瑠璃色は燕を隠して
与野高校文芸部
瑠璃色は燕を隠して
彼と私は、友人であっただろう。
誰にも理解されなかった私の思考を唯一肯定してくれた人。
それでも、二人でいると恋仲かと勘違いされることも度々あった。恋情なんて、私には無いのに。
両親に知られると勘違いされそうで面倒だから、ばれない様に必死に隠していた。
楽しい思い出、苦い思い出の一つ一つが宝物だった。
或る夏の日、彼と出会った日の事は、一生忘れないだろう。
そして、今日、秋の日。彼が私の隣から消えた事も。
学ぶことは嫌いではなかったけれど、大学に足を運ぶ度、奇怪な物を見る様な視線が私を刺す。
思えば当然だ。この大正の時代、女性の大学生なんて両の手で数えられる位だろう。
三年前、数名の女性が大学に合格してからは、徐々に大学も女性を受け入れていった。
けれど、急速な変化に人間が着いて行ける訳ない。実際、この大学も去年から女性の受け入れを始めたが、合格してこの大学に入れたのは私を含めたった三人。しかも、各々が別の学部にいるため、すれ違うことすら殆どない。
それ以上に、私と彼女達の間には、「文系」と「理系」という大きな差異がある。
昔から数字や計算が好きだった。一般教育で少し学んだ程度の算数の虜になり、独学で数学を学んだ。
もっと数学を勉強したいと思い、この大学に入った。両親は反対したけれど、私の熱意によって、最終的には折れてくれた。
両親は周りから見れば変わった人だった。男尊女卑の風潮にうんざりしていて、幼少から私のやりたいことを否定しなかった。
「女だからこうしろ」と言われる事がなかったのは幸運だった。
両親は私の身を案じて、大学へ行く事を反対したのだろうと、今では思う。
でも、私にも覚悟はあった。理解してくれる両親の下に産まれた私は幸せ者だった。
それでも、この視線は流石に痛かった。文系にいる女子学生も、此処までの視線を投げられる事はないだろう。
『何で女が理系を……』
『そもそもこの大学は何で……』
『学問なんて女が学ぶ必要……』
微かに聞こえてくる噂話なのか、私の思い込みによる幻聴なのかも分からない声が聞こえる。
急がなければ講義に遅れてしまう。こんな下らない声に耳を傾けている自分が馬鹿らしい。
私は強引に歩を速めた。
夏場だからか、体温の上り具合が早かった気がする。
講義中でも、冷たい視線は突き刺さって来る。ちらちらと、異物を見る様な目で。
そもそも女が同じ空間で同じ教授の講義を受けているという事実だけで嫌なのだろう。
そうだとしても、学問を学ぼうと大学に入った以上、真面目に講義は受けるべきだと思う。
気にしても仕方ないと分かっているから、何時もと同じ様に教授の授業を受ける。
視線は今日も痛かった。
「あ、あの……」
講義が終わり、廊下を歩いていた所で不意に誰かが話しかけてきた。
振り向くと、男が立っていた。長い前髪は目を隠していて、根暗な雰囲気が漂っている。偏見でしかないけど。
でもこの人、確か……
「同じ講義を受けていた人ですか。……何か?」
「さっきの講義、二人一組の合同研究が課題として言い渡されたでしょう……?」
「……ああ」
確かに講義の終わり際、そんな事を言われた。
内容的には私一人でも何とかなりそうなものだったが、正直困った。一人でやったら、絶対にばれてしまう。
「僕、こんな性格で、友人もいなくて……貴方さえ良ければ一緒にやらないかと思って……」
「……何故私に?」
「周りで講義を真面目に受けている奴はあまり居ないんです。皆、親に言い渡されて通っている様な感じで……。でも貴方は、何時も真面目に講義を受けていて……。面白いですよね。微積分学とか……」
気づいたら、私は彼にずいっと近づいていた。
「分かってくださるんですか!? そうなんですよ! 微分と積分は全く違う概念であるにも関わらずあの関連性! 複雑な関数を表すことによって見えてくる新たな考察と変化! やっぱり数学は奥が深い……」
はっとして彼を見ると、ぽかんとした顔をしていた。
「す、すみません。急に……」
謝ると、彼は堪えていた様な笑いを微かに漏らした。
「な、何故笑って……?」
「すみません。余りにも僕と考え方が一緒で……。こんなに話が合いそうな人は初めてです」
引かれるかと思ったけれど、彼の回答は思いもよらないものだった。
『私を理解してくれる人、居てくれたんだ……』
「それで、あの、合同研究なんですけど……」
「もちろん、一緒にやりましょう。貴方となら、良い結論が導き出せそうです。私は
「
彼の返事は蝉の五月蠅い鳴き声にかき消されそうな程小さかったが、私にはちゃんと聞こえた。
それから私と彼……葛井さんの交流が始まった。
双方共に本当に数学が好きで、研究はどんどん進んでいった。
大学の図書館で話し合う時間は本当に至福だった。
傍から見たら、真面目に研究に取り組んでいるだけに見えると思う。でも、私達からしたら、それは唯の雑談だ。
時たま感じる視線は、奇妙な組み合わせの二人を珍しいものでも見るかの様な視線かもしれないけれど。
そんな視線気にならなかった。気にする意味もなかった。
葛井さんとの会話の方が、私にとってよっぽど有意義だった。
合同研究が終わった後も、私達の交流は続いた。
元々他人と関わることが少なく、一人でいることが多かった私にとって、これ程一緒にいる人間は、両親以外存在しなかった。
最近では、数学と関係ない話題も、私からするようになった。純粋に、葛井さんという人物が知りたかった。
彼も、それを拒むことはしなかった。
今日も講義終わり、私の行きつけの
そういえば、と、ふと気になった事を口に出す。
「葛井さんは、自分の名前がお嫌いなんですか?」
「え? な……何故?」
「お気に触ったのなら、申し訳ありません……! いえ、最初に会った時、苗字だけを名乗っていらっしゃったので……。今更ですが、ふと気になったのです」
「嗚呼、そういう事ですか……。そうですね。正直、自分の名前は嫌いです。……名づけの親は、僕を捨てたんですから」
「え……?」
「僕は捨て子なんです。六歳で人気の無い路地に捨てられて……。親切な育ての親に拾われていなかったら、死んでいました」
「拾われた後、僕は葛井家の養子になりました。父と母には子供がいなかったからか、凄く甘やかされていました。僕も其の優しさに応えようと、勉強を頑張っていた記憶があります」
「僕を見つけて呉れた父にも、僕を喜んで受け入れて呉れた母にも、感謝しているんです。良い大学にも入れさせてもらって……でも」
葛井さんの顔が曇る。
「そんな二人の優しさに触れる程、かつての親を思い出して、辛くなるんです。……僕の名前は、実親が付けました。未だに、忘れたくても忘れられない鎖。……ずっと、僕にきつく巻き付いています。だからか、何時からか嫌いになって、口に出すのも嫌になってしまいました」
「……御免なさい。そんな過去があったなんて……」
「いいですよ。今では思い出話の一つに過ぎません。貴方にも、いずれ話さなくてはと思っていましたから。」
でも……と、彼は言葉を続ける。
「僕の名前は、知られたくないんです。……天里さんにも、今は。御免なさい……」
間に冷たい空気が流れる。
「……今日は帰ります。お代は置いておきますので……」
お金を
去り際、彼は一言放った。
「……また明日」
明日からどう接すればいいのか分からないが、このまま気まずい雰囲気を残しておく訳にもいかない。
『明日、ちゃんと話そう』
そう心に誓った。
でも、私達の明日は、ずっと来なかった。
翌日、彼が大学に来ることはなかった。
何時もなら時間より幾分早く講義室に来ている彼の姿は何処にも見当たらなかった。講義が始まってからでも。
この日だけでなく、次の日も、そのまた次の日も、彼は来なかった。
憂鬱な気持ちになりながら、大学へ足を運ぶ。今日は来ているかも知れない。そんな淡く薄い期待を抱いて。
講義室に入り、自分が何時も使っている席に向かう。今日も此の時間は、私以外誰も居ない。
少し前迄は、葛井さんがいて……。
「……?」
席に近づくと、一枚の封筒が置いてあった。表面に書かれた文字は『天里璃子様』。
慌てて封筒を手に取り、裏面を確認する。差出人は書いていない。だが、この字には覚えがあった。
恐る恐る封筒を開く。中には便箋が一枚と、押し花が一つ。
其れを見た直後、足は勝手に動いた。
今回ばかりは草履がとても羨ましい。この
既に踵や爪先からは悲鳴が上がっている。だが、そんな事を気にしている余裕はない。
急がないと、何もかも手遅れになる。彼に何も伝えられないまま、全てが終わってしまう。そんな予感がする。
根拠なんて無かった。でも、急がなければ。走らねば。
赤や黄色に色づく並木道を走り抜ける。この先は、余り人が近付かない川。私の予感が外れていればいいのにと、心から願った。
でも、彼はいた。ぼうっとした雰囲気をして、橋の上に立っていた。
不意に、彼が此方を向く。
「……来てくれたんですか」
「あんな手紙を寄越しておいて、私が行かない選択をする訳がないでしょう」
便箋には、唯一言、書いてあった。
『有難う』
押し花は紫苑。花言葉は『追憶』。今の私には、別れを意味している様にしか取れなかった。
花の形の数学的観点について話した時、彼にいくつか花言葉を教わっていが、其れが今役に立っている。
「でも此の場所には如何やって?」
「唯の感です。此の辺りには人が滅多に近づかない。……入水するにはぴったりですね」
「流石です。貴方なら気付いてくださると思っていましたよ」
「何故こんなことを……」
「……実親のことを話したでしょう? 会ったんですよ。あの喫茶の帰り道に」
「え……?」
「色々調べたみたいで。捨てられたあの日が噓の様な態度で擦り寄って来ました。今更態度を変えたって無駄なのに」
「大学に行かなかったのは、貴方にも危害が及ぶと思ったからです。二、三日逃げていましたが、其れも限界で……」
「……養父母に近付いてきたら、僕は如何すれば良い? 何も出来ない奴が生きていて何の意味がある?」
「もう、生きているのが嫌なんです……。生きて誰かに迷惑をかけるなら死んだ方がましだ!」
然う言って、橋の欄干に足を掛けようとする。
其れを見て、私は、
「…………っ!」
手を伸ばして、彼を抱き締め、欄干から引き剥がす。
勢い良く身を引いたため、二人諸共尻餅をついて後方に倒れた。
「離して下さい!」
「いいえ! 離しません! 絶対に!」
「言ったでしょう!? 僕はもう生きてちゃ駄目なんですよ! 僕に残された道は死しかない!」
「勝手に自分の最期を決めないで!」
「決めさせて呉れ! 大体、貴方を此処に呼んだのは僕の最期を看取ってもらいたかったからだ! 身勝手なのは分かっている! だがお願いだ! 此れが僕の唯一出来る事なんだ! 貴方の
「其れでも!」
彼の悲痛な叫びに反撃する様に、私も叫ぶ。
「此れがたとえ私の
言葉を割り込ませる隙を作らせず、一気に捲し立てる。
「……簡単に、一つしかない命を捨てないでください……」
只々、必死に思いの丈をぶつける。彼を生かしたいから。
自分が何故こんなにも必死になっているのか分からない。でも其れは、至極単純な事なのだろう。
何時の間にか、目から水が一筋、伝っていた。
「……貴方は優しい。其の優しさは僕にとっての光だ。其の光で、少し、生きたいと思えました。今少し、希望を持てました」
「じゃあ……!「でも」
発しかけた私の言葉を遮る。
そして、彼は、
「其れは、僕には眩しすぎる」
背中に回っていた私の腕を解き、橋の欄干に足を掛ける。腕を解かれた拍子に、背中を地面に軽く打ち付けてしまった。
其の儘、彼は橋の下に広がる水面に身を委ねる。ふわり、と彼の髪が持ち上がる。
今度は、手を掴む猶予すら無かった。
ぼちゃん、と、水が飛沫を上げる。静かに。美しく。
「……あ」
眺めていることしか出来なかった。今度は何も出来なかった。無力でしか無かった。
彼を抱き締めていた筈の、腕と掌にあった彼の暖かさが消えていく。冷たい秋風に撫でられ、冷めていく。
「……ああああああぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁああっ!」
成す術なく、大切なものを失った私に出来ることは、只々、泣き叫ぶ事だけだった。
彼が居なくなってから八か月程が経った。
その後、彼は川の下流で発見された。私は橋の上で泣き叫んでいた所を通りすがりの人に保護され、家に帰った。
事の顛末を聞かされたのは事件から一か月後の事だった。彼の養父母が、私を訪ねてきた。
大学に話を入れて、私に会える様に取り計らってもらった様だった。
彼は遺書を遺していた。遺品整理をしている時に見つけたらしい。
其れには、私への言伝があった。
『どうか、この身勝手な行動をお許しください。貴方が大切な友人であったからこそ、こうするべきだと思った。貴方と過ごした短い時間は、宝物でした』
何も言えなかった。言う資格なんて無かった。
此れが、彼が『唯一』と言うことしか出来なかった結末なのだから。
今日は墓参りに来た。盆の時期ではないが、此の日に来なければという思いがあった。
以前、彼の養父母から墓の場所は聞いていた。迷わず足を進める。
墓石の前に立ち、手を合わせる。本当は墓石の手入れもするべきだが、親族でも何でもない私が勝手な事をする訳にはいかない。
墓石に目をやると、彼の名が刻まれている。
『葛井
其れが彼の名だ。
最後まで教えて呉れなかった彼の名。其れを思うと、無性に悲しくなってくる。
そろそろ帰ろうかと思った時、視界の端に花が映った。
墓石の傍に静かに咲いている花。名は確か、『燕子花(かきつばた)』
彼の好きだった花の一つ。
花言葉は、「幸せが来る」
「貴方に幸せは……来たのでしょうか……」
答えてくれる人は何処にもいない。私が殺めてしまったから。
私の問いかけには、鳴き始めた蝉が答える。
やけに暑い夏の始まり。全てが始まった日。終わりの始まりの日。
瑠璃色は燕を隠して 与野高校文芸部 @yonokoubungeibu
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