第2話 The Beginning Suddenly

 はじまりは突然だった。

 二〇XX年二月の、季節外れの春めいた暖かな日のことだ。




『――番組の途中ですが臨時ニュースをお伝えします! 本日十二時〇〇分に、皇居上空に突如謎の金属球が出現しました! 全国瞬時警報システム――いわゆる「Jアラート」が発動しなかった件について、内閣および各官公庁関係各所は確認を急いでいます。繰り返します――』




 半径およそ一五〇〇メートル。

 材質および動力源その他一切が不明。


 テレビのスクリーンに映し出されたその光景は、今までの常識をあっけないまでに打ち崩すには十分すぎた。東京のほぼ中心に音もなく浮遊するそれは、誰しもの心に言いようのない不安の種を植えつけ、畏怖いふさせる存在だった。




 しかし。

 それは、ひと月が過ぎ、ふた月が過ぎても、何の変化も起こさなかった。




 だが、次第に世界中の首都上空にも『それ』は出現し、その数を増やしていった。アメリカ、イギリス、フランス――どの国の、どの首都でも同じだった。限りなく真球に近い銀色に輝く正体不明の金属球。前触れなく『それ』は出現し、そしてそうすることが当たり前のように人々が日々目にする風景の一部に溶け込んでいった。


 もちろん、徹底的な調査が行われた。


 ただ、何ひとつ具体的な成果を得なかった。東西の科学の粋を結集して分かったことは極めてシンプル――一切不明――それだけだった。内部構造の解析や生命体の存在の有無はもちろんのこと、さまざまな周波数による電波の発信も無意味で徒労に終わった。どのようにして出現したのか、はたまた顕現けんげんしたのかすら定かではなかった。常設されたライブカメラや、予測のもと設置された調査用高性能カメラであろうとも得られるものは何ひとつなかったのだった。




 そうして、一年の歳月が流れた。




 もうその頃には、人々はその光景をただ受け入れることしかできずに日々を生きていた。それほどまでに何も起こらず、ゆえに、これから先も何も起こらないであろう、そう思っていた。


 これを慢心だと捉え憤る者たちも少なからずいるのだろう。

 だが、何もできず、何も分からなければ、仕方なかったのではないだろうか。




 ――ぶおん!

 それは、はじまりと同じく突然だった。




『――番組の途中ですが、『金属球』に関する緊急ニュースをお伝えします。本日十二時〇〇分に、皇居上空に滞空中の『金属球』より一定周波数の振動波が発信されていることが確認されました。同時刻に世界各地でも同様の現象が確認されており、今後これにより、放送、通信、送電システムの機能に障……生する可能性がある……と予想されます。繰り……ます――』






 そうして――。

 人類がわずかずつ積み上げ、発展させてきた文明は、たった一秒で沈黙したのだった。






 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆






「ほら、かい君! いつまでも遊んでいないで、ママとあたしの準備を手伝ってちょうだい!」

「ちぇーっ」

「――っ!」


 緊張感の欠けた弟の返事は、平静を装っていたあたしの心をいともたやすくぐらつかせた。


 髪の毛一本の上で綱渡りをしているようなものだ。かろうじて現実にしがみついている、本当はとっくにバランスを取り損ねて谷底へ落ちている真っ最中だというのに。自分をもだまして。


「ふざけてる場合じゃないんだってば! こっちに来て! 今、すぐっ!!」


 思わず口にしてしまってから、はっ、と我に返る。

 振り返ると、弟の櫂のくりくりと愛らしい目には、涙が溢れんばかりに溜まっていた。


「――っ。ご、ごめん……本当にごめんなさい。脅かしたり、怒ったりするつもりなんて――」


 櫂はまだ小学三年生なのだ。


 高二になったあたしと比べたら八つも違う。本当はパパやママやあたしよりも、きっと何倍も不安で、恐ろしい気持ちに違いないのに。あたしは、学校の先生がたから、神父様から、今まで何を学んできたんだろう。こんな時こそ、あたしが一番しっかりしないといけないのに。


 櫂は、あたしの顔を見ないようにしてママの背中に、ぎゅっ、としがみついた。


「あらあら。櫂君は甘えん坊さんね――」


 旅行用のトランクの中に、明日からの疎開生活に必要な品々をめる手を止めずにママは言った。そして困ったような微笑みを浮かべてあたしを振り返ると、口の動きだけで声を出さずに『だ・い・じ・ょ・う・ぶ』と告げた。あたしは思わず外れかけていた感情のたがを締め直す。


(あとでちゃんと櫂君に謝らないと……そして、仲直りしなくちゃ……)



 手が止まってる。

 動かせ。


 今はそうするしかない。

 とにかく急がないと。



 一刻も早くここから離れて、青森にいるおじいちゃんおばあちゃんの家まで行かないと。そうしたらもう大丈夫。反省も後悔も、好きなだけする時間ができる。懺悔ざんげもしなくちゃ。


「おい、準備はできたか? ……どうしたんだい、櫂?」

「――っ」

「なんでもありませんよ。もうじき終わります」

「そ、そうか……」


 パパが戸惑とまどった様子であたしを見たけれど、あたしには何も言えなかった。パパは言う。


「車は下の駐車場まで持ってきた。急いだ方がいい。バイパスはひどい混雑だよ」

「ええ。でしょうね」

あおい。お前の方の準備は済んでいるかい? できた順に運び出すから手伝ってくれ」

「う、うん。もう少し」


 びっくりするほど皺枯しわがれた声が出た。喉がからからだ。

 慌てて咳払いをして続けようとすると、パパはにこりと笑ってみせた。


「無理はしなくていい。まずは僕の分から運ぶからね。また戻ってきたら頼むよ」

「……うん」


 パパの笑顔があまりに優しくて、あたしの胸の奥が、ぎゅっ、と締め付けられた。その痛みをしずめようと、あたしはグレーの制服の下に感じられる十字架ロザリオを握り締め、目を閉じ祈った――ああ、神様、あたしにこの苦難を乗り越えられるだけの、強い、強い心をください、と。


 目を開き、無心になって手を動かす。


 あたしの服なんて最小限でいい。暁月あけつき女子の制服だけあれば十分だ。どうせおしゃれなんてしたことがないし、かわいい服なんて持ってない。そうだ、ジャージも持って行けば、もう完璧じゃない。それよりも、櫂君の大切にしているモノをたくさん入れておいてあげなくちゃ。



 そう、一番大切にしている櫂君の――。



「……ね? 櫂君? 櫂君のお友だちのクマさんはどこ? お姉ちゃんとこ入れてあげるから」

「自分で持って行きたいのに」

「う、うん」


 よかった。口をきいてくれた。


「でもね? もしも万が一、どこかではぐれちゃったら大変でしょう? だから、お姉ちゃんのカバンの中の、特等席に入れておいてあげる! ……それでもダメ……かな?」

「それならいいよ!」


 櫂は今までしがみついていたママの背中から名残なごりしそうに手をはなすと、とことこと自分の部屋の方へ歩いていった。あたしはよほどほっとした顔をしていたんだろう、ママはあたしの顔を見るなり微笑んだ。あたしは照れ臭いやら、バツが悪いやらで居心地が悪い。



 が――櫂が戻って来ない。

 すぐ戻ってきてもいいはずなのに。



「櫂? 櫂君?」


 急に不安の虫が騒ぎ出して、あたしは立ち上がった。



 返事がない。

 ますます不安が大きくなる。



「……櫂君?」


 南側に面した弟の部屋へそっと足を踏み入れると、櫂君は窓の外を見つめているようだった。


 ――ダメ。怒ったらダメだぞ、あたし。


「ね、ねえ、櫂君? ほら、早く準備しないと――」

「う、うん……。でもね? 碧お姉ちゃん?」

「?」


 じれる心をなだめて櫂君のそばまで近づいた。あたしはかがみこんで顔を寄せると、その小さな手が指さす方向に視線を向けてみる。一体、弟は何を気にしているんだろう――?


「……どれ? うーん、お姉ちゃん、分かんないなぁ――」

「ほら、光ったよ?」




 ……え?




 ――見えた。

 あたしにも、晴天の青空のあちらこちらにキラキラと陽光を受けてきらめく無数の光が見えた。




「あれ……なに……!?」

「ねー?」


 浮いている? 

 なんだろう。動いているようにも見える。






 ……いや、違う! あれは――!






 あたしはとっさに櫂の手を握って引き寄せると、両腕できつく抱きしめ、窓の近くから身をひるがえして大きな声で警告する。今すぐこの場から離れないと!


「パパ! ママ! 今すぐ逃げて! 何かがこっちに向かって飛んでくる!!」

「なんだって!? そんな――!」

「碧! 櫂! どこにいるの!?」

「怖いよ! 碧おねえちゃ――!」






 ――ドンンンンンッ!






 マンションの躯体くたいを大きく揺るがした轟音が、すべてを一瞬で沈黙させた。



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