どこかから
聖家ヒロ
前編
血の匂いは鉄と似ている。どうしてかは分からない。周りを取り囲む大きな鉄の建物と、小さな人間から流れ出る赤い液体が同じ匂いなのは、一体どうしてなんだろう。
目の前にいる男は、背中に三つの穴を開けて、そこからとぷとぷと血を流しながらぴくりとも動かない。
手に持った、錆びれたマークスマンライフルの先端から細々とした煙が蛇のようにうねりながら上昇している。
暫くして、私の後ろから遺体回収用のロボット達が、ローラーを転がしながらやってきて、二本の丈夫なアームを用いて、男を何処かに持ち去ってしまった。
その際に放り投げられた十三枚の金貨を何とかキャッチできた。これはラッキー。三日はパンに困らない金額だ。
私はマークスマンを背負い、町中に出た。
継ぎ接ぎな上にボロ臭い金属の建物が立ち並び、通りゆく人の服装はみんな布切れのようで、おまけに痩せこけている。
パン屋にやってきた私は、一番安いパンを一切れ買い、そそくさと人目のつかない場所に入り込む。
ゴミ箱の隣に座り、一心不乱に小麦の塊を頬張る。焼き立てなんて夢のまた夢で、硬い硬いパンだったが、稼いだお金で買う食べ物は格別に美味しかった。
通行人たちは、路地裏で一人パンを貪る私を見ては、冷ややかな視線を送っていたが気にしないようにして、ひたすらにパンを貪った。
誰も私を助ける人なんていない。だから、自分の力で生きていくしかない。誰かのためではなく、自分のために生き延びる。
そう思っていたのに。
「お嬢ちゃん。何食べてるの」
必死にパンに喰らいついていた為に気がつくことがなかった女性の存在を、私はようやく察知する。
その人はとても背が高くすらっとしていて、私のように病的なものではない、健康的な細さの身体つき。白いワンピースの上から、真っ黒なコートを羽織り、白銀の髪を腰辺りまで伸ばしている。
「パン」
「それだけでお腹いっぱいになる?」
女の人の紅い瞳が、不思議な輝きを孕みながら私の方をじっと見つめてくる。
私は首を振った。嘘をつくのは嫌いだったから。
「毎日それ?」
「毎日じゃないよ。たまに。あとはゴミ箱漁ってる」
「ふーん」
その女の人は、その場にしゃがみこんで、わざわざ私と目線を合わせてくる。
私は何をされるのかが分からない恐怖と、残りのパンを今すぐにでも食べてしまいたい欲で、おかしくなりそうだった。
「お嬢ちゃん、お名前は?」
「なまえ?」
「分からない感じか」
私は首を縦に振る。
「私の名前はアストラル。名前って言うのはね、ある物を現す言葉のこと――例えば、この食べ物はパン、って名前でしょ。人間にもそういうのがあるの」
「じゃあ私、それ無いや」
「心配しないで、私がちゃんと付けてあげるね」
女の人の真っ白で、小さな手が私の目の前に差し出される。
「ほら、おいで。私と一緒に暮らしましょう」
私は信用できなかった。
今までそう言って、酷い事をしてきた人を、何人もこの目で見てきた。
徐ろに、置いてあったマークスマンライフルを手に取り、女の人の額めがけて標準を構える。
そして、躊躇せず引き金を引いた。
放たれた13ミリの弾丸は、白い額を貫き、紅い雫を散らした――かと思ったが、実際には後ろの壁を穿ち、首を少し捻っていた女の人には傷一つついてはいなかった。
避けられた……?
いや、あり得ない。私が外しただけだ。多分。
「そうよね、怖いよね……ごめんなさい」
アストラルは申し訳無さそうに笑いながら、私の手からマークスマンを手放させた。
「でも、悪いようにはしない。絶対に、あなたを幸せにしてみせるから」
そう言って彼女は、私に向かって白い歯を見せ、子供のような笑みを浮かべる。
やわらかくて、あたたかい。私はそんな彼女の笑顔の虜になってしまった。
女の人はこちらの了承も無しに、私の身体を軽々持ち上げて、いわゆる“抱っこ”というやつをしてきた。
「それじゃあ行こうか。私達の家に」
突然の事に声も出せないでいると、女の人はそうやって、私に優しく語りかけてきた。何だかそれが、妙に心地良くて私はいつの間にか女の人に身を委ねていた。
◇
アストラルに抱っこされてやってきたのは、見たこともない町外れにある、木でできた大きな屋敷だった。
「ほら、今日からここがあなたのお家よ」
朽ちた門の前で降ろされ、私は屋敷を見上げた。
今まで家という家に住んだ事は無かった。寝床なら、路地裏に残されたボロ布を使っていくらでも作ることができたが。
「私と手を繋いで行きましょう。迷子になったら、大変だからね」
アストラルの手をぎゅっ、と握り、私は彼女に導かれるがまま、屋敷の中へと足を踏み入れていった。
屋敷は薄暗く、長い、長い廊下がごろつきどもが屯する地下通路のように入り組んでおり、目が回ってしまいそうだ。
アストラルが両開きの大きな扉を開けば、小綺麗な装飾が施された、今までの私とは縁のない、豪華な部屋に辿り着く。
「緊張するよね。でも大丈夫、すぐ慣れるわ」
「いい子に待っててね」という言葉を残し、私を大きなテーブルの席につかせてから、アストラルは何処かへ行ってしまった。
暫くしてから、彼女は皿に盛り付けられた料理をお盆に乗せ、テーブルに座る私の目の前に置いた。
見たことの無い食べ物だった。白い汁に彩り豊かな野菜が浮かんだ物。ピンク色の薄っぺらい物。そして唯一分かる物、パンが二切れ。
「全部食べていいからね。心配しなくても毒は入ってないわ」
アストラルはにこっ、と笑い、私の隣に座る。
「どうして、私にここまでしてくれるの?」
単純に疑問に思っていた事を、食事の前に吐き出す。
アストラルは暫く、うーん、と唸ってから私の方を見て
「あなたを助けたい、って思ったから」
と続けた。
私は不思議に思いながらも、慣れないスプーンを使って、白い汁を野菜と一緒に口に入れた。味わった事もないような、とろける美味しさに、暫く動けなかった。
私が一心不乱に食べ進める様子を、アストラルが微笑ましく眺めていたのが見えた。人の食べている様子を見て、何が面白いのだろう。
ぺろりと完食して、私は初めての満腹感に戸惑いを隠せなかった。
「やっぱり、パンだけじゃ足りなかったんだ」
アストラルはそう言って食器をどこかに持っていき、また戻ってくる。
「じゃ、お風呂に入ろっか」
頷く暇も与えられず、私は彼女に腕を引かれ、この屋敷の浴室へと連れて行かれる。
ボロ衣のような服を脱がされて、為す術なく、やせ細った傷だらけの身体を彼女に見せることになる。しかし、アストラルは何を言うわけでもなく、自分も服を脱ぎ始める。
浴室に入り、湯船へ貼られたお湯の中へ突っ込まれた。
「女の子同士なんだから、恥ずかしがらなくていいのよ」
「……お水怖い」
「あはは、そっかぁ。可愛いのねぇ」
シャワーで容赦なくお湯を浴びせられ、ボサボサだった髪が一気に塗れ雑巾のように変わり果てる。
石鹸で私の髪を洗い、指の間に挟んですっーと伸ばす。
「綺麗な赤髪じゃない。毎日お風呂に入れば、きっと素敵な女の子になれるわよ」
彼女のその言葉を聞いて、スラム街でたまに見かける、綺麗な女性の姿を思い浮かべた。自分とは遠く離れた存在だと思っていたが、もし、自分もああなれるのなら、少しは違った世界が見れるのだろうかとも考える。
地獄が終わり、タオルで身体を拭かれて、新しい服を着せられる。白いレースの付いたブラウスと、緑色のスカート。とてもじゃないが、すぐに慣れるような物ではない。
またテーブルのある部屋に戻ってきてから私はアストラルに椅子へ座らされた。人形になった気分だ。
「似合ってる! かわいい〜」
一際高い声でそう言ったアストラルは、椅子に座る私の隣に座り、こう語りかけてくる。
「じゃあ、今から私が、あなたのお名前を考えてあげるね」
また、子供らしくにこっ、と笑い、アストラルは両手で私の頬を触った。撫でるように動かしたり、優しく抓ったり、耳にかかるボサボサの紅い髪を掻き分けたり、私の顔を好き勝手弄りまくった。
そして手を離し、深く頷いてから口を開く。
「よし、あなたのお名前は今日から『ワイン』よ」
「ワイン……」
名前で呼ばれた事なんて無かった。そもそも自分の名前など知らない。『ワイン』という単語が何度も頭の中で複勝されて、脳にあっという間に染み付く。
「ワインっていうのは、あなたの髪みたいに紅いお酒の事よ。大人は皆、ワインが大好きなのよ」
「……アストラルも?」
「うん。だからこの名前は、“みんなから愛されますように”って意味を込めているの」
頭に手を置かれ、よしよしと撫でられる。
「ワイン、あなたは幸せになっていいからね」
彼女はそう言って、また、笑った。
優しくて柔らかい、私が惹かれた笑顔で。
「幸せに? どうすればなれるの」
「……それは私には分からない。だから、ワインが自分で考えないといけないのよ」
難しい。そう言おうとして、私は目を伏せた。
「大丈夫。あなたが幸せになるためなら、私が全力で手伝うから。だから、まずは自分が何が好きか、探すところからはじめよう」
アストラルの掌が、私の両手を優しく包み込んでくれる。彼女の温もりを感じる。人ってこんなに温かいんだ、と初めて実感させられた。
「私は……アストラルが好き」
不意に口走った言葉に、アストラルは目をぱちくりさせてから、ぶっ、と吹き出し、やがて大笑いし始める。
「あははは!! そっかそっか、ワインは私の事、好きになっちゃったか。分かりやすい子ね」
温かな掌は、次に頬を包み込んでくる。
「そうそう。そうやって、どんどん“好き”を見つけていって。そしたらきっと、あなたが幸せになれる道が開けていくわ」
こうして、私とアストラルの生活が始まった。
最初は、お腹いっぱい食べれる事、綺麗な服を着れること、ふかふかなベッドで眠れることに慣れなかった。でも次第にアストラルとの生活そのものが“楽しい”と思えるようになった。
優しくて、時に面白い、そんなアストラルが、私は大好きだった。
「ワイン、この字はこうやって書くのよ」
「んー……難しい」
字の書き方も教えてもらった。
タブレットとペンを用いて、見たことはあるけど読めないし意味もわからない字を書いていった。
次第に分かるようになってきて、本も読めるようになった。
「上手ね。ワイン、意外と頭が良かったりして」
「そうかな」
字が分かると、思ったよりも世界が広がった。街の看板に書いてある文字も分かり、そこがどんな店かまでも分かるし、本が読めると感動できる物語に出会える。
「ワインは頑張り屋さんね」
「だって、アストラルがチャンスをくれたんだもん。頑張らないと」
「……だったら、私はもっとあなたを支えてあげないとね」
私は“ワイン”に生まれ変わった。彼女のおかげで。
アストラルが居なかったら、きっと、毎日ゴミ箱を漁って、たまにパンを食べるだけの日々が続いていたかもしれない。
世界は自分の思ったよりも広かった。世界の常識は、お金を稼いで、食べ物を買って生きるだけではなかったのだ。
私はそれに驚いて、感動した。だから、その広い世界に触れてみたいと、願うことができたのだ。
アストラルは、私が望むことならなんだってしてくれる。本を読ませてくれるし、字も教えてくれる。
彼女が、私を変えてくれたと言っても過言ではない。あの日、アストラルに出会わなければ、私は一生変わることは無かった。
「アストラル」
大きなベッドで二人、横になって眠ろうとしていた時に、私はアストラルを呼んだ。
目だけを開き、私の話を聞く体勢になった彼女に、こう言った。
「大好きだよ」
アストラルは静かに笑ってから、私のことを抱き寄せて、そのまま目を閉じた。
彼女のおかげで、今まで知り得なかった人の温もりも感じることができる。
本当に、アストラルには感謝してもしきれない。
この恩は自分が幸せになって返すしかないんだ。
そう誓った、十三歳のある日。
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