第10話
「ああ、失敬。わたくしが怒りを抱いているように感じられましたでしょうか? それは坊ちゃま、あなたの杞憂です。ただ、ご無礼を承知で申し上げれば、可笑しくなったのです」
「可笑しい?」
「左様。坊ちゃまの今までの生活ぶりは、大まかに把握しております」
深々と腰を折り、黒子はゆっくりとお辞儀をした。顔を上げると最初無表情に戻っている。
「ケレン・ウィーバー、あなたは誰かに依存して生きてきた。それを恥と思う必要はございません。しかし人間というものは、その時の年齢や環境が変わることで、徐々に自分を変えていく生き物です。今のあなたには、十分すぎる勇気がある。たった十二歳の男子としては。しかしその分、他者に頼りたがる傾向もまた人一倍です。最も身近な肉親であられたお母様を亡くした今、この瞬間こそ、あなたのお心は弱り切っている」
そこまで聞いて、ケレンの脳内が沸騰した。
どうにもならない熱い感情が、彼の全身を支配する。
「あんたに僕の何が分かる! 母さんは大切な人だった! たった一人の家族だったんだ! あんたなんかに、母さんを貶めさせはしない!」
啖呵を切った、と言うには、やや長すぎる台詞回しだったかもしれない。
だが、ケレンは本気だった。しかし、母親を亡くしたことに対し、黒子は別な解釈をしていた。
「ふむ。あなた様は思ったよりも背伸びをしがちなのですね」
「背伸び? 何のことだ?」
「脳裏をよぎったのではありませんか? 今ここでわたくしを木端微塵にできればどれほどスッキリするものかと」
「ッ!」
ケレンは硬直した。やはりそうか。ケレンを値踏みするように、黒子は腕を組む。
「図星だったようですね。もちろん、わたくしにもあなたと同じ年頃だった時はあります。胸中お察し申し上げますよ。でもね、感情が昂っているだけで鎮静化できるほど、現実は甘くはないのです。まずは冷静でいてもらわなくてはね」
すると、黒子は右腕をすっ、と掲げ、ケレンにその指先を向けた。はっとして、ケレンは身構える。
「なあに、ちょっとスリルを味わっていただくだけですよ。あなたを現実世界に戻します。それでは、よい旅を」
ケレンは悲鳴も上げられなかった。自分が降りてきたはずの真っ暗な空間、その床面が急速に落下し始めたのだ。
「う、うわ、うわああああああ!!」
床面が落ちていっているのではなく、自身が垂直上方向に放り出されている。
その認識に辿り着いた頃には、固めの床面に寝かされていた。
※
「……ん」
ケレンの意識は、あの黒子と話した空間から、安宿の中庭に戻ってきていた。
あたりがやたらと騒がしい。医療行為に関わる連絡事項が飛び交っているのは分かる。だが、言葉全体がぼんやりして、意味を為していない。
ケレンはがんがんと鈍い打音が響きそうな頭を抱え、上半身を起こそうとして――。
「今はまだ寝ていろ」
すぐそばで、聞き慣れた声がした。レベッカだ。振り向きもせずにぴしゃりと言い放つ。
流石のケレンも、今は素直に従った。上半身を再び横たえようとして、ぐらり、と身体が歪む。異次元的な空間と、意識が行き来した影響だろうか。
それより、今の魔導士との会話、魔導士の存在を、レベッカは信じてくれるだろうか? ゴンは? 他の人々は?
少なくとも自分が魔術を使えるということは、ここにいる生存者ではレベッカとゴンの二人だけだ。他の人々は戦闘ばかりに目が行っていた。怪現象を見ていたとしても、その原因が自分だとは気づいていないはず。
だが、飽くまでも『はず』というだけであって、実際どうかは分からない。
そうすると、レベッカが負傷者の手当をせずに、自分のそばにいてくれている理由が分かる。万が一、諸々の怪現象がケレンの魔術だと気づいた誰かが、ケレンを死傷させようとするのを防ぐためだ。
鮮血と医療薬の刺激臭がごちゃ混ぜになって、自分の鼻腔を刺激し続ける。
ケレンは二、三回瞼を開閉させてから、真っ直ぐ上方向に向き直った。その目に飛び込んできたのは、鮮やかな太陽光。
「地上とは大違いだな……」
ふっと息をつく。
自分の周囲には、未だに出血や内臓の損傷で苦しんでいる人々がたくさんいる。地面が赤黒く染まって見えるのが、事態の深刻さを物語っているようだ。
逆に、空はこれ以上ないほど青く透き通っている。こんな日に、あんな食人獣たちに襲われるなんて信じられない。いやそもそも、食人獣たちの存在を素直に信じられない。
自分が産まれた頃には、食人獣によって人類は多くの同胞を喪っていた。その日の食料にも事欠く有り様で、社会インフラや統治システム、果ては文化や文明さえ散り散りになっていた。
にもかかわらず、自分は食人獣が存在するというこの世界構造を疑いつつある。
もしかしたら、魔導士と意思疎通を取ったことが自分の心に影響しているのかもしれない。
彼らもまた自分たちの存在を、食人獣たちを殲滅するということによって定義していた。
心臓に魚の小骨がつっかえたような、一抹の不安を抱きつつ、ケレンは再び目を閉じた。
※
ケレンは自身が驚くほどに、深い眠りに就いていた。
「俺が坊主を運ぶ。レベッカ、周辺警戒、頼むぞ」
ゴンの要請に、レベッカは無言。ただし、散弾銃に次弾を装填することで肯定の意を表した。まさか屋内で発砲する機会はないだろうが。
ケレンはゴンの後ろの腕で背中側に負ぶさっている。取り敢えず、自分の部屋が無事だった宿泊客の面々は部屋に戻ることになったのだ。
今のところ、あのバッタとの戦闘の後に、ケレンが危険に晒されるような事態は起こっていない。だが、勘のいいやつは気づき始めるだろう。
ケレンを寝かせたゴンは、のっそりとレベッカの部屋に向かい、ノックした。
反応はない。物事を肯定する時に無関心を装うのは、レベッカにとってはいつものことだ。
「入るぞ」
再びのっそりと身を屈め、レベッカの部屋に入り込んだ。
レベッカはベッドにあぐらをかいて、散弾銃の分解掃除をしている。
「俺がここへ来た意味、分かるよな?」
ゴンは短い息をついて、ベッドの反対側の椅子に腰かけた。
「レベッカ、あの坊主をどうするつもりだ」
自分の膝を叩きながら、ゴンが尋ねる。
きちんと助けてやるつもりはあるのか、と。
その顔には険しい皺が寄っていた。
「まあね。善処しますよ、っと」
散弾銃を組み立て直したレベッカが、弾丸を込めずにがしゃり、と音を立てて整備状況を確認する。
その軽薄な言葉と態度に、ゴンは思わず怒気を帯びた溜息をついた。
再び目を上げると、レベッカは、今度は薙刀の斬れ味を確かめている。
流石にゴンに対する説明責任を覚えたのだろう。レベッカは薙刀の刃を柄に収め、ベッドに置いた。
「なあゴン、何度も話してるよな? あたしの過去は」
「ん、あ、ああ……」
レベッカの過去。そこに彼女の、ケレンに対する執着がある。
そう仮定すると、ゴンも確かに納得できる話ではあった。
もっとも、その過去話もゴンは何度も聞いている。そして、今またこの場でその話を聞かされるのは正直ご免だった。
「俺は坊主の安全を図ろうと思う。何かあったら遠慮なく来てくれ」
「ああ」
そう答えた時には、レベッカの視線は再び薙刀の刃に向かっていた。
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