第35話 涙

「な、何言ってるんだよ? 親父の養子にしてくれと連絡を入れたはず。俺とはまだそういう話じゃないぞ」


 『まだ』というところをさりげなく強調しつつアティアスが説明する。


「そうなのか? 年頃の女の子との縁組の手続きなんて、それしかないだろうって思ったんだが……」


 レギウスが申し訳なさそうにアティアスに言う。

 つまり、『養子』縁組での手続きではなく、本人同士の『縁組』として婚姻届が出されているということか。

 通常は本人が出すものだが、ここでは親族での提出も認められていた。もっとも、領主家であるレギウスならばそんなルールを無視することすら可能ではあったのだが。


 それを聞いてアティアスは唖然としていた。

 そんな彼の姿を見るのは珍しい。


「……手続きの訂正をしないといけないのか。ただ……俺は今動けないから自分でやってくれ。……とはいえ、しばらくそのままで何か困ることもないだろう?」

「あ、ああ。確かに親父の義理の娘になるってことに違いは無いが……」


 よく考えれば元々はエミリスの戸籍をどうするかという問題であって、それが養子だろうが婚姻だろうが、さほどの違いは無い。それにどちらも同じ名前になる。


 ――つまり残るは当人同士の問題だけだった。


「あの……。ええっと……その……私はそのままのほうを……全力で希望したいです……」


 横で聞いていた彼女は頬を染めて、もじもじしながらぼそっと呟く。

 彼女にとっては、精一杯勇気を振り絞った言葉だったのだろう。


「……なんだ。その子にそのつもりがあったなら、もうそれでいいじゃないか。……女を泣かせるなんてゼルム家の恥だぞ?」


 レギウスが笑う。

 体調が悪いのも少し楽になった気がした。


「いや……さすがにちょっと急すぎるんじゃないか……?」


 アティアスはかぶりを振る。

 彼女さえ良ければいずれはとも思っていたが、いくらなんでも早すぎる。

 頭を抑えつつ、ふとエミリスの方に目を遣ると、彼女は泣きそうな表情でアティアスをじっと見つめていた。


(おいおい……その目は反則だろう……!)


 彼女の想いはもちろん知っている。


 アティアスは思いを巡らせる。

 彼女ほど自分を慕ってくれて、有能な人物が今後現れるだろうか。――いや、あり得ないだろう。

 彼女が傍に居てくれることでどれだけ助けられているかなど、考えるまでもない。

 そして何よりも、かつて自分が宣言したはず。――彼女を悲しませることはしないと。


「分かった! 分かったから……そんな目をしないでくれ……」


 答えなど最初から決まっていた。

 一度深呼吸してからはっきりと宣言する。


「……エミー、これからもずっと隣に居て欲しい。俺の妻として。……受けてもらえるだろうか?」

「――――!」


 淡い期待をしてはいたが、彼の言葉を聞いてエミリスは息を飲んだ。


「あ……あ…………」


 口を開こうとするが言葉に詰まり、溢れる涙が頬を伝う。

 しばらく時間が経ち、震える声でようやく彼女が口を開いた。


「わ……わたしなんかで……本当によろしいのでしょうか……?」


 そんな彼女の頬に手を添え、涙を指で拭いながらアティアスが言う。


「もちろんだ。エミーの代わりなんているはずがない」


 その言葉を聞いた彼女は、花のような笑顔を弾けさせて彼に抱き付いた。


「――はいっ! 私っ! 全力でお受けしますっ!」


 周りで聞いていた使用人たちも拍手している。

 まさか見舞いに来ただけでプロポーズする羽目になろうとは……。

 しかし、涙を流して喜ぶ彼女を見てそれでもいいかと思うことにした。

 ……結局泣かせてしまったことにはなるが、この涙なら咎められまい。


「ぐすっ……アティアスさまぁ……」


 泣きながらしがみついてくる彼女の背中を軽くさする。


「煽ったみたいになってすまんな。……今日は来てくれて楽しかったよ。少し苦痛が和らいだ気がする。……また来てくれ」

「ああ、早く回復させてくれよ。それじゃ、今日は帰るよ」


 感慨深く話すレギウスに礼をして、アティアスたちはレギウスの寝室を後にした。


 エミリスはかつてないほど嬉しそうに、アティアスの腕にしがみついていた。

 『彼女』になったのが昨日のこと。まさかこんなに早く『妻』へと昇格することになろうとは思ってもいなかった。


「……このあとノードと話がしたいと思っていたが、とりあえずは家に帰ろうか」

「はいっ、承知しました」


 結局、家に帰るまで彼女は腕を離してはくれなかった。


 ◆


「うふふふふ……」


 家に帰ってからの彼女は、ずっとこの調子で舞い上がっていた。

 それはそれで幸せそうで見ていて飽きないのだが、アティアスにとっては考えることが山積みだった。

 ……皆にどう伝えるか。

 いずれ結婚式をしない訳にもいけない。ただその前に兄レギウスの問題もある。


「どうしたものか……」


 頭を抱えていると、玄関をノックされる音が聞こえた。


「私が出ますねー」


 考え込んでいるアティアスを横目に、さっと現実に戻ったエミリスがパタパタと玄関に向かう。

 なんだかんだで切り替えが早いのも彼女の特徴だった。


「はいっ、なんでしょうか」

「よう、元気にしてるか?」


 ドアを開けると、そこにはノードが居た。


「あ、ノードさん! はいっ! 今ものすっごく元気ですよ。どうぞお入りくださいっ」


 ノードをアティアスのいるダイニングに通す。


「急に来てすまんな。俺も親父から話を聞いてな」


 彼の父親は城でルドルフに仕えていることもあり、ある程度の情報は入ってくるのだった。


「ああ、さっきレギウス兄さんの所へ見舞いに行ってきたよ」

「そうか、どうだった?」

「……大丈夫そうには見えたけど、わからない」


 心配を掛けまいと無理をしている可能性もあって、不安になる。


「そうか……。俺も色々調べてみるよ。お前が旅に出ないならどうせ暇だからな」


 ノードが笑いながら言う。


「それはそうと……まだ2日も経ってないのに、もうこの家に馴染んでるみたいだな。それに妙に機嫌が良いな」


 ちらっと彼女の様子を伺うと、慣れた手つきでお茶出しの準備をしていた。鼻歌まで聞こえてくる。


「あ、ああ……そうだな……」


 アティアスが頭を掻いていると、彼女が二人にお茶とお菓子を持ってきた。


「はい、どーぞ」

「ありがとう。……それでどうだ? ここでの生活は……」


 ノードがニヤっとしつつ問いかけると、彼女は慌てて答える。


「えっと……、アティアス様が良くしてくださるので……私……幸せです……」


 だんだん恥ずかしくて声が小さくなっていく。


「そりゃー良かった。まぁ、二人で暮らすなんてほとんど新婚生活みたいなもんだろうしな。楽しいだろ」


 ノードは何気なく言っただけなのだろうが、その言葉にエミリスは顔を真っ赤にさせてしまう。


「……はい。……実際、今日から新婚さん……ですし?」


 彼女はアティアスの方に目線を向けて、上目遣いで見ている。

 アティアスはどうしたものかと、また頭を抱える羽目になる。


「……そ、そうだな。はぁ……ノード、実はな……」


 ◆


「ぶわっはっはっ!」


 レギウスの屋敷での顛末をアティアスから聞いたノードは、腹を抱えて笑っていた。


「……笑うところか、これ……?」

「いや、笑うだろ……。自分達も知らないうちに夫婦でした、って。……どう聞いても笑い話だろが」


 ……確かにそうかもしれない。

 この街に来るまでの間で二人は距離を近づけてきたが、実はその前からとっくに結婚していたということになる。


「まさかいきなりこんなことになるとは思ってもいなかったよ」


 諦め混じりにアティアスが話す。


「えぇ……。やっぱりアティアス様は……私とは嫌だったのですか……?」


 そんな彼を、しょんぼりと泣きそうな顔でエミリスが見つめる。


「あ……いや、そんなことはないぞ。エミーと結婚できて俺も嬉しい」


 慌ててフォローするのを見てノードが更に笑う。


「くっくっく……! もう手玉に取られてるじゃねーか。その調子でアティアスが無茶しないように、しっかり手綱を握っといてくれよ」

「はい! わかりました!」


 笑顔でエミリスが返事をするが、アティアスは更に頭を抱える。


「いや、それは勘弁してくれ……」

「むむむー」


 彼女は指を咥えて難しそうな顔をする。

 ……それが可愛い。

 ただ、確かに可愛いのだが、あまりに巧みにあしらわれるとそれはそれで困る。


「ま、イチャイチャするのは二人のときに頼むわ。……とりあえず、おめでとうと言っておくよ」

「ありがとう。……ただ、あまり広めるなよ?」

「どうせすぐ広まるだろ、そのうち式だってするんだろ?」

「そうだけど、今は兄貴のことがあるからな」


 ノードは少し考えて頷いた。


「……確かにそうだな。……お前が公表するまで黙っといてやるよ」

「すまんな」

「んじゃ、新婚さんの邪魔にならないよう帰るわ。……またな」

「はい、いつでもお越しくださいませ」


 エミリスの声に手を挙げて、ノードはさっさと帰って行った。

 ちらっとエミリスを見ると、上目遣いでじっとこちらを見ていた彼女の目線とかち合う。


「二人きりなので……イチャイチャしても良いですか……?」


 ぼそっと本音が溢れる。ただ、アティアスが答えるよりも前に、彼女に突進されていた。

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