第9話/家族
曇天より雪が舞い降り、墓地と街とに等しく降り積もる。針葉樹が形成する黒い森が銀に染まるにつれて生物の往来は絶え、民は自然の烈しさを窓越しに窺う。不安な精神にとって吹雪は永遠を錯覚させるが、窓枠の軋みが鳴り止む朝を迎えると、彼等は手に手に道具を持ち出して街路の除雪作業を開始した。
積雪の障害から回復した街は、昏睡から目覚めたかのよう。往来に雑踏が戻り、馬車が走行し、郊外に茂る葉に露が滴り、鳥の囀りが枝を渡る。
下草を潜り抜けて地を這う虫がいる。吸血種より手厚く管理されるハルモニとは異なる種類の蜂で、彼等は地中深くに巣を作り、寒さを凌ぐ。蜂と目線の高さを合わせたとして、下草越しにみる地平線の向こう岸に小さな村が存在した。集落からやや外れた位置に一軒家が佇み、木々に囲まれた家屋は慎ましくも古びた外観をしている。
この家を目指して、遠目に馬が駆けてくる。青毛の馬に跨るのはカリヴァルドで、随伴はない。彼が鞍から降りると鼻先を寄せて馬が甘える。男は獣の肌を叩いて宥めながら、門の柱に手綱を結びつけた。
この家の裏手には温室がある。家主は今時分そこへ行っているはずと予測したカリヴァルドを、若い女の声が引き留めた。玄関から騒々しい音をさせて飛び出してきたのは、若葉色の髪をして喜色を浮かべた娘。
「輝滴を、カリヴァルドさん」
駆け寄る勢いもそのままにカリヴァルドの片腕に飛びつく。譬え全力でぶつかったところで、相手が踏みとどまって受け止めると期待しているからこその速度であり、実際にカリヴァルドは難なく娘の突進を受け止めた。
「輝滴を、カナエ」
輝滴を、とはグライブの日中の挨拶で、白蜂の蜂蜜に由来する。
「本物だ。本物のカリヴァルドさんだ。何か月ぶりだろう。私、ずっと待ってたよ。会いたかった」
「久しいね。少し背が伸びたかな」
無邪気にはしゃぐカナエに、カリヴァルドは落ち着くようにと柔らかな制止をかけた。
「ねえ、カナエ。隠し事が知れた時にはどうなると思う?」
カリヴァルドはだしぬけに言ったが、カナエは図星をつかれた顔で硬直する。口元を震わせながら娘は応えた。
「わ、私の秘密は沢山あるよ。百も二百もあるから、カリヴァルドさんが言いたい隠し事がどれのことだかわからない」
カナエはカリヴァルドに強くしがみつき、顔を伏せた。密着して俯けば、身長差によりカナエの表情が読めなくなる。
「そんなに沢山? 秘密ならば暴くほうが無粋だね」
しがみつくカナエの肩に手を遣りながら微笑み、カリヴァルドは温室へ向かう。
「君達はオルドブルレイアという特別な存在だと、以前に話したね」
オルドブルレイアはグライブでは凶兆であり、シンメルの弱体化を裏付ける存在。牙をもたぬ者が名乗る姓であり、犬歯がないので血を必要としない。吸血種から生まれて寿命が短く、生態はヒト種に近い。歴史に何度か登場するも、吸血種の強靭さもなく、概して脆弱だという。
「私とお母さんは牙がなくて、みんなより早く老いて死ぬ。よく分かってるよ。私たちの生涯はうんと短くて」
カナエはカリヴァルドの片手を取ると、彼を台風の目として巻き込みながらでたらめに踊り、ぐるぐると回る。
「だから、今を楽しく生きるんだ!」
男は娘を窘めることもせず、けれども動作を徐々に和らげながら主導権を奪う。ステップなど知らずともカナエの両脚はカリヴァルドに従い、蹴りあげられていたスカートの裾が優美にひらめく。カナエがはにかみ、そうしてじゃれあいながら温室までやってくると、一軒家の女主人が出入り口を施錠したところであった。
半身にカナエを張り付かせたカリヴァルドを認めて、エリシャ・オルドブルレイアは顔を歪める。
「公爵さまじゃないの。何しにきたのかしらね」
若草色の髪をした女で、頬が丸いせいか憎々しげな顔つきをして見せても、かなり幼い印象を与える。
カリヴァルドはエリシャの挑発を微笑のみで受け流し、温室を覗く。内部では鉢植えが壁を埋め、手入れのされた薬用植物達が整列し、緑の葉を艶やかに伸ばして健康を主張していた。
エリシャはリーベンを養母として育った。屋敷に暮らす間は繊細なシンメルの栽培にも携わっていたので、植物への造詣が深い。貴族としての暮らしを嫌って小村で自活している現在も温室で薬草を育て、民間薬を売って生計を立てているのであった。
温室の外観は多角形をしており、屋根は雪下ろしのための急勾配で尖っている。しかし雪が落下するに任せていると出入り口が塞がれるので端へ避けねばならず、女の細腕では苦労する。
「すごいとかなんとか言ってよ。雪かきも全部私とカナエとでやってるんだから。偉いでしょうが」
「民家が密集しているわけではないから、ある程度は積雪が滑り落ちるままにしておけば良いでしょう。身の回りについては女中のひとりも雇えば済む」
「いいのよぉ。村の皆とはよくやってるし、薬の評判もいいし」
エリシャが背を向けると、巻髪が肩で弾む。娘と同じく、雪に枯れない葉の色をして。
「丁度パイも出来上がる頃だし、御馳走してあげてもよくてよ」
エリシャ宅の内部は屋敷と異なり暖炉は一箇所きり、居間は家族の団欒にも客間としても共通して使用するため間取りが広い。居間の中心には長方形の卓子と椅子が設置されており、屋内は薬草の青臭さと甘み混じりの香りに満ちている。
天井からは束にされた薬草が吊るされていた。使い古しのカップは土が盛られて鉢となり、小さな花が窓際に並んでいる。不揃いな点は多々あれど、工夫を楽しみながら飾り付けられた親しみある内装だ。
貴族として育った共通の過去がありながら、カリヴァルドとエリシャとは美的感覚が全く異なる。彼は統一性の感じられない室内装飾を生理的に受け付けず、雑多な内装が神経に障るのだ。しかし、この家の女主人はエリシャであるから、カリヴァルドが口出しするのは不躾とし、長卓の椅子を引いて大人しく腰掛けた。
卓子の上、黄金の艶を帯びたパイが鎮座している。平たい生地から立ち上る湯気は、濃厚な蜜の気配を孕んで鼻腔に甘やかだ。
三角形に切り分けた一片を皿へと移す。先細りした先端へナイフを宛てがうと表層の生地が音を立てて割れ、完熟の蜜を溢れさせた断面が熱に曇る。口腔に迎えれば、焼きたての熱と絡み合いながら舌の上で輪郭を崩し、甘くとろけた。
「大したことないわね。普通のパイだわ」
エリシャは淡白な感想を述べたが瞳は輝き、二切れ目を皿に移している。パイを作った、いや正確にいうと作り直したのはカリヴァルドだ。エリシャが供したパイは生地が緩く、味見をするまでもなくカリヴァルドは調理場に立った。彼の隠された趣味は製菓作りであり、かつては厨房の片隅を借りて調理に耽り、完成品を妹に捧げていたのである。
「お母さん、美味しいっていいなよ。負けを認めなくちゃ」
カリヴァルドの隣に座り、カナエが意地悪く母を追及する。
「ふん、負けたわ。貴方はなんでもできるわねぇ」
木の卓子を挟み、パイから立ち上る蜜の香りを共有するエリシャとカリヴァルドは実質的な夫婦、内縁の妻といえた。その根拠こそがカナエであり、彼女はカリヴァルドとエリシャの血を引いている。
「カリヴァルドさんはリーベンさんちの大きなお屋敷で働く……従僕だっけね。リーベン様て、どんなお方? きっと、綺麗なドレスを着ているよね」
カリヴァルドとエリシャの間では、彼はリーベン家の家僕で、公爵の指示に従ってエリシャの様子を見に来ているという嘘が頑なに守られている。彼がエリシャとカナエを妻子として認知しないことは、妊娠する前に了解されたことだ。
認知はしないが、金銭的援助は続ける。それがカリヴァルドの提示した条件であり、エリシャはこれを承諾してカナエを産んだ。夫婦は愛情によって結ばれた仲ではなく、そもそもが夫婦でさえないのだが、種々の経緯が積み重なった結果、嘘を積み上げながらも、ひとまずの安定をみせている。エリシャと共謀してカナエに接する彼が、オルドブルレイア家を自らの家庭と定めることは今後も無かろう。
カリヴァルドは家僕の領分を超えるとして、この家で飲食をしない決まりだ。カナエはカリヴァルドにパイを勧めたいのを堪えている様子で話を続ける。
「カリヴァルドさんはリーベン様を好きになったりしないの?」
カリヴァルドとエリシャの脳裏に痩せた首と手をした気品ある老女の姿が共通して浮かぶが、色恋沙汰とは結びつきようもない。
「リーベン様は尊敬できる方だよ。もしも私に気の緩みがあれば、すぐに解雇されてしまうだろう」
「じゃあ、お母さんのことは?」
「我々は信頼し合える関係ではあるべきだ。しかし、それ以上であるべきでもない」
「良かった」
カナエは相手が父とも知らずにカリヴァルドに懸想しているようで、時には明け透けなほど思慕を示す。血縁関係の無い設定を演じているだけで、実の娘だ。妹を陵辱したカリヴァルドではあるが、娘と関係することは有り得ない。身近にいる年長者への懸想は、未成熟な娘が一度はかかる熱病であろう。
カリヴァルドがエリシャ宅の玄関に立つと、カナエが見送ると言って着いてくる。馬の側まできて、やや声を潜めた。屋内の母に聞かせたくないようだ。
「私の隠し事をひとつ教えるよ。もうカリヴァルドさんには知られているようだから」
カナエは母に無断で薬を持ち出し、街に出ている。ある不幸な老婆が傷を負い、回復のために是非とも薬が欠かせないとわかったので秘密裏に斡旋していると自白した。
「以前から良くしてくれていたおばあさんなの。村の外に出てはいけないとわかっているけれど、今だけ、おばあさんが元気になるまでは通わせて」
事情を話して味方に引き入れようというのだろう。カリヴァルドは穏やかに答える。
「よく打ち明けてくれたね。先に相談し、次に行動するという順序を守りさえすれば、カナエができることは格段に増える」
使いを出そう、と続けたカリヴァルドにカナエは落胆した。
「私が行っちゃだめ?」
「薬の受け渡し、治療だけなら事足りるはずだ。他に心配事があるの?」
カナエは頭上を見上げる。
フリーレンが滅びの予兆であることは機密事項だ。氷の大樹が何であるかを民衆は知らず、巨影に怯えながらも見惚れる余裕が生じ、存在は日常に溶けかかっている。カナエにもフリーレンに対する恐れは感じられない。
「おばあさんの気持ちが暗いんだ。多分、あれのせい。確かに私がおばあさんのところへ行くべき理由は無いんだけど、私でなきゃいけない事って突き詰めると存在しないよね。やりたい気持ちがあるだけだよ」
特殊な生態故に、カナエは外部との交流を制限されている。村で生まれ、日々の殆どを母と過ごし、母に言えない話となればカナエには吐き出し口が無い。時折に母子を訪ねるカリヴァルドは、彼女にとって数少ない外界との接点といえよう。
「では、おばあさんの問題はこれから私とカナエのふたりであたろう。医師の診断はあるの?」
カリヴァルドは適宜理解を示す。咎めても萎縮させ、心を閉ざすだけだろう。彼はカナエから事情を聞き出し、次回の訪問までに間が空くだろうから、手紙を出すと約束した。
「私、カリヴァルドさんのお手紙好きだよ。いつも素敵な香りがするもの。時々、可愛い花びらがはいっているのも嬉しい」
「そう? 薬と花をおばあさんに届けてあげるのも良いかもしれないね。君自身が街へ出るのは控えて、私からの便りを待っていて欲しい」
わかった、とカナエは言う。
「私、牙がないもんね」
自らの立場を弁えようとするとき、カナエはよくこの言葉を使う。周囲と異なる存在だと自覚しているのだ。名乗らない父と家庭に抑圧された子供。カリヴァルドは軽蔑した叔父と殆ど同じやり方でカナエに接している。
二者が庭先で馬を撫でて引き続き語らうのを、エリシャが屋内から眺めていた。
エリシャが少女から母となるまで、カリヴァルドの容姿は衰えがなく美しいまま。カナエが寿命を迎える頃でも彼の姿は変わるまい。
村で暮らすまでは、エリシャもリーベンを通して華やかな場を眺め、豊かな暮らしを送ったのだ。見目麗しく三桁を生きる吸血種のなかにあっても同族の気を惹いてやまなかったあの男に、エリシャも簡単によろめいた。
とはいえ、彼との関係を悔いず、喜ばしく感ぜられるのはカナエありきのことである。一児の母となったエリシャはカリヴァルドへの幻想を既に喪っており、彼が誰と交際しようと関心は無い。それよりも、エリシャがパイを味わいながらカリヴァルドがいつ出ていくかとじれったく感じていた理由は他にある。彼女は居間から寝室へと移り、両開きの箪笥を開く。収納された衣類の布地が奇妙に膨らんでおり、体を丸めた女が潜んでいた。
「……、ぁ」
エリシャの背後より差す光を認めて、女が震える。遠目に馬を見つけたエリシャがカリヴァルドの目を誤魔化すべく、隠れるようにと咄嗟に箪笥へと押し込んだのだ。
怯えて小動物のように縮こまる女の片腕を取って上体を起こす。小さな顎、前髪は頬に触れる長さ、長い黒髪が肩から背に流れた。伏せた濃い睫毛が邪魔で、エリシャは女の顎を掴んで双眸を凝視する。
「灰色の瞳……貴方、ヴィーケ・クディッチ?」
カリヴァルドが珍しく身内の話を漏らした時、彼の母は灰色の双眸で、光を透かすと奥に淡い紫色が現れると話していた。稀有な色合いはエリシャと見つめ合う女の瞳に、確かに現れている。
経緯は不明だが、数日続いた吹雪のなかを襤褸だけ纏って彷徨っていたのだとしたら、尋常ではない。
女の乾燥にひび割れた唇が、ぎこちなくもカリヴァルド、と名をなぞり、エリシャは女の素性を確信して息を飲む。ヴィーケ・クディッチは生きていたのか、との言葉を呑み込んだのだ。
オルドブルレイア家への訪問の後、カリヴァルドは約束通りカナエに手紙を認めた。カナエが喜ぶようにと香り付けされた紙を封じ、執事に預けて彼はペンを休めた。
書斎机に向かっていた男の左手には新調された木製の指輪が嵌まっている。指輪に触れると妹の言葉が脳裏に過ぎる――貴方方は愛に弱り、判断を誤る。
一理ある、と彼は考える。
カリヴァルドがエリシャと関係したのは、リーベンとの微妙な力関係において、より優位となる為だ。
リーベンはヒト種と同じだけの寿命しか持ち得ない養女を愛していたのか、娘がカリヴァルドへ向ける思慕が本物とわかると、エリシャが屋敷を出ることを許し、庶子を産むことさえ咎めなかった。全く外部の男と添い遂げるよりは、オルドブルレイアを観察しやすいという意味合いもあっただろう。
リーベンとエリシャはカリヴァルドにとっての家族といえないが、カナエは違う。父親の義務を完全に放棄することが出来ず、中途半端な立ち位置で幼い少女を騙し続けている。アーベルが実父でありながら叔父としてカリヴァルドに接していた形と重なり、親子二世代に渡って皮肉なほどに似通う。
内情はさておき、カリヴァルドがカナエを認知しないのは、ノウェルズを延命する日が来るかもしれないと予見していたことに尽きる。地位と権力があるからこそ、不祥事となり得る妹との姦通の余波に、カナエを巻き込むわけにはいかない。父親としての自分と兄としての自分を両天秤にかけ、カリヴァルドは後者を選んだのだ。逡巡し、熟考を重ね、とうに覚悟を決めたこと。よって、カナエに父と名乗る日は永遠に来ず、求めもしない。
高く細い、笛に似た声が彼の耳朶を打つ。鷲だ。曇天を背に、一羽の鷲が旋回していた。カリヴァルドは猛禽用の手袋を嵌めて、家僕に窓を開け放つよう言いつける。
着地点を見つけた鷲は急降下し、両足で彼の腕を捉えた。行儀よく翼を畳む獣を指先で掻いて宥め、カリヴァルドは鷲の脚に結ばれた小筒を開いて紙片を取り出す。
「ドリス。蜂熊という鳥を知っているかな」
侍女のドリスが、いいえと首を振る。侵入する冷気が卓上の書類を煽るのを気にしたのだろう、彼女は窓を閉めた。グライブの白き街並みは、書斎室の幅広な窓を額として、美しき絵画と化す。
「この子の近縁種だよ」
グライブの立法府は議会であり、白蜂から着想を得て政治体制の改革が行われてきた。
蜂の巣は女王蜂の支配下で管理されていると思われがちだが、実態は異なる。
女王蜂は巣板のなかで物理的に保護、隔離されていて意思決定の場に殆ど参加しない。意思決定の権利は個々の働き蜂に分散され、彼等に指導者は無い。一介の幼虫をいつ、どの機会に女王蜂として育てるかすらも働き蜂が決定する。誰ともなく種の全体で、適切な機会を悟るのだ。
蜂と吸血種の脳は造りが全く違うが、集団をより善い方へと導く蜂の神秘的な力に吸血種は学び、白蜂との共存によって今日の姿がある。
グライブが蜂を旗印とするのであれば、隣国ペルニスイユは熊蜂なる鷹の名を冠した君主制国家だ。熊蜂とは蜂を主食とする猛禽で、彼等に攻撃された蜂は反撃の意欲を喪うのだという。
片腕の鷲に、カリヴァルドは囁く。
「ペルニスイユからの使節がグライブを訪問するとの報せだ。まるで、図ったような時期じゃないか」
空の覇者との異名を持つ鷲が羽毛を膨らませ、よく通る声で応じた。カリヴァルドは猛禽の従順さを眼差しで褒め讃えながら、片手に摘んだ紙片を燭台の火に舐めさせる。投げ出されたのは銀盆の上、紙片は瞬く間に灰と変じた。
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