ぼくが人の役にたてることあるかなあ!」

「役に立てるように精進しろ」

「精進? あっ、努力って意味ですね? はい、頑張ります!」

彼の所属部隊の様子はしばらく注視しておくこととしよう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る