真夏の夜のオカメ
「はぁ、今日も疲れた…、」
その日も仕事を終え、全身の疲労感を背負って帰路に就いた。彼は人の命を救うという重い職務を、今日もやり遂げたのである。
仮に、彼のことはAとしよう。
Aは信号待ちでふと携帯を開いた。SNSで流れてくるなんでもない呟きを見るのが好きだった。
皆、生きている。
そして、悩んだり苦しんだりしながら、それでも楽しむことを忘れない。そんな場所があることに、時々心から感謝したりもする。
ふと、目についた記事。
【7/10は、納豆の日!】
ああ、とAは思う。
今日は語呂合わせでナッ(7)トウ(10)の日だったのか!
そうと知ったら、なんだか食べたくなってきた。思い立ったが吉日とばかり、近くのスーパーに足を向ける。
「あ…、」
スーパーの納豆コーナーに、赤いオカメがいた。いや、こんな言い方では誤解されてしまうか。オカメの顔がプリントしてあるTシャツを着ている人が、オカメ納豆を手にじっとパッケージを見つめているのだ。
初めは、成分や賞味期限をチェックしているのだと思った。しかし、近付くにつれ、どうも彼の目線の先がオカメそのものに向いているように思えてくる。
微動だにしない彼の横から、納豆のパックに手を伸ばす。
「あなたも、ですか?」
「へっ?」
納豆のパックに手が触れるぎりぎりの瞬間、赤いオカメの
「あなたも…ですか?」
今度はハッキリと、Aの方を向いて、唇の端を少しだけ上げて、言った。
「あの…はい?」
Aは戸惑いながら、聞き返す。あなたも、の後に何が続くのだろう?
「あなたも、オカメ…ですか?」
赤オカメの君が不敵に笑う。Aは何を言われているのか一瞬わからなかったが、そこが納豆コーナーであることを思い出し、頷く。
「ああ、そうですね。(納豆は)オカメですかね」
世間話のつもりで返事をする。
しかし、
「……本当に?」
赤オカメの君は、目を見開いて再度、訊ねてきたのだ。
「え? いや、納豆…ですよね?」
不安になって聞き返してしまう。
「迂闊に『オカメだ』などと口にするのは危険だ。わかっていないんだ、あなたは!!」
ものすごいことを言ってる風なのだが、中身がオカメなせいか、ちぐはぐで頭に入ってこない。
「あなたもオカメですか? この質問の答えは『いいえ私はオカメではありません。ですがオカメは好きです。でもそれだけで、私は決してオカメではありません』です!」
目を血走らせ詰め寄ってくるオカメの君。Aはすっかり恐ろしくなってしまった。
ただ、仕事帰りに納豆を買いに来ただけなのに、なんでこんな目に!?
「自分、納豆買って帰るだけなんでっ。失礼します!」
パックを一つ、かごに放り込むと急いでレジへ向かう。そっと振り返ると、オカメの君は納豆のパックを次々にかごに放り込んでいる。一人で食べる量ではない。彼は一体何者なのか…、
「オカメ納豆おひとつですね。あら、おひとつでいいんですか? あなた、もしかしてオカメですか?」
レジのお姉さんが光り輝く笑顔でそう聞いてくる。
『あなた、オカメですか?』
Aは全身に鳥肌が立つのを感じた。
「あのっ、おいくらですかっ?」
慌てて財布から小銭を出し、支払う。言い知れぬ不安と恐怖がAを襲う。
スーパーの出入り口付近で、小さな子を連れた女性が言った。
「ネリちゃん、何買うの?」
「ネリはね、納豆!」
「納豆、好きだねぇ」
「ネリ、納豆好き! だってオカメだもん!」
Aがピクリと肩を震わせる。
オカメ…
オカメ納豆…
なんてことない、ただの納豆のはず。その商品のイメージガールに起用されたのがオカメなだけのはず。なのにどうして、今日に限ってこんなにオカメが前面に出てくるんだ?
Aはスーパーを足早に出ると、一刻も早く家に帰ろうとズンズン歩いた。
しかし、スーパーから遠ざかるにしたがって、ビクビクしている自分が何だか滑稽に思えてくる。たかが納豆。たかが…、
街灯の下、さっき買った納豆のパックを取り出した。何の変哲もない、ただの納豆である。なんでこれを見て怖いと思ったんだ?
「それは、オカメ納豆だね?」
「ぎゃっ」
突然声を掛けられ、飛び上がる。
「驚かせたかな? すまない。それは、オカメ納豆だね?」
黒いワンピースの女が、そう聞いてくる。Aは恐怖を感じつつも、コクリと頷く。
「そうか。今日はナッ(7)トウ(10)の日だった。ご神体を祀ってお祝いせねば!」
「ご神体…、」
つい、オウム返しをしてしまう。
黒い人が、Aを見て言った。
「お前はオカメか?」
「ひぇぇぇっ」
駆け出す。
後ろは一切振り向かず。
何も知らない! 何も見てない! 何も聞いてない!!
そう、心で叫びながら。
ああ、Aよ。
今日は納豆の日。
ああ、Aよ。
我々はいつでも、本気の君を待とう。
いても立ってもいられぬほどに、オカメを愛するその日が来るのを……。
追記
阿々亜様、登場人物欄にお名前載せました。(事後報告)
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