第3話 消せない傷
何度かの商談ののち、春生の提案がシャトー社の決裁を通り、ローンチを目指してカスタマーサクセスの担当がつくことになった。
サービスの安定稼働まで、セールスの春生とカスタマーサクセスの田中が、二人三脚で面倒を見ていくことになる。
導入作業とオンボーディングは遅滞なく進み、初回商談から4ヶ月後、無事に全面運用の開始となった。このタイミングで、カスタマーサクセスから顧客企業に対してオフラインのランチ会を打診する。
名目は今後に向けた関係深化と情報交換ということだが、要は軽い接待のようなものだ。
シャトー社側はこれを了承し、丸の内にある日本料理の店がセッティングされた。もちろん、春生と、それから彼女も参加する。
初めて対面で彼女を目にした春生の感想は、やや大げさではあるが、まるで女神のようだった。
水色のシャツブラウスにネイビーのスーツを着込んで、それが細身のプロポーションによく合っている。想像していたよりもずっと背が高く、スカートから伸びた脚線美が、まるでマネキンのように整っている。
絹のように
メイクの印象も違って、持ち前のクールさ、
だが春生を見る視線は、どこまでもやわらかい。
「ハルキさん、こんにちは。実際に会うのは初めてですね。色々ありがとうございました。これからもよろしくお願いします」
「ソンさん、こちらこそ改めてよろしくお願いします。ただ、本日以降はカスタマーサクセスに引き継いで、僕の出番はなくなってしまうと思うんですが」
「ハルキさん、もう会えないんですか?」
彼女がさびしげに言ったのが、春生の胸に切ない痛みを広げた。
導入サービスが軌道に乗れば、その顧客はセールスの職務範囲からは外れることになる。シャトー社の場合も、特に今後、春生がミーティングへの参加含めて関わりを持たねばならない理由はない。
春生の感じるさびしさ、苦しさは、彼女よりもよほど大きいだろう。
苦い思いを封じ込めつつ、春生は髪をかき回した。
「そうですね、御社に対しては今後、田中が窓口に立ってサポートしていくことになると思います」
「そうですか。さびしいです……」
シャトー社からは彼女のほか、その直属の上長である小林さんが参加した。
この席では最も年かさで、小太りでおしゃべりな女性だ。彼女とは、上司と部下の関係だが、姉妹のように距離感が近く、よく面倒を見てくれるらしい。
一方、カスタマーサクセスの田中恵梨子はまだ25歳で最も若いが、小林さんとは同じ男性アイドルグループのファンであることもあって、二人は早々にその話で盛り上がり、春生と彼女は取り残される格好となった。
自然、彼らは彼らだけで話すことになる。
「ハルキさん、最近もひきこもりニートですか?」
「そうですね、相変わらずニート生活です」
「もったいないですね」
「たまに、運動するためにロードバイクで出かけてます」
「だから、日焼けしてるんですね!」
「そうですね、けっこう焼けます。ソンさんも、変わりないですか?」
「わたしも、ぼっちです」
うふふ、と首をかしげ、微笑みを見せる彼女に、春生はありったけの勇気を総動員して尋ねた。
「ソンさんはモテそうだから、すぐに恋人もできるんじゃないですか?」
「わたし、モテないですよ。日本で恋人いたことないです」
「日本の人とも、お付き合いはできるんですか?」
「もちろんですよ! 人種とか、国籍は、関係ないです。ハルキさんも、同じですか?」
「僕ももちろん、関係ないですよ」
彼女はふわっと、微笑の色を濃くしたように、春生には感じられた。
彼女の笑顔には、何らかの意味が含まれていることを、彼は悟った。
というより、そう思いたかった。
今度お食事しませんか、の一言が、のどまで出かかる。
だが言えない。
言えないまま、ランチ会は解散になった。
彼女は日比谷駅から自宅へ、小林さんは二重橋前駅からオフィスへ、春生と田中は東京駅から出社することになる。
田中が
焦りが、彼の脳裏を支配している。
ぺこり、と4人揃って解散になったあとでも、その感情は落ち着くどころかいっそう高ぶった。
今このとき、このまま彼女を見送ってしまえば、ふたりはもう接点を持てないかもしれない。
その危機感が、春生を異常な行動に駆り立てた。
「ちょっと、用事を思い出しました。先に会社へ向かっててください」
それだけを同僚の田中に伝えて、春生は
そして丸の内から日比谷駅へと向かう地下通路で。
「ソンさん」
振り向いた彼女の丸い瞳が、はっとするほどに美しい。
「ハルキさん、どうしましたか?」
「…………」
春生は、自分から彼女に声をかけたくせに、不用意に沈黙した。
彼女はそんな春生に目を細めて、
「ハルキさん、わたしを追いかけたんですか?」
「はい……そうです」
「わたしにデザートごちそうしてくれるんですか?」
「えぇ……そうです」
「イヒヒ、じゃあケーキ食べましょう」
彼女を前に緊張している春生が、よほどいじらしいのか、彼女は
春生の勇気、というよりはむしろ彼女の気遣いといたわりのおかげで、ふたりは近くのカフェで話の続きをすることになった。
(声をかけてみてよかった)
声をかけた、と言っていいのか分からないが、とにかく今、小さなテーブルをひとつ挟んで、彼女とふたりきりでいる。
それだけでも、春生にとってはうれしいことだった。
彼女と時間を共有できると、春生は心が浮き立ってくる。
ただ、一方で緊張もしていて、それは簡単に彼女に見破られてしまう。
「ハルキさん、緊張してますか?」
「あ……はい。あまり、女性とこうしてお話しする機会もないので」
「女の人、慣れてないですか?」
「というより、プライベートな時間なので」
「緊張しないでください。わたし、優しいですよ」
甘い微笑みが、春生に向けられる。
「ハルキさん」
「はい」
「わたしと、どんな話をしたいですか?」
「えっと……」
春生は少し戸惑った。話したいことは山ほどあるが、引き出しに準備していない。
なにか、気の利いた話題はないだろうか。
「それじゃあ、動画のこと、聞いてもいいですか?」
「はい、いいですよ」
「今度、どんな歌を歌われる予定ですか?」
「次は、『セカンド・ラブ』という曲を歌います」
「どんな歌ですか?」
彼女はうれしそうに、手元の紅茶をスプーンでかき混ぜながら、歌詞を説明した。
それは二度目の恋。
初めてじゃないから、上手に愛を伝えたり、相手の言葉に応えたい。
けど、セーターの袖口をつまんで、うつむくことしかできない。
帰りたくない、そばにいたい。
たったその一言が言えない。
あなたの影を止めてしまいたい。
いっそ、私を時間ごとさらってほしい
私は、ただただ戸惑うばかり
「そんな曲です」
そう、彼女は言って、目線を上げた。
クールな美貌のわりに、包容力のある、あたかかみと優しさに満ちた表情だった。
「とても、素敵な歌ですね」
「えへへ、楽しみにしててくださいね」
「あの」
「はい」
春生は意を決し、尋ねた。
「少し前に、韓国でとてもつらいことがあって、そのときに聞いた曲という説明を見ました」
「ハルキさん、見てくれたんですね」
「もし言えることなら、教えてくれますか?」
「どうして知りたいですか?」
(どうして……)
彼女のことが、好きだから。
彼女のことを、知りたいから。
彼女の気持ちに、寄り添いたいから。
口にしたのはしかし、それらより一歩も二歩も引いた内容で、しかも直接の答えになってはいなかった。
「気になったんです。どんなことがあったのか」
だからなぜ気になるのか、と彼女はその答えを
長い髪に隠れがちなシルバーのピアスに触れながら、彼女はゆっくりと話し始めた。
「わたし、留学のあと韓国に戻ってから、好きな人できました。初めての、恋人です。1年くらい付き合って、わたしたちは結婚を約束しました」
「はい」
「そのあと、彼は病気で、亡くなりました」
春生は思わず、息を呑んだ。
彼女は変わらず、淡く穏やかな微笑みを浮かべている。
「病気で、亡くなったんですか……?」
「28歳でした。日本の年だと、26歳です」
韓国ではつい最近、廃止されたが、伝統的に数え年を採用していて、生まれた時点で1歳として数え、さらに年が明けるとともに全員が1歳、年を取る。
それにしても、若すぎる。
まして結婚を決めていた初めての恋人を不慮の病で失うなど、彼女はどれほど痛烈なショックを受け、どれほど深い悲しみの沼に沈んだことだろう。
「わたし、ずっとあのひとと一緒にいたくて、一生、消せない傷をつけました。死んでもいいと思いながら」
彼女はそっと、自らの左手首に触れた。
気にしたことはなかったが、彼女は確かに、仕事でも動画のなかでも、決して自分の手首を見せなかった。彼女が触れた服の下には、その傷がはっきりとつけられているのだ。
「……そのこと、後悔してますか?」
「傷をつけたことは、後悔してないです」
「そうですか……」
「わたし、たぶんあのひとより誰かを好きになることはないと思います。だから、ずっとぼっちだと思います」
彼女のなかではすでに完全に決着のついた経験だったのか、なお表情も声も明るさを失わない。
むしろ、話を聞いていただけの春生が、暗い顔をしている。
彼の方から聞いたことではあるが、気が重い。
彼女の背負っている過去。
彼に、受け止めきれる重さだろうか。
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