ブルーライト・オフライン
ニール
常春と百
ケータイ持ってなくて良かった。
少年、
出来たてほやほやの釘バットをキュッ、キュッ、と光沢ある床に引きずりながら窓に沿って廊下を歩く彼の視線の先では、巨大な肉塊が暴れ回っている。
もはや建物にすら見えるそれにはあちこちに目玉が付いていて、大きくしなり、叫びを上げ、それが生物である事を主張している。
そしてその巨躯が地面へ倒れては他の小さな肉塊……"まだ人間の形を残した生き物"達を潰しているのを、トコハルは暗い顔で見つめる他無かった。
事の始まりは、つい一週間ほど前。
街へ訪れたトコハルは、高層ビル群の中でビルに負けじとそびえ立つサン・クタラ寺院に、巡礼に来ていた。
一通り祈りを終え、あとは寺院を去るだけだった。
入り口周りで、三脚を立て、カメラに向けて流行りの歌を合唱している輩がいたのだ。
いわゆる迷惑系配信者である。
短い合唱の後、今度は一人ずつ名前を叫び始めた彼らに、さすがに注意しようとトコハルが近寄った時。
彼らが突如、人の形を失った。
八人ほどの集団だった。
それぞれの頭が、風船のように膨らんだ。
それから、粘土のようにくっつき合い、まるで一つの生き物のような姿になった。
トコハルも、遠巻きに見ていた他の信者達も、何が起きたのか分からず呆然とその光景を前に固まっていた。
そしてその集団だったものは、生物とは思えない声を上げ、十六本足で駆け出した。
最初に襲われたのはトコハルだった。
八つある顔の一つがトコハルへ牙を剥いた。
とっさに防御しようと動いた片腕に、巨大化した口がかじりついた。
トコハルはうろたえながらもう片方の手に持っていた缶入りのレジ袋を振るい、巨大な目に全力の一撃を与えた。
かじりついた口は悲鳴を上げて離れ、それは八つ頭を振るいながら走り去っていった。
そうしてそれが寺院の門を出ていく一方で周囲の信者達はパニックを起こし、一斉に寺院の中へ殺到した。
その時こそトコハルはとんでもない事になった、と焦ったが、彼らの行動は正しいものだったと、後に知った。
八つ頭が現れたのを皮切りに、街に様々な形の異形が現れ、増えて、溢れるほどになっていったのだ。
今やこのサン・クタラ寺院は要塞と化した。
入り口に机やテーブルを運び出してバリケードを築き、いくつかの窓にパチンコ状の砲台もどきを設置し、他のビルとワイヤー伝いに物資を交換しながら信者と避難者とで生活を切り盛りして出た生活ゴミを極限まで固く丸めた弾を使って時折寄ってくる異形をどうにか撃退できている。
しかし、少し強い異形が寺院に寄り付くようになってから、寺院のあちこちが傷付き、ひび割れ、バリケードにも綻びが出始めた。
異形の侵入を恐れた避難者達はよりセキュリティの強固な隣のビルに移り、寺院にはほとんど人がいなくなっている。
トコハルは、寺院の物資が尽きるまで、出来る限り最後まで残ろうとした信者の一人だった。
しかし。
「本当に、外へ?」
背後の礼拝室からかけられた声にトコハルが振り向くと、ウェーブがかった髪を流行色に染め、高級感のあるワンピースを纏った女性が、数珠を握りしめて震えていた。
トコハルと同じ信者の一人、
「はい。死んでも嫌ですが……行くしかないですし」
「わ、
モモが声を張り上げた。
一瞬の沈黙が訪れる。
「武器とか、ありますか?」
「これなら……」
モモが礼拝室から槍を持ち出してくる。
礼拝の時に祭壇に付いている回る機能がある星型の飾りを回す演出をした後その位置を直す為の長い棒にテープで包丁を取り付けた簡素なものだ。
大丈夫かなぁ、とトコハルは少し言葉を選んでから釘を刺す。
「いいですか、俺は絶対に守れませんよ」
「承知の上ですわ」
二人は連れ立って、長い長い階段を降りていった。
通り過ぎた各階で、残り少ない信者達が必死に祈りを捧げている姿がちらほら見られた。
「個人的に思ってるんですが」
トコハルが沈黙を破る。
「あの……"怪物"……に、なる条件、"ネットを使ってる事"だったりしないかなって」
「なぜ?」
「俺が最初に見た怪物は配信者で、モモさんの場合は大学構内にいたほぼ全員でしたよね? 宗教信者以外の」
「あ……!」
モモは、数人の信徒の同級生と避難してきていた。
彼女の通う大学には、他にも様々な宗教に属す生徒・教授がいて、彼らもモモ達のように異形化する事なく各拠点へ避難している。
「信者にも……怪物、に、なってしまった人はいます。その人達は、みんな、パソコンとかケータイを使ってた……」
この世界に存在する大抵の宗教は、嗜好品を嫌う教義を持つものが多い。
酒やタバコは当然に、紅茶やコーヒー、エナジードリンクに至るまで禁じる宗教もあり、電子機器やネット環境も教義に反する要素が多いからと忌み嫌われやすかった。
「でも
「普段スマホで何してますか?」
「自分の歌を録音して、自分で聞いてるだけ……ですわね」
「音大生の鑑」
「でも、ルァインも日常的に使ってますが……
モモが槍を握りしめ、手の内の数珠を見つめる。
「分かりません。でも念の為、自分から連絡するとか電波を使うのは控えてみた方が良いと思います」
「では、情報収集は……
「ラジオなら持ってきました。それにこういうパニックが起きている時の"井戸端"はガセ情報も多いものです。どこかで端末が手に入ったら俺が情報収集を担当します。その時、もし俺の様子がおかしくなったらすぐに逃げて下さいね、絶対ですよ」
そう懇願するトコハルの言葉にモモが
「ネット以外が……原因である可能性は……?」
「あって欲しいですね。実は酒飲みだけが異形化してました、とか」
ついに二人は一階へ降り立つ。
「ああ……嫌だなぁ……」
「そこそこ強い方がそう弱気だとこちらも怖くなるのですが……」
非常口前で立ちすくむ二人を、緑色の灯りが見下ろすように照らしていた。
「"流星怒涛"……ですよね」
トコハルがバットを握り直し、つぶやく。
「"流星怒涛"ですわ……」
モモが槍の柄に数珠を巻き付け、応える。
彼らの信仰するグラビトン教、通称グラ教は、歴史的規模の流星群が観測された夜に設立された。
グラ教のスローガンである"流星怒涛"は、その夜の風景を言い表したものとされているが、詳しい意味はあまり伝えられておらず、何故か昔から"もうどうにでもなれ"という意味で使われている。
非常口の扉が、重々しく開かれた。
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