第10話/銀世界

 オリヴェール・ナイアの生家には、特別な眼差しを受け続けた絵画が飾られていた。それは白い街並みを描いた一枚で、土地の名をグライブという。


「グライブはどこにあるの?」


 問うたのは幼き日のオリヴェールである。母は大層この絵画を気に入っており、我が子の小さな手を握りながら語ってくれたものだ。


「常冬の森にひっそりと抱かれた土地よ。ひとりふたりでは、決して辿りつけない」


 国家の力と騎士団の守護を得ずして踏破は適わぬと、語る声さえ柔らかだった。

 ペルニスイユ使節団の一員として闇深き針葉樹の森へ踏み込んだオリヴェールは、あの日のおとぎ話を目の当たりにせんとしていた。

 広がっていたはずの青空は木々と雲とに侵食され、行く手は夜を疑う薄闇へと飲まれている。吹雪によって視界が閉ざされつつある中、総勢十五名で編成されたペルスイユ使節団は急ぎ馬を駆り、雪を蹴散らして走ることを余儀なくされた。彼等の背後に迫るのは、狼の群れである。

 後方を追ってくる三頭の他、騎馬に鞭をくれて急ぐ一同を両挟みにして、二頭の狼が使節団と並走している。

 枝が重みに耐えかね、積もった雪が前方で落下した。手綱を操り、迂回することでオリヴェールは速度を落とさず走り抜けたが、狼の囲い込みにより最後尾に続く随員が隊列から切り離される。

 狼が馬に飛びついた瞬間、護衛騎士が随員を庇って落馬。護衛の任を果たした勇敢な騎士は、雪の上に取り残された。すると、先頭を行く一騎が馬首を巡らせ、逆走を開始する。これが使節団の長、大使であった。


「ナイア様」


 騎士の静止が飛ぶも、構わずにオリヴェールは引き返す。負傷者の眼前へと降り立ち、護身の剣を抜いて獣の群れと敵対する。

 使節団の構成は正使一名、副使と随員が各三名。残りは過酷な道中にて彼等を守護する護衛騎士。要たるべき大使が脚を止めてしまえば、団員は先へも進めず後へも退けない。とはいえ、オリヴェールの義侠心に満ちた行動は一同の結束を強めるに充分であった。

 騎士等は互いに目配せを交すと、オリヴェールと負傷者の元へ向かう。人命救助の意志によって縦に連なり、栗色の鬣を散らして疾駆する彼等を、不意に巨大な影が追い越す。

 振り仰いだ先を飛ぶのは、鷲。両翼を拡げた猛禽はオリヴェールと狼の対峙する地点へと一直線に滑り降り、威嚇の鳴き声を高くあげるや、大きな爪で踊りかかった。大型獣でさえ一撃で仕留めるという鷲の鋭い爪が、狼の鼻先を捉えて血飛沫を散らす。

 第二撃に備えて鷲が旋回すると、狼は鼻の肉を削がれて息を荒げながらも、臆さずして低く構える。仲間達が彼の傍を過ぎて撤退を促すと、彼は群れの流れに加わり、遠ざかった。勝算は薄いとみて撤退したのだろう、狼は知能が高く生存戦略に長けている。

 オリヴェールは背後に庇っていた騎士を振り返り、怪我の具合を確認せんと膝を折る。


「無傷というわけにはいかなかったようですね。傷ましいことを」


 第三者の低い声が、冷気に澄み切る空気を伝って耳に届く。顔をあげた先、救援に駆けつけた仲間達の向こう側。


「お迎えにあがりました」


 まずは傷の手当てをと続けたのは、黒馬の鞍に跨った丈夫である。緩やかに黒馬が歩を進め、背後にいくつかの影を引き連れてきた。彼が片腕をあげると、鷲が引き寄せられて翼を畳む。

 いつの間にか、雪は止んでいた。窮地を逃れて熱が引いた為か。絶え間ない冷風と足場の悪さで使節団を苛んだ森が鎮まり、肌を刺す寒さが厳かなものに変化して感じられる。傷を受けた騎士に寄り添う姿勢のまま、 オリヴェールは影を凝視した。常冬の森にひっそりと生き、雪と氷の加護を受けし者。


「……吸血種」

「如何にも。ペルニスイユ国使節団の皆様方」


 聴かせるつもりのない呟きさえも、彼らの聴覚は拾うらしい。声を張ったふうでもないのに、森によく通る声が応じた。


「クディッチ公爵。この洞窟を抜けるのですか?」


 土を掻いて栗毛の馬が戸惑うのを、馬上のオリヴェールが代弁して隣の男に問う。


「はい。馬を宥めてあげてください」


 公爵に言われた通り、オリヴェールは馬の鬣を掻き、緊張を解さんと努めた。彼等の眼前には、洞窟が口を開けている。目線をあげると氷柱の鋭い切っ先が殺意の光を帯びて見えた。大きく発達しており、美しくもあるが不気味さを拭えない。


「氷塊が落下する危険性があります。傍を離れないように」


 ペルニスイユ使節団を迎えに出たのは、クディッチ公爵と彼の率いる兵士達であった。彼等は黒馬に跨り、一様に黒の外套に身を包んでいる。狼に襲われた馬は一時は混乱して逃げ出したのだが、森で彷徨う前に吸血種等が回収したらしい。黒馬の傍に混じり、吸血種等に誘導されるがまま、雪を踏み始めた。

 吸血種等は使節団の疲弊に配慮して、栗毛の馬から黒馬へとできる限りに荷物を移し、共に移動を続けている。

 先頭はクディッチ公爵。半歩先を進む彼の、幅広の肩を目端にオリヴェールも続き、洞窟の闇へと踏み込んだ。しばし全くと言っていいほどの闇に包まれて総毛立つも、馬の落着きがオリヴェールに伝わる。栗毛の従順なる馬は公爵の後を見失わずに導かれているらしい。

 どこから滲んでいるかも知れぬ蒼白い光が、足元の岩肌を浮き上がらせた。洞窟内部は天井が低い。暫く進むと圧迫感が失せ、天井が一気に遠ざかる。どうやら、開けた空洞に出たらしい。呼吸が幾らか楽になり、オリヴェールが顎を逸らすと、頭上を氷柱が埋めていた。水晶に似通う透明な剣先のすべてがオリヴェール達に差し向けられていて、壮麗なる氷の森を逆さに見晴らすようだ。仲間達によるものであろう、後方からもいくつかの感嘆が漏れ聞こえた。氷柱は青ざめた光を纏い、輝きを先端に滑らせている。

 

「この光はどこから?」


 公爵が片腕を横へ滑らせると、示し合わせたように周囲を輝かせていた光が変化した。青から橙へと、鮮やかなる色の漣が氷柱に打ち寄せ、一斉に染まりゆく様にオリヴェールは面食らう。


「仕掛けはあちらに御座います」


 鷲がひと鳴きして、公爵の肩から鞍へと飛び移る。先程の仕草はあくまで鳥への指示であったらしく、遅れて公爵の片手が光源を指す。

壁を見遣ると、内部に燭台を抱えた窪みが点々と続いている。


「行きがけに火を灯しておきました。凍礼祭の期間中には炎が青く変色します。これは少々、時期外れではありますが」


 燭台の連なりに従うと、天井が再び低く迫り、一本道へと収束していく。出口の白い穴を抜け出ると、両脇に巨大な氷塊が転がっていた。背後の狼より、入口の氷柱より、殺傷能力だけなら確実な巨大さだ。年中冷え、雪の溶けきらぬ地域だからこそであろう。暗所からの開放感に包まれると共に、再びの森を進んでいく。足元は石肌から雪へ、更に土へと柔らかさを増していった。

 四方には溶けきらぬ雪が残っていて、白い肌で弱々しい陽の力を受け取り、銀の粒子に分解して煌めいている。

 小枝の折れる音がした。目線の先で、白い毛並みに、染みひとつない見事な白鹿が姿を現す。

 角の生えているところを見るに雄であろうか。雪を掘り返すために雌でも角の生える種があると聞く。華奢な四肢をした鹿はオリヴェールを一瞥すると、俊敏な動きで駆け去った。

 この地に宿る白は、雪にしろ鹿にしろ、オリヴェールが自然界に見出すものより光をより蓄えて感じられる。

 木々が減るにつれ、前方には視界一面に続く白い壁が見えてきた。城壁のように頑丈な造りで、出入り口であろうアーチ状の門は両開きの状態だ。壁と扉は白く、両脇に控えた門番だけが黒の外套を着こんでいる。型は違えども、吸血種達は黒の衣装を基本としているらしい。

 一同が蹄鉄の音を緩やかに重ねてグライブの門を通過する間際、扉の左右に控えた門番が低頭で礼を示す。薄い影を経由して再び光の中へと踏み込むと、見えざる冷気のヴェールのようなものを潜り抜けた気がした。肌で感ずるところでは、雪の降る森よりも底冷えし、微風は乾いている。

 使節団としての使命を帯びていることを忘れはしないが、それを以てして抑えきれぬ高揚がオリヴェールの胸に湧く。グライブは本当にあったと指さし、亡き母へと笑いかけることが出来たなら。叶わないと知りながら、脳裏でだけ夢想する。

 絵画に重なる白で統一された街並み。続いていく石畳の緩い傾斜。地上は銀の彩をまぶされ、淡く輝いている。一面の白をして銀世界と呼ぶのであれば、まさに此処だ。

 圧し殺さんとした感動が、吐息を装って小さく漏れた。見知らぬ土地、真新しい感動に打ち震えていながら、不思議な郷愁がある。思い出と異なるのは、曇天を裂いて異様な何かがグライブの街並みへと伸びていることだ。

 オリヴェールの驚きと沈黙に、隣のクディッチ公爵が答える。


「曇天を根とし、滅びを象徴する氷の樹。我々はフリーレンと呼んでいます」


 遥かに遠き巨大な樹は、白く眩い。まるで――世界に走る亀裂のように。

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