第13話 奇跡

 どこか冷ややかな上限の月が暗い空に浮き上がっていた。風は夏と思えないほど冷たい――と言いうよりは冷え冷えと悪寒の走る様な嫌な風だった。


 ――畜生。


 アシッドは毒を心の中で吐いて、『それ』から剣を引き抜いていた。周りを支配するるのは悲鳴と怒号。泣き崩れる人もいるだろうか。


 にぎやかだった昼間の広場だった雰囲気は見る影など一つもない。美しかった天幕の下に並べられた商品は悲しいほど破壊され崩れ落ち、天幕と共に煌々とした炎を上げていた。その下に倒れているのは昼間話した亭主――だろうか。事切れている。崩れ落ちた身体から何かがぼたりと嫌な音を立てて落ちたがそれが何かなど考えないようにしてアシッドは目を逸らし自身の剣を払う様にして一度振った。


 視線を移すのは下に崩れ落ちている異形だ。――人を。人のみを殺しつくす者。そのことしか興味が無いようにも見える。生態については未だ謎のままだ。魔法石から生まれる。そのことぐらいしか知られてはいない。


 異形は黒い靄のような――そう。丁度人の影を立体化させたようなイメージであった。影がそうであるように前後左右。目も耳もない。しかしながら影には在りえることはない、のっぺりとした頭らしい所から縦に割れた大きな口が特徴的だ。ことのほか赤黒いその中には白いのこぎりのような歯が幾層にびっしりと生えていた。


 見慣れているとは言え気持ちがいいものではない。本能的な不安と恐怖がジワリと心の中を浸食していくようでもあった。


 ちなみに言えば異形は個体によって形が違うのだが共通しているものは『黒い影』の塊。ということだろう。


 アシッドの剣に攻撃され、砂のような姿に変換されていくそれを見ながら、流れる様にして鞘へと剣を納めていた。


「――アシッド君」


 視界の外から声をかけられてゆるりと振り向けばそこには賢者が立っている。賢者には一応村周りの警戒――広範囲に適している為――と村人の避難を頼んでいた。ここにいる。そう言うことは大して問題は無いのだろう。


 ほうっと我知らず安堵の域を吐く。


「賢者様。村の皆は?」


「ん。ほとんどが無事だよ。転んだりした軽症だね。でも――」


 残された小さな手。それを賢者は手に取った。青白いそれはもはや人形の部品にも見える。アシッドは軽く眉を寄せていた。


「この子を護ろうとして母親が死んでる。この子も――うん。無理だろうね。ナイが必死に見ているけれど……子供が亡くなるのは大人のそれより寂しいものだよ。どんなに長くこの世に留まろうとも変わりはしない」


 私にも癒しの力があれば良かったのだけれどと、ぽつりと賢者は溜息交じり、寂しそうに呟いた。


 魔術はなんでも出来そうだと思っていたアシッドではあるが、実際魔術には実に多くのことが出来ない。『奇跡』というものは起こせないと賢者は言っていたのだ。医療行為もその一つで浅い傷なら何とか出来るが大きな傷や病気など、どうにもならないのだという。それなら話ほど魔術に頼らない現在の医療行為の方が優れているのだと――。


 ちなみにその医療技術をほぼ独学で覚えたのがナイである。どの程度の腕前か比べる者が無いのでアシッドには分からない。村人が頼りにしているので腕はいいのだろう。


 だけれど。とアシッドは賢者を見る。真っ直ぐに。それは心底尊敬する眼差しにも見える。


「……だけれど、賢者様は僕らを救ってくださいました」


 あの日、あの時。確かにシロトは子供の目から見てもほとんど死にかけていたと言っていい。本当に酷い有様だったのだ。今思い出しても血が退くぐらいには。しかし、それを今の状態に持ち直させたのは賢者だと思っている。


 あれが魔術でないとすれば何だというのだろうか。


 しかしながら今回も――。とはアシッドには言えなかった。少なくとも『できない』と肩を落とす姿は本当のように見えるのだから。


 クスリと賢者は自嘲気味に笑みを落としてから空を見上げた。夜空は何もなかったかのように月と星々が静かに浮いている。


「私の力ではないよ。だからあんな奇跡は私には起こせない」


 起こせないんだよ。


「じゃあ――なんで……」


「――」


「アシッドっ!」


 アシッドの問。それに答えようと賢者は口を開いたが、それはアシッドを切羽詰まるようにして呼ぶ声にかき消されていた。




 それは――神の御業だと誰もが思った。奇跡なのだと。


 暗い上弦の月が浮かぶ夜空に、ふわりと小さく色とりどりの光が舞い上がる。それはとても幻想的で、とても美しいものだった。



 死にかけの少年は命を繋ぐ。その傍らにはぼんやりと月を眺める少女の姿があった。

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