第21話 中傷の沈黙 五

 渕山はまず、展望台にいった。瀬川がどこからこようが丸見えだ。


 いざ展望台からぐるりと一望すると、瀬川はまだ影も形も姿を現していなかった。それよりも、小ぢんまりとした街の様子に思わずひきつけられてしまった。


 思い起こせば、過労死だの社畜だのからどう距離をとろうかと智恵を絞るうちにボディビルと宣伝動画にいきついた。テレビや漫画のようなきっかけがあったのではない。そんなきっかけがないと行動が起こせないなどと考える人間は、永遠に変われない。


 だがそれでいて、渕山は社畜にさえなれない人間に追い詰められようとしていた。矛盾というほかはない。


 がくんと視点が下がり、慌てて展望台の柵に両手で捕まった。さては負傷が体力を奪ったのかと、他人がいないのを幸いシャツの裾をめくった。自慢の腹筋には傷一つついてない。


 安堵したのも束の間、しっかり捕まっているはずの柵がぐにゃっとしなって曲がった。いくらバーチャル空間でもありえない。ちょっとやそっと走ったくらいで具合が悪くなるとも思えない。


 まだ、丘にきてから十数分かそこらしかたってない。なにか特別な原因があるはずだ。


 コーヒーに、利尿作用以外の作用があったとは思えない。それだと瀬川が有利になりすぎる。まさか、展望台の柵に毒が塗ってあるわけではないだろう。ここの水場も使ってない。


 そのとき、そよ風が彼の頬をなでた。ふんわりした肌感覚とは裏腹に、どこか青臭くも甘ったるい臭いがする。草花や食品の香りとはまるで異なる臭いだ。


 半ば本能的に、夢遊病より一歩ましな程度の状態で渕山は風上へと歩いた。


 どういうわけでか、公園に接する斜面の一角は畑になっていた。いわゆる段々畑だ。臭いはここからきている。


 畑の周囲はぐるりと柵で囲われていた。展望台のそれとはまるで異なる、細くて隙間だらけの柵だ……しかし、良く観察すると細い電線が柵全体にまんべんなく絡みついていた。つまり、電気柵だ。


 畑で栽培されているのは、背が高く真緑色の草だった。茎からは紡錘形の細長い葉が四方八方に伸びている。渕山は植物に詳しくないものの、どこか記憶にあった。


「大麻だ!」


 とりもどした知識に思わず叫んだ。となれば、自分の頭がふらふらするのもうなずける。


 畑の中央には小屋があり、屋根につけた煙突からは薄い煙が吐きだされていた。どんな作業をしているかはだいたい想像がつく。


 渕山は正義の味方ではない。常人からすれば筋肉モリモリな癖に気が弱い。おまけにガメツイ。しかし、絶対に譲れない一線はある。


 まだ駆けだしのころ、ボディビルの先輩に冗談のつもりで麻薬やステロイドをやる人間がボディビルダーにいるのかと質問したことがある。先輩は『やるのは勝手だが、やった瞬間ボディビルを捨てたと思えと仲間にはいってる』と答えた。至極もっともだとうなずいた。


 バーチャル空間にせよ、麻薬は麻薬だ。大麻は麻薬じゃない、現に国際的に規制が緩められているという反論もある。しかし、ここは日本で大麻の無許可利用は違法だ。この畑が法に触れているかどうかは、小屋にはいればわかるだろう。警察がないなら自力で白黒つけるしかない。


 まずは電気柵だが、これはどうにかなる。いったんこの公園の公衆トイレにいき、トイレットペーパーをまとめて手にまきつけてから水で塗らす。しかるのちに電気柵までもどり、溶けかけたトイレットペーパーの半分を柵にかけた。たちまち煙と火花が辺りにたちこめ、過負荷に耐えられなくなった配線は焼け落ちた。


 念のために、渕山は煙が収まってから残りのトイレットペーパーを焼け残った配線にかけた。なにも起こらない。とどめに配線を小指の先でつついてから、柵をよじ登って越えた。


 数歩進むと、地面が不自然に陥没してばちんと音がした。焦る時間もなく、右ふくらはぎがぎざぎざの歯をつけた鉄の半円に挟まれた。それが虎バサミという罠なのは知っていたが、いざやられるとただではすまない。


「いてーっ!」


 涙がでそうなほどひどく痛い。かがんで虎バサミを両手で開け、どうにか足を抜いた。歯にそって、ふくらはぎからうっすらと血がでている。骨や筋は無事なようだが、走るのは当面無理だ。


 しかも、一個だけで終わるはずがない。またしても畑からでねばならなかった。足を引きずって柵を越え、さっきの公衆トイレで掃除用具ロッカーを開けた。本来なら鍵がかかっているが、これまでの様子からして試す値打ちはあった。


 目論見どおり、ロッカーはあっさり開いた。デッキブラシを手にした渕山は、負傷した足をかばいながらも再び畑に挑んだ。地面をデッキブラシでこすりながら歩くことで、自分の代わりに虎バサミを引き受けさせていく。都合四個を処理した。しかし、デッキブラシの柄はぼろぼろになっていき最後にはへし折れた。


 右ふくらはぎとデッキブラシの犠牲を引き換えに、小屋までたどりついた。所有者が誰だろうと、小屋にまで仕かけはほどこさないだろう。自分がやられる可能性が高くなってしまうから。


 デッキブラシを放り捨て、彼は小屋のドアを開けた。とたんにより一層濃い臭いが塊のように押し寄せた。鍋やかまどが目についた一方、奥にある机には旧式のパソコンと帳簿があった。

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