演劇的浄土観(草稿)

存思院

見たまえ女性は美しい(絶対的無条件幸福/降伏)

 断っておくが、私はとくに悟っていない。

【聖道門/浄土門】

・聖道門は才人の道である。私には難しい。


 はじまりは絶対的無条件幸福の希求。目の良い人は幸福にあって終局を観ずるもの。美人に激しく恋をしながら、熱情の失速を味わう少年少女の不幸である。

 幸せであるとは、それを失う可能性に満ちた状態でもある。もし眼前の子供が麻薬に酔いながらAKで親を殺し、直後に地雷で吹っ飛んだとして、少しでも悲みや怒りを覚えてしまうなら、君は悪魔のようなクズだ。だってそれは常に起きていることだ。日本や欧州をグローバルサウスとは呼ぶまい。教養に満ちた君は世界を、悲劇を知っているはず。この瞬間も苦痛にむせび泣く彼らを知って、目の前にいないという理由で微笑むなら、絶望したまえ、君は現実逃避しなければ幸せになれないのだ。誠実に世界を見るならば、私たちは一秒だって笑えない。

 笑顔とは悪魔の表情だ。利己心の表明だ。


 さて、ここで世界の空虚さ、己の無力さ、幸福の非実在性をかんじて、すべてを諦観できるまっとうな人は聖道門をくぐるのだろう。首を切られても娘を犯されても君は笑える。それは名前に過ぎないと云って。

 宇宙のどこを切れば血が流れるだろうか。


 しかしながら君


「見たまえ女性は美しい!」


 躑躅の蜜をなめる無邪気さで微笑み、湖畔の波をもって囁く彼女を抱きしめないでいられようか。それは永遠ではないかもしれないが、現在において真なのではなかろうか。未来を否定しても、現在を否定することにはならないのだ。

 今この瞬間において、恋人に触れられる一秒において、私は幸福だ。絶望する子を観ないのではない。今、世界とは、彼女である。


 ああ、神よ。素肌が小川のようになめらかなのです。胸が子猫のようにあたたかいのです。たった一言が聖歌より神を詠い得るのです。

 私にはとても、遠くを見ることなどできません。


 私ごとき盲には、とても。


【浄土門/罪人】

・私は天才ではなかった。聖知識をいかせない大罪人だ。


 絶対的幸福を求めないわけではないが、目の前の幸福を捨てろと云われても私にはむりなのだ。つまり。

 だって可愛い恋人はほしいし、自由に旅もしてみたい。

 この思いを正面切って捨てるくらいなら、悟らなくてもいいかなあ、というのが正直な思いだ。これを罪と呼ぶ。そして少しでも嫌なことがあると、とたんに聖者ぶって無常と空をかんずる。ひどいものだ。


【浄土門/神恩】

・罪人故に、世界と神、そして神々は愛に満ちているとわかる。


 ただ、よくよく考えてみるに、ここまで色々なものをいただいてきた。たくさんの美しいものをみたし、恐るべき学問に触れさせていいただいた。導かれているし、そもそもどうしようもない罪人たる私すらしっかり生きている。肉体を捨てても輝かしい世界と友人たちが待っているというではないか。私の守護霊らしい道者は、呆れかえりながらも私を見捨てはしないとおっしゃる。

 なんてありがたいことだろう。


 どうせ独力では悟れそうにないのなら、導きのままにお任せしよう。

 無理して虚ろだと叫ばずに、頭を下げて自然体に歩いていこう。

 金がほしいならほしがろう。恋人がほしいなら告白しよう。

 捨てられないなら、せめて正面から向き合うほかどうしようもない。


「神よ、我罪人を憐れみたまえ(そして悟りなる神恩を得たあかつきには三千世界に恩返しできますように)」


 浄土門とはおおきな信頼と諦めだ。

 私程度が如何様であろうと、世界は神に満ちている。


【浄土門/演劇観】

・役者の実感、自由意志の否定。


 私ごときでは自分や世界を(この叡知をもってして)コントロールできないとわかった。

 どうしようもなく愚かなことだが、どうやらみんなそうらしい。


 客に怒鳴られたからなんだ。彼は怒鳴ってしまうのだ。そのような性格で生まれ、そのように育ったのだ。(因果/運命論)

 私は怒られてムカつき、悲しむように生まれ落ちたのだ。そもそも、他人のことをとやかく云えるほど偉かったら聖道門で悟っているだろう?

 もし「あんな愚かなやつは落雷にあって死ぬがいい」と呪えば、すぐさま私に恒星級の雷が落ちて惑星ごと消滅するに違いない。彼は不幸にも法を知らない。でもお前は知っていて活かせなかったのだから、何倍も愚かだろう、と。

 自分を(経験を)コントロールできる人なんてそうはいないし、いたらそれを仏陀だとかハリストスとお呼び申し上げるのだ。

 誰も彼も自由意志なんてもっていない。

「怒鳴るべきか、怒鳴らざるべきか、よし怒鳴ろう」

「ムカつくべきか、ムカつかざるべきか、よし僕はムカつくぞ」

 なんてやつはいない。

 因果、経験、なんでもいいが、誰も彼も「神の戯曲」に操られている。

 そうしたくなってそうするというのは、そうしようと思ってそうするのと天地の開きがある。自分の感情と思考をコントロールできないとはつまり、自分ではない何かが感情と思考を生み出すのだ。そうなる原因を世界全てまで紐づけるなら(それは明らかに可能だ)世界全てとはすなわち神である。


 努力すれば夢はかなう。かなわなかったやつは努力が足りない。されど努力できるか否かは神が決める。やる気が出るも出ないも、自分でコントロールできないじゃないか。


 世界とは舞台であり、私は役者。

 すべてが戯曲なら、悲しみは味わい、喜びは楽しむ。

 真剣にはなるが、深刻にはなり得ない。

 戯曲は既に書かれているのだ。


【演劇観・シナリオコントロール】

・遠くから欲望を眺める


 でもなるべくなら楽しい演技がしたい。

(そう望んでしまう罪なわたくしなのです)


 という願いも承知されてか、少しならシナリオの執筆権が私にもあると神々は仰せであります。

(もちろん改変されることも神の戯曲のうちなので、厳密には干渉できませんが)

 

「観念構築体としての物理的宇宙」という推論はおそらく真実でありましょう。

 いくつかのルールと要点さえ覚えれば、経験はある程度コントロールできるというのです。

(もちろんどの程度コントロールできるかも神の戯曲には書いてあるのですが)


【心象クロッキー】


 私は広大無辺の舞台に立って、演技を楽しむ役者です。

 舞台を降りられない愚者なので、少しでも楽しいセリフを賜るよう祈りながら、苦しみに満ちたセリフを苦し気に叫んでみせながら、これが演劇であるという無限の神恩に頭を垂れつつ、面白おかしく、泥眼も般若も中今に捨てに捨て、ただ作家の天才性を信じている道化です。

 

 いつか舞台を降りろと云われたら、後輩のために稽古をつけることにもなりましょう。

 それまでは、それまでは。

 

2023/04/27


聖道門:OSHO, 臨済録, 無門関, ヨーガ・ヴァーシシュタ等

浄土門:OSHO, 浄土教全般, キリスト教等

(私の世界への信頼の根底にはシルバーバーチがある)

演劇観:因果、運命論, OSHO

観念構築体としての物理的宇宙(シナリオコントロール)

:セス, エイブラハム

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演劇的浄土観(草稿) 存思院 @alice_in

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