第40話 まだ終わっていない事件

「どうやら、僕の勘は当たったようだよ、アンソニー君」

 翌日の午前十一時半を回った頃。ジェイクが慌てて持ってきた号外記事を読んだパーシーは言った。

「切り裂きジャックの事件は、まだ終わってはいなかったようだ」

「今何と?!」

 これにはアンソニーも驚いた。事件の間が開きすぎている。胸騒ぎがしたが、それは己の勘だけの問題で、当の切り裂きジャックは、とっくに国外へと逃亡していると思っていたからだ。

「死体発見が午前十時四十五分という事だから、印刷会社も焦ったのだろうね。たまに誤字がある——詳しい事は、馬車の中で話そう」

 パーシーは揺り椅子から立ち上がる。

「昨日の今日だからね。馬が疲れていないと良いけれど……」

 確かに、昨日屋敷に着いた時、時計は午前を回っていた。

「大丈夫でしょう」

 アンソニーはそう言って、主人にコートを着せた。


「それにしても、やはり眠いね」

 廊下を歩きながら、あくび交じりに、パーシーは苦笑する。

「ブラックモア伯爵領にはもう訪れる事もないだろう。スチュアートの両親が亡くなり次第、女王が領土にするらしい」

「成る程」

 アンソニーは頷いた。

 やがて、玄関へと至る。外へと続く扉を開けば、晩秋の冷たい風が二人の間を通り抜けていった。

 馬車は既に外に待機していた。恐らく、号外を知ったオズワルドが命じたのだろう。

「勘が良いね」

 パーシーは御者に笑いかけた。

「いえいえ」

 褒められなれていないのか、普段寡黙な御者は、主人から顔を背けた。

「では、行くよ。アンソニー君」

 そう言って、パーシーはアンソニーが開けた馬車に乗り込んだ。アンソニーが乗った事を確かめると、ゆっくりと馬車は動き出した。

「まずはだね」

 動き出してすぐ、パーシーは話を持ち掛けた。

「被害者の名前はメアリー・ジェーン・ケリー。珍しく、部屋の中で殺されたらしい」

「はい」

「犯人は、誰にも見つからないと踏んだのだろうね。部屋の中がメアリーの体内のようになっているようだ。それ程迄、死体を破壊したと言う事さ」

 これからその部屋に入るのか……アンソニーはそんな事を思い、気分が落ち込んだ。

「後は詳しく書かれていないね。現場に行けと言う事だろう」

「はぁ」

 久しぶりに、溜息が出る。言ってしまえば、余り死体を見たくはない。

 パーシーが言っている事が事実ならば、今迄よりも酷いと言う事だ。吐き気を催す程だろう。


 馬車は9月の頃と同じように、イーストエンドの入口に止められた。約束事のように、パーシーは何処から持ってきたのか、ビスキュイを御者に与えた。

「これで救われる命もあるのさ」

 余程不審な顔をしていたのだろう。付け足すように、彼は言った。

「さぁ、行こうか。場所は判るよ? ついてき給え」

 ステッキの軽快な地面を鳴らす音と共に、パーシーが歩き出す。その後ろを、アンソニーはついて行った。


 場所は、スピタルフィールズの、ドーセットストリートの外れ、ミラーズコート13番地の一人用の部屋だった。

 既にスコットランドヤードの姿があり、その入口には野次馬が殺到している。

「あ、お久しぶりです! パーシヴァル候!」

 野次馬を抑えているジャスパー巡査が言った。

「やぁ、ジャスパー君」

 パーシーは片手を上げた。

「最近めっきり目立った事件がなかったので、野次馬がわらわらわいてきまして……鑑識官が死体のスケッチや写真撮影等をしていますが、現場に入る事ができると思います。ケースリー巡査部長がいらっしゃるので、詳しい話は聞いて下さい」

「判った。有難う」

 ジャスパー巡査の言葉に、パーシーは頷く。そうして、現場へと向かった。部屋へと向かう道は何処か冷たく、血の匂いが鼻を刺す。

 現場となった部屋は、それが特に強かった。

「酷い状況のようだね……」

 ハンカチで口を覆い、パーシーは呟く。


 部屋に入ると、壁と床に血が流れた跡があった。

「やあ、ケースリー君」

 パーシーは言った。シオドラ・ケースリー巡査部長の、不機嫌そうなその顔と向かい合う事になる。

「久しぶりですな。パーシヴァル候。未だ死体発見からそう経っていませんぞ」

「もう、号外記事が流れているよ。恐らく第一発見者は、ヤードと新聞社両方に事件を流した訳だね。さて、現場を見させてもらうよ」

「……物好きなお貴族様だ。別に構いませんぞ」

 そう言って、ケースリー巡査部長は道を開けた。

 パーシーの革製の靴が鳴り、現場に至る。


 そこには、見るも無残な娼婦の遺体が寝台に寝かされていた。

 今迄の切り裂きジャックのやり方で、喉に負った致命傷は、骨にまで達している。子宮、腎臓、片方の乳房は頭の下に置かれていて、左腕は首と同様に皮一枚で辛うじて繋がっている状態だった。顔も見分けがつかない程切り刻まれ、鼻は削がれて額の皮も剥かれている。その他の臓器は、寝台の足元に置かれていた。腹部と大腿部はサイドテーブルに乗せられ、何よりも、


「心臓が、なくなっているね」


 現場を見回したパーシーは言った。

 彼は寝台から少し離れた場所に置かれている椅子を見た。そこには、服が丁寧に畳まれている。まるで、そこだけこの部屋の惨状からかけ離れているようだ。

「客を取っていたのかな?」

 パーシーはステッキを鳴らす。

「ケースリー君。第一発見者は?」

「あ、あっしです……」

 ケースリー巡査部長に隠れて、一人の男が現れた。

「家賃の29シリングが、珍しく未払いやしたので、部屋を訪ねたら応当がなく、窓が開いていたので、室内を隠すようにかけられていたコートを押し退けた所……あっしは気が動転してしまいいしてね。急いでスコットランドヤードに通報したわです。今でも思い出すと……ウッ」

 彼は吐瀉をする。その下には、既にその痕跡があり、死体を発見した際に行われたものなのだろう。この男に、警察と新聞社に情報を伝えられたのだろうか。アンソニーは若干の疑問を持った。


「成る程……」

 と、パーシーはメアリーの髪に触れた。

「黒髪、だね」

「ええ、そうです」

 頷くように、ケースリー巡査部長は言った。

「本当に、“彼女”がメアリーか、確信はあるのかい?」

「ここは彼女の住んでいる部屋でしてね。恐らく、彼女かと」

「そんな証拠だけでヤードは被害者を特定するのかい? たかが銃を奪われただけで、こんなにも適当な判断を下すようになるなんて」

「それでは、あなたは彼女がメアリーではないと言う理由があるのですか? パーシヴァル候」

 ケースリー巡査部長は軽く気色ばんだ。

「少し、僕の見たレディよりも、小さく感じるのだ」

「“僕の見たレディ”?」

 パーシーの意見に、ケースリー巡査部長は訝しげに頷いた。

「そう仰られるのならば、メアリーはあなたが疑っておられた黒髪の娘で、この遺体は別の者だと?」

「そうだよ。僕は彼女が犯人だと思っている。殺されてはいない。そこに飾ってある写真に見覚えがある。しかし、やっと棲家を見つけたと思ったら、それがこう言った形になるとはね」

 と、パーシーがテーブルの上に、絵葉書等と共に無造作に置かれた写真立ての中の写真を見た。男女の証明写真のようだ。確かに、写っている娘の方は、パーシーが犯人だと言っていた者だった。

「何故、そのような事が断言出来るのですかな?」

「甘い問いかけだね。ケースリー君」

 パーシーは言葉を継いだ。

「死体は今までにない程に切り裂かれている。身長など、判らないだろう? まぁ、しかし、これは僕の憶測でしかない。君達の言う通り、レディ——メアリーの可能性も十分にある」

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