エミルハーフストンのブローチ
西谷水
プロローグ
エレンゲルは、石煉瓦を主とした建築物と三万本のロギヌス桜が調和した美しい自然都市だ。大陸から海を渡り北西部洋上に浮かぶ島の中心部、木々生い茂る山々、その麓一帯に温かな風が流れ込み、街を彩る桜は、四季折々の姿を見せる。街の商店街が賑わう春には、舞い落ちた薄桃色の花弁が石畳を埋め尽くし、都市開発の労働者が陽の下で汗を流す夏には、青々とした葉を風に揺らす。秋雨が降る季節になると木の葉は、静謐な時の中で目も眩むような鮮やかな紅に染まる。黒茶色の枝が雪によって枝垂れる冬は、多くの写真家がその雪化粧を写真に収めようと街を訪れた。
大陸戦争の戦勝国であるロギヌス帝国の首都エレンゲルは、多額の賠償金と大陸鉄道の所有権、大陸の山々に埋蔵された魔法石の採掘権などを敗戦国から徴収し、それらの利益は、戦死者遺族への弔い金や都市開発などの経費として計上している。今や街中には幾つもの映画館やレコードショップが建ち並び、休日の昼下がりの雑踏を見ても、形式にこだわらないニット服やワンピースなどの社会変化が見られた。
ロギヌス桜が季節を巡り戦後三度目の春を迎えた頃、久方ぶりに故郷を訪れたグレット・ヴェルメイルは、街の変わりように困惑している。綿菓子のような雲が一つ浮かぶ青々とした空、桜吹雪とわずかに寒さを残した風が吹く春先、自分だけが外套を纏い戦前の装いであること、そのことが恥ずかしかった。街の景観が変化していることは、帝国陸軍の自らが率いる隊、その新兵から聞いていたものの驚きを禁じ得なかった。
「これならもっと、流行りを調べておくべきだったろうか」
グレットは、商店街を離れ目的地である住宅街の中を歩く。桜並木が風に揺れる音によって彼の呟きは、かき消されてしまった。彼の陸軍における階級は、その年齢、二十五歳にしては異例の少佐だ。戦時中に起きた不幸な事件により隊の指揮官が不在となり、当時補佐官を務めていた中尉の彼が特例として中隊指揮官階級の少佐へ昇任する運びとなった。それは、かつての絵に描いたような軍国少年だったグレットにとって願ってもいなかった幸運だったのだが、その事件によって彼はかけがえのない人を失った。
先日グレットは、軍を退職したのである。故郷へ帰ってきたのも、居場所を失ったからというのが大きい。それからもう一つ、彼にはここでやるべきことがあった。
「エレンゲル一番街、十四番の三号地……ここか」グレットは、メモ帳を見て呟く。それから住宅街の華やかな趣とは些か異なるこぢんまりとした白煉瓦屋敷の前で立ち止まった。彼は、その家の玄関扉をノックする直前、深く被っていた帽子を脇に挟み、外套のポケットにしまっていた可愛らしい木製の小箱を取り出す。この小箱の中身をグレットは知らなかったが、開けるような真似は決してしない。
エミル・ハーフストン少佐、あなたへの恩返しをするのに決意つかず、三年も掛かってしまいました。お許しください。
密かにグレットは、ここにはいない上官への謝罪を祈る。呟くのではなく祈った。それから玄関扉をノックすると、随分と背の曲がった、しかし上品な装いの白髪の老婦人が顔を出した。「あんた、軍人だね?」彼女は、しわがれた声で言うと返事を待たず扉を閉める。戦勝国では珍しい反戦主義者だったのだろうか。グレットは、既に退役軍人なのだがその風貌を見る限りでは、勘違いを招いてもしかたがなかった。だが彼の心配は、杞憂だったらしく再び、勢いよく扉が開くと車椅子に座った女性が出てきた。「エミル!」女性は、弾むような声でその名を呼び、しかしグレットと目が合うと蕾が開いたようなその笑顔を見る見るうちにすぼませていく。グレットは、彼女が美しい女性であることを兼ねてより写真で知っていたが、いざ目の前にするとその可憐さに暫し見惚れてしまった。
蜂蜜色の艶がかった長髪、ほのかに香る甘い匂い、初雪の上に落ちた紅椿を思わせる肌が何と美しいことか。思わず心臓が跳ねてしまった。
「失礼ですが、どちら様でしょうか」
こちらを見つめるアメジストの瞳には、うっとりとした自分の顔が映っていた。グレットは、はっとして吸った息を吐き終える前に言葉を返す。
「戦時中エミル・ハーフストン少佐の補佐官をしていたグレット・ヴェルメイルです。少佐の奥様、ラミイ・ハーフストンさんにご用件がありお伺い致しました」
言ってグレットは、彼女に小箱を手渡す。それは少佐から妻へ宛てた贈り物だった。こんなにも美しい女性へ少佐は、何を贈ろうとしていたのだろうと、そんなことをぼんやり考える。だがラミイは、グレットの前で小箱を開けるつもりはないらしく、膝の上に置いたきり触ろうとしなかった。彼女は、小箱を見てそれからグレットへ視線を戻す。どうやら説明を求めているようだ。
「それは、生前の少佐が奥様へ届けて欲しいと私に頼まれたものです。申し訳ありませんが中身については、存じておりません」
「そうですか、夫の頼みを聞いてくださり彼に代わって感謝いたします。では、これで」
言ってラミイは、何処か寂しげな表情のまま扉に手を掛け、器用に車椅子の車輪を片腕で回しながら家の中へと戻っていく。要件も済み、あとは彼女の姿が見えなくなるのを待つだけでよかったグレットは、しかしその扉に手を伸ばし、引き留めてしまった。自分でもなぜそうしたのか分からない。少佐への恩義がそうさせたのか、彼女との別れを惜しむ自分がいたのか、後者だとすれば未亡人へ下心をもってしまった自分を恥ずべきだと、グレットは思った。
そして彼の胃が、きりりと痛んだ。表情には見えない、心の痛みだった。ここへ来たのは、恩返しのためなのだ。グレットは、小さく首を振り雑念を払う。
「あ、あの、これをどうぞ」
慌てて財布から自らの名刺を取り出し、彼女に手渡す。そこには、電話番号と名前が記されている。父親の町工場を継ぐ予定だったので、名刺を作っておいたのだ。
「私は、少佐に命を救っていただきました。その御恩がこの程度のことで返せるとは、思っておりません。また何かありましたら連絡ください」
グレットは、彼女からの返事を期待したがそれも虚しく扉が閉ざされる。その後に続いた静寂の中で、少佐への恩義を隠れ蓑に自分の私心を優先したのではないかという疑心が彼を苛んだ。それでも切なげなラミイの表情が脳裏にちらついて、心の中を灰色の煙が立ち込めていく。真意は、グレット自身にさえ分からなかった。
その日グレットは、早鐘を打つ心臓を抱えて家族の待つ家へと帰った。
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