屋上の飯島リナ

yasuo

屋上の飯島リナ

 この世界に一人なら、孤独を感じないだろう。他人の存在が、孤独を作るのだ。


 休み時間。学校の教室で読書するふりをしながらそんなことを考えている。本の内容など頭に入っていない。クラスメイトの会話に聞き耳を立てて、勝手に会話に参加する。心の中で相槌を打ったり、意見を言ったりする。ああ、誰か話しかけてくれないだろうか。いつでも準備はできているのに。と今は思っていられるが、実際に話しかけられたら言葉が出なくて逃げ出してしまうことを知っている。

 一人は平気だ。むしろ一人きりなら平気なのだ。他人の会話を聞きながら、自分はその輪に入れない。コミュニケーション能力がないことを思い知る。ひとりぼっちだと思われる。他人がいなければこんな悩みは出てこない。


 昼休み。いつものように屋上に向かう。季節は夏。汗で肌に張り付くシャツ。太陽が熱した屋上の、うだる暑さを想像する。パラソルやビニールプールでも持ち込んで涼みたい。

「やあ石垣いしがきくん。待ちかねたよ」

 屋上に出るとスクール水着の女子——飯島いいじまリナがパラソルの下でビニールプールに浸かっていた。石垣とは俺——石垣ジョウのことである。

「いつのまに持ち込んだんだこんなの。朝にはなかっただろ」

「さてね。僕に不可能はない」

 飯島リナは自分のことを僕と言うし、中性的な雰囲気がある。しかし中性的なのは雰囲気だけで、顔立ちも体つきも普通に女の子している。正直に言って見た目は好きなタイプなのだが、なぜか俺は彼女に恋愛感情が湧かない。

「相変わらず陰鬱な顔だね。空はこんなに青いのに」

 遠慮のない物言いだが、飯島リナとはこの屋上で時間を共にするだけの関係だ。他の時間、他の場所で彼女が何をしているのか、どんな生活を送っているのか、俺は知らない。

 もともと俺は一人でいつも屋上に来ていた。朝、学校が始まるまでの間。昼休み。放課後。教室で他人の存在を意識することが苦しい俺にとって、一人になれるこの場所はセーフハウスなのだ。飯島リナと出会う前から、ここに来るのは習慣だった。

 不思議なことに、クラスメイトとは一切会話できない俺が、彼女とは会話することができた。時間をかけて段々と打ち解けたわけでもない。最初からこの感じである。だから彼女と最初に出会ったとき、「一人になるために他の場所を探す」という発想がなく、今でも屋上で顔を合わせている。

「飯島は、どんなときに孤独を感じる?」

 ビニールプールの隣に腰を下ろし、快晴の青空を眺めながら、俺は今日の話題を投げかけた。

「簡単さ。『どんなときに孤独を感じるか』なんて馬鹿らしいことを考えてるときだよ」

 飯島リナがピントのずれた回答をするのはいつものことだ。

「そんなことより君もどうだい。ご自慢の肉体を披露しておくれよ」

 ご自慢の肉体、というのは当てずっぽうのからかいではなく、飯島リナは俺がそれなりに筋肉のついた体であることを知っている。彼女と出会うまで、俺はこの屋上での時間を一人で過ごしていた。友達がいないと時間は有り余る。俺がその時間をどう使っていたか、彼女は陰から見ていたのだと言う。

「水着なんて持ってきてないし、いいよ」

「そのままでいいじゃないか。むしろ気持ちがよさそうだ。下着でも、なんなら全裸でも僕は気にしないよ。ああそうだ、僕が裸になるから、君がこれを使いたまえ」

「待て!」

 本当に脱ごうとする飯島リナを制する。飯島リナは遠慮がないというか躊躇がないというか、ブレーキがない。

「誰か来たらどうする」

「気にするところはそこで合っているかい?うら若き乙女が柔肌を晒そうというのに、興奮の一つでもするのが礼儀だろう」

 飯島リナは呆れた顔で脱ぐのを諦める。肌は既にほとんど晒されているだろう。心の中でツッコむ。

 飯島リナに対しては恋愛感情だけではなく、性的興奮も湧かない。出会ったときから何の問題もなく会話できたことにも通ずるのだが、飯島リナは昔からずっと一緒にいたような、そんな感覚がある。だから家族に興奮しないようなものかなと思っている。勿論家族ではない。

「まあでも、そこだね」

「何がだ」

「君が訊いたんじゃないか。どんなときに孤独を感じるか、と」

 そうだった。

「それはそうだが、『そこ』って、どこなんだ」

「僕がこれを脱ごうとしたとき、君は真っ先に『誰かが来たらどうするか』を気にしたね」

「当然気にするだろう」

「駄目とか変とか言ってるわけじゃない。あくまで『孤独感の原因』の仮説さ。君は、他人のことを意識しすぎなのかもしれない」

 他人の存在が孤独を作る。自分で考えていたことにつながって、図星を突かれたように心臓がキュッとなる。しかし『他人を意識している』という言い方はなんとなく恥ずかしいような気がして反論の意欲が芽生える。

「意識しすぎというほどか」

「ああしすぎだね。まず君はこの屋上で僕ら以外の人間を見たことがあるか」

「ないけどこれから来るかもしれないだろ。何かの点検で業者の人が来るとか」

「点検は滅多に来ない。数ヶ月に一度あれば多い方だ。それに今大事なのは実際に人が来るかどうかじゃない。来る可能性が高いか低いかだ。そして君が真っ先に気にしたのは、可能性の低いことなんだ」

 勢いで言い返しただけの俺は、すぐに反論が思いつかなくなった。

「次に、偶然にも誰かが入ってきて見られたとしよう。僕が裸で、君が女子用のスクール水着を着ているところをだ。何が問題だ?」

「問題だらけだ」

「具体的に何が問題なんだ」

「不純異性交遊だ」

「不純異性交遊なのか?」

「いや厳密にはわからないが……誤解されたら困るだろう」

「僕は困らない」

「俺が困るんだよ!ただでさえ友達がいないのにそんな噂でも立ってみろ」

「逆に面白がられるかもしれないぞ」

 そんなことあるものか。そんなこと……。

 飯島リナは俺に友達がいないことを知っている。俺が話したからだ。俺は飯島リナに友達がいるのかどうか知らない。

「きっとこいつは友達が多くて、余裕があるからそんなことが言えるんだ。道楽でぼっちの俺を憐れんでいるんだ」

 いつにも増して演技的な声で飯島リナが俺の心の声を代弁する。馬鹿にされているようでいい気分ではない。

「人の心を勝手に読むなよ」

「おや、今のが図星なら君だって人の心を読もうとしているじゃないか」

 飯島リナは得意そうに微笑みを浮かばせる。

「読めるならいいよ。でも人の心は読めない。君のは単なる決めつけだ」

 微笑みから一転、窘めるような目で俺の顔を覗き込む。

「決めつけって……実際そうかもしれないだろ」

「実際にどうなのかは今どうでもいい。問題は、実際を確認する前に決めつけていることだ。『決めつけ』という言葉が嫌なら思い込み、当て推量、憶測、被害妄想とかでもいいよ。さっきも君は、偶然にも屋上にやって来るかもしれないの心すら決めつけようとしたんだ。僕らの様子を見たら『友達になりたくないと思うだろう』とね」

 蝉の声が耳鳴りのように響いている。いつのまにか下を向いていた俺の顔に水がかかる。飯島リナが手を水鉄砲にしていた。表情にはまた微笑みが戻っている。

「さっきも言ったが駄目とか変と言ってるわけじゃない。他人の心を想像してしまうのは無理からぬことさ。いい方向に働くと思いやりとも言う」

 慰めているつもりだろうか。しかし単純なもので、知らぬうちに緊張していた気持ちが少し和らぐ。止めていた息を吐くような溜め息をつき、後ろに手をつく。太陽の熱が血を巡らせる。

「俺が他人を意識しすぎているから孤独だということはわかった。すると、他人のことなんか考えずに、もっと自分のことを意識すればいいんだな」

 やや爽やかな気持ちでそう言ったのだが、今度は飯島リナが溜め息をついた。

「全部違うよ」

「全部!?」

「君は最初に自分で言ったことすら忘れている。『君がなぜ孤独か』なんて話は最初から一度もしていない。むしろそっちでいいなら簡単さ。昼休みという絶好の交流時間にクラスメイトとの関わりを拒絶して、わざわざこんなところまでやってきて陰鬱な顔で陰鬱な話をしているからだ。今すぐ教室に戻って誰かに話しかければ解決する」

「それができるならそもそもこんなところに来てないさ」

 我ながら悲しくなってくることをなぜか自慢げに言って、飯島リナは「それもそうか」と返し、二人で笑う。一人なら、陰鬱な気持ちが心の中で永遠にループして、塞ぎ込むだけだろう。飯島リナの存在は、俺にとって救いだ。こういうふとした瞬間にそれを思い出す。

「いいかい。今日の話題は最初から『どんなときに孤独を感じるか』、変な婉曲をせずに言えば『君がなぜ孤独を感じるているか』だ。そしてその答えの仮説が『他人を意識しすぎていること』だ」

「問いの方を間違ってたのは認めるよ。でも全部は言い過ぎだろう」

「そうでもない。君は『他人のことなんか考えずに、もっと自分のことを意識すればいい』と言ったね。逆なんだ」

「何が逆なんだ。他人を意識しすぎていることが問題なら、もっと自分を意識しようとするのが自然だろう」

「……うむ。確かに『他人を意識しすぎている』という表現には語弊がある」

 飯島リナは顎に手を添え、珍しく考え込むように目を伏せる。反論に成功したようで、俺はちょっといい気になる。しかし数秒も経たぬうちに彼女は顔を上げた。

「君は他人を意識しているが、他人のことを考えてはいないんだ。いや、そもそも意識しているのは他人ではなく自分、と言ってしまった方がいいかな」

「それだと言ってることがまるっきり反対じゃないか」

「言葉の表面だけ捉えるとそうかもしれないね。でも内容がひっくり返ったわけじゃないから安心しなよ」

 飯島リナが何を言いたいのか理解できず、その表情を窺う。彼女もこちらの顔を見て反応を楽しむように微笑んでいた。

「君は、クラスメイトのことを僕に説明できるかい?誰でもいい」

 脈絡のわからない質問に俺はさらに混乱する。とりあえず言われるがままクラスメイトを頭に思い浮かべようとする。しかし誰を思い浮かべればいいかわからず、ぼんやりとした輪郭が瞼の裏をさまよった。

「委員長とかはどうだい」

 助け船を出され、やっと輪郭が形を得るが、それでもまだはっきりとしない。

「確か三つ編みで……眼鏡で……」

「名前は?」

「……いぬいさん、だったかな」

「下の名前は?」

「……わからない。なあ、委員長が何なんだ」

「別に委員長じゃなくてもいいよ。誰でもいいと言っただろう。じゃあ僕はどうだ?君は僕のことを知っているか?」

 飯島リナはビニールプールのふちに身を乗り出すようにして顔をこちらに近付ける。俺はやや遠ざかる。

「知ってるさ。飯島リナだ」

 改めて名前を呼ぶのはなんだか気恥ずかしい。彼女の方に目を向けないまま名前を呼ぶ。

「学年は?」「そういえば知らないな。先輩だったらすみません」

「何組?」「知らん」

「血液型は?誕生日は?好きな食べ物は?」「……」

 矢継ぎ早に浴びせられる質問に、一つも答えられない。

 飯島リナは普段から自分のことを話さない。この屋上以外で会ったことも見たこともない。だから俺は彼女のことを何も知らない。

 飯島リナは大袈裟に溜め息をついた。

「呆れた。こんなにいつも一緒にいる可憐な美少女のことを何も知らないんだ、君は」

「飯島は自分のことを話さないから」

「君が質問してこないからだよ。とにかく、僕の言いたいことがわかったかい」

 俺は眉間を指でつまんで、飯島リナのさっきの言葉を思い出す。

『君は他人を意識しているが、他人のことを考えてはいないんだ。いや、そもそも意識しているのは他人ではなく自分、と言ってしまった方がいいかな』

 俺は同じポーズでしばらく固まっていたが、彼女は構わずに喋り出す。

「君は他人を意識しているようで考えてない。君が大事にしているのは、他人が自分を——石垣くんをどう思っているかだけ。他人自身には興味がない」

 他人に興味がない?

 他人の存在が孤独を作る。そう思っているがそれは他人と仲良くなりたいからである。なのに他人に興味がないなんて、そんなことがあるものか。

 しかし事実として俺はクラスメイトのことも、飯島リナのことでさえ何も知らない。

 俺は虚を衝かれたような、責められているような気分になり、冷や汗が出てくるのを感じた。

「ちなみに僕は君のことを何でも知っているよ。いつも訊いてもないのに君が勝手に喋るからね」

「普段は喋らない。飯島は特別なんだ」

 冷静さを欠いた言い訳が口を滑る。

「……恥ずかしいことを言ってる自覚はあるかい。その積極性を教室で出すといいのに」

 教室では喋れない。自分のことを話せない。誰も俺のことなんか興味ない。自分のことを話して、嫌われたらどうする。話さなければ致命傷はない。話してしまったら、話せば話すほど、俺がしょうもない人間だと知られてしまう。

「君はいつも陰鬱な顔をして、さも自信がなさそうにしているが、本当は自分のことが大好きなんだ。しかし他人に否定されるのが怖くて、自分から他人に関わることを避けている。そうしてただ他人からのアプローチを待ちながら、自分がどう思われているかに神経を尖らせている」

 飯島リナはまるで教室での俺を見ているかのようなことを言う。

 そうか。俺は自分のことしか考えてない糞野郎だったのだ。友達ができないのも無理はない。こんな俺が話しかけてもどうせ嫌われて終わり。やはり誰にも話しかけなくて正解だ。俺はこれからもずっと独りで生きていく。しかたない……。

「君は本当にわかりやすいね」

 黙り込んでしまった俺を飯島リナは慈しむように見つめている。そのまましばし沈黙が続いた。

 パシャン、と水音が響いた。思わず顔を上げると、飯島リナがビニールプールの水を手で掬ってコンクリートの床に撒いている。打ち水だ、と言いながら何度か撒いた。気付くと蝉の声がんでいる。

「『どんなときに孤独を感じるか』という問いに対する、僕の最初の回答を覚えているかい」

 これまでの会話の記憶を辿る。最終的に俺は自分のことしか考えてない自意識過剰の糞野郎だったわけだが、最初は、そう、確かその反対のような感じだった。

「他人を意識しすぎている、だったか」

「残念、ハズレだ」

 彼女は手に残った水を切るように俺の顔に向けて飛ばした。

「『どんなときに孤独を感じるか』なんて馬鹿らしいことを考えてるときだよ、と言ったのさ」

 それは回答だったのか。ジョークだと思っていた。

「君は何やらネガティブに浸っているようだが、程度の差はあれ誰しも同じだよ。自分が特別だと思ったら、それこそ自意識過剰だ」

 励ましかと思ったら傷を抉られた。

「みんな糞野郎ってことか」

「糞野郎はどこから出てきたんだ?つまりね、大抵の人は自分のことが好きで、他人にどう思われてるか気にしてるってことだよ。君ほど極端じゃないだけで。誰だって人に嫌われるのは怖いけど、同時に自分を知ってほしいし、興味を持ってほしいし、好かれたい。だから人と関わろうとする」

 教室のクラスメイトを思い浮かべる。ぼんやりとした輪郭同士が会話をしている。

「他人に興味を持て、石垣くん。自分の内側ばかり見てるから自意識が強くなって孤独感など感じるんだ。自分がどう思われてるかだって、実際に話して確かめればいい。それでも孤独なままだったら、僕がいるさ」

 予鈴が鳴る。俺は腰を上げる。

 俺はいつも飯島リナを残して屋上を去るが、今日は彼女がちゃんと授業に出ているのか気になった。

 予鈴が終わるのを待って、まだビニールプールでくつろいでいる彼女を見下ろす。

「ありがとう。飯島は行かないのか?」

 飯島リナはこちらを見上げて笑みを浮かべる。

「先に行きたまえ。これを片してから行くよ」

 マイペースで自由なやつ。俺は言われた通りに先に行くことにした。

 思えば飯島リナはなぜいつも屋上にいるんだろう。変なやつではあるが、俺みたいに孤独な感じはしないのに。むしろ——

『きっとこいつは友達が多くて、余裕があるからそんなことが言えるんだ。道楽でぼっちの俺を憐れんでいるんだ』

 彼女が読んだ俺の心。これはまだ被害妄想に過ぎない。実際のところは確認してみないとわからない。

『他人に興味を持て、石垣くん』

 図らずもついさっき言われた通りに他人——飯島リナに興味が湧いていることに気付いて俺は一人ほくそ笑む。いや、言われたからなのかもしれない。

 今訊いてみようか。そう思いながらも屋上を出る扉に手をかけたとき、後ろから声がかかる。

「そうそう、石垣くん」

 俺が振り向くと、彼女は笑顔のまま、また俺の心を読んだ。

「僕の友達は君だけだよ」


***


 それから俺は少しずつだが人に話しかけることができるようになった。俺は屋上に行く頻度が減り、飯島リナが屋上に現れなくなったこともあって、いつしか行かなくなった。

 さらに人と話すことに慣れてきた頃、クラスメイトに飯島リナのことを訊いてみたが知っている人はいなかった。先生にも訊いてみたが、この学校には飯島リナという名前の生徒はいないらしい。

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