第47話 胃袋
しばらく泣き続けた彼女だったが、徐々に落ち着いてきたのか、彼の胸でぽつりと呟いた。
「……せっかく買っていただいたのに、服を汚してしまいました。でも……一番汚れたのは私の手なのかも……」
人の命を奪ったのは初めてだった。この先もあの瞬間のことは忘れないだろう。
彼は彼女の様子を見て、何が起こったのかを察する。
「……そうか……すまない。俺の代わりに……」
「いえ、良いんです。……攫われたのが私で良かったです」
もしあのときアティアスが一人で家を出ていたら、攫われる前に不意打ちで殺されていた可能性もあった。
ターゲットではない自分だったおかげで、人質として攫われるだけで済んだのだ。
「……あの赤い屋根の家の地下に、残る二人を縛ってあります。後で処理をお願いします」
「わかった。まずは着替えよう。そのあと兵士に行かせる」
「はい……お願いします」
駄目にしてしまった服を脱ぎ、泣きながらそっと畳む。
気を利かせてくれたアティアスがお風呂の準備をしてくれていた。
彼は自分の望むものをいつも与えてくれる。それに応えられているだろうか、と自問自答する。
身体をさっと洗い、湯船に浸かる。
一息つくと、途端にお腹が空いてきた。
時間はもう午後3時にもなっていた。
新しい服に着替えて戻ると、アティアスが待っていた。
「……さっき、エミーを襲った奴らのことは兵士に任せてきたよ。気にせずゆっくりとしてれば良い」
「ありがとうございます。……お食事、遅くなりましたが、いかがいたしましょうか?」
彼に意見を伺う。
今からまた買い物に行って食事を作るとかなり遅くなりそうだった。
「そうだな……すぐには何も起こらないだろう。近くの店にでも行こうか」
「はい。承知いたしました」
◆
彼女の話の通りなら、当面狙われることは無いだろう。
ならば今は彼女の心労を癒すことを優先したいと思った。
お腹は空いていたが、中途半端な時間なこともあり、軽くお腹を満たすことをアティアスは提案する。
「……そうだ、この前のクレープはどうだ? 好きなだけ買っていいぞ」
それを聞いたエミリスはさっきまでの表情はどこに行ったのかと疑うほどに一転して、キラキラと目を輝かせた。
「ええっ! 本当に好きなだけ良いんですか⁉︎」
「ああ、大変な目に遭っただろ。俺からのお詫びだ」
「ありがとうございますっ!」
彼女か小走りでクレープ屋に向かうのを、彼も追いかける。
「いらっしゃいませ。あら? また来てくれたのね」
店員の女の子はエミリスのことを覚えていたようだ。
「はいっ、美味しかったので」
「ありがとう。すごく美味しそうに食べてくれたからよく覚えてますよ」
エミリスは少し恥ずかしくなったが、まずはクレープを注文するのが先だ。
「今日は……えーと、とりあえず、バナナとチョコのと、イチゴとクリームのと……。あとは……あっ、この桃とカスタードのもくださいっ!」
「えぇ……。3つも……ですか?」
ちょっと引かれているようにも見えるが彼女は全く気にしない。
「はいっ。今日は好きなだけ食べて良いって」
笑顔で答える彼女の後ろでアティアスが頭を掻いているのを店員が見てくる。
彼は良いよ、と目配せする。
本当に3つも食べられるのか不安になるが、その時は手伝ってあげればいいことだ。
「かしこまりました。しばらくお待ちくださいね」
手際よく焼いているのを待ち遠しく待つ。
よほどお腹が空いているのか、開いた口から涎が光って見えた。
「はい、まずひとつ目です。どうぞ」
受け取ったクレープに思い切りかぶりつく。
口いっぱいに甘さが広がって、頬がじーんとした。
「んーーっ」
感動のあまり涙が浮かんでいる。
まるでお預けされてた犬みたいだな……とアティアスは思う。
一気に半分くらい食べたところで2つ目が焼き上がる。
それを右手で受け取りながら、彼女は更に食べ進める。
3つ目が焼き上がる頃には最初のクレープは既にお腹に収まっていた。
「はい、これで最後です。どうぞ」
「はいっ」
空いた手に受け取ると、両手にクレープを持った状態になった。
今度はそれを交互に食べ始めた。
「幸せですー」
そんなに食べると気分が悪くなりそうなものだが、気にせず食べ進めている。
口の周りにクリームが付いているのが愛らしい。
両手が塞がっている彼女の代わりに、彼はそれを指で拭いとりペロッと舐める。……甘い。
ふと見れば、頬を染めた彼女が恥ずかしそうにしていた。
「……俺は、このミックスでよろしく」
そんな彼女を横目に、アティアスは自分の分をひとつ注文する。
「…………」
彼女がちらっと彼の方を見て様子を伺っていた。
それに気づいたアティアスが彼女に問う。
「……なんだ?」
「……私もそのミックスとやらを食べてみたいです」
「…………ま、まだ食べるのか……?」
「好きなだけ買っていいと、先ほどお聞きましたけど……?」
「確かにそうだが……。いや……まぁ構わないが……」
呆れる彼に構わず、エミリスは追加で注文する。
「私も、この人と同じのをもうひとつくださいっ」
「……は、はい。……少々お待ちくださいね」
明らかに顔が引き攣っている。これほど食べる人など、滅多に居ないのだろう。
見れば手に持っていたクレープはもうほとんど胃袋に入ってしまい、最後のひと口を味わっているところだった。
「……胸焼けしないのか?」
彼が聞いてみるが、けろっとした顔で答える。
「え? 大丈夫です! いくら食べても美味しいですー」
「……そ、そうか。それは良かったな」
「はいっ!」
そのあと、アティアスもクレープを受け取り食べ始めるが、それを羨ましそうに彼女が眺める。
ある程度で制限しておかないといずれ大変なことになりそうだと、アティアスは心の中で呟いた。
◆
結局、さらにあとひとつ注文して、合計5つのクレープを胃袋に仕舞い込んだ彼女は頗るご機嫌だった。
「クレープ最高です♪ ご馳走様でした」
「……お前の胃袋はどこに繋がってるんだ?」
「むー、どこにも繋がってませんよぅ!」
彼女は口を尖らせる。
とりあえず機嫌は良くなったようだ。
「じゃあ帰ろうか。……あぁそうだ、買い物して帰らないといけないな」
「そうですね。……私のせいでごめんなさい」
エミリスは頭を下げ、バツが悪そうな表情を見せる。
昼に買い物へと出かけたのにその任務が完遂できず、彼に対して申し訳なく思っていた。
ただ、彼は別のことを心配していた。先ほどの辛いことを思い出させてしまったのではないかと、アティアスは苦い顔をする。
「すまないな。俺はいつもエミーにしてもらうばかりだな」
「いえ、そのために私はここに居るんです。仕事を取らないでください」
「じゃあ一緒にやろうか。買い物の荷物くらい俺が持つさ」
「ありがとうございます。……アティアス様のそういうところも大好きです」
彼が自分に気を遣ってくれているのがわかり、その優しさに癒される。
彼のためなら自分が手を汚すことなど些細なことだと、自分に言い聞かせた。
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