アドプティヴ・ペアレント

one minute life

第1話 an adoptive parent

 私が九歳になる息子と夫の所にやって来たのは七年前だった。


 それからの夫は私の育児に――子供の要望を、たとえそれが分別のない思いつきの戯言であっても、一つ残らず叶える育児について行くのに精一杯だった。


 毎月、給与手取り額の倍以上、いや、三倍を超えることもある出費に耐えるために一年後に夫は職を変えた。

 二十年の間に築かれた地位を投げ打って飛び出すには多少なりとも勇気が要っただろう。


 幸い、狙いを定めた唯一の先に決まった。

 

 何度かに亘った採用面接に臨むたび、本店ビルを前に携帯電話を開き、一枚の画像をしばし見つめたあと、電源を切った。

 ――カウンターキッチンの中にピンクの前掛け姿で微笑む私と右手にセラミック包丁を得意げに掲げる息子がいた。


 小学校の家庭科の宿題で休日にアジの大葉フライを作った時の画像だった。


 転職して年収を下げることは許されない。

勿論提示された額は当時の年収を上回るものだった。

 が、大手企業の本社法務部で昇進の決まっていた夫を前のめりにさせる程ではなかったろう。


 もっとも、管理職の場合、会社業績に連動する賞与の年収に占める割合が小さくなる一方、月給のそれが格段に大きくなるのはプラス材料だった。


 しかしこの時の夫を突き動かしたのは、そんなことではない。

 何より、退職一時金をその手で掴み取れること、それだけだった。


 そして夫の計算に狂いなく、それも息子が中学二年生の時に底をついた。


 けれども、そうすることが幼い子供の生活を変えてしまったことへの償い、あるいは二人目の――いや、二番目の父親としての義務であり、責任であると信じ続けたのだ。


「受からなかったら田舎に連れて帰るから」

 ――真顔で言う私に当惑しながらも、息子の私立中学受験に付き合った。


 六年生の夏、息子は風邪を拗らせ、入院治療が必要となるまでに悪化した。


 掛かりつけの共済病院から国立の小児科センターを紹介された。


 「プリントはもらって。治ったら行くから」と言う息子のために進学塾の夏期講習はキャンセルしなかった。

 が、結局は退院後も全て欠席した。


 平日、休日を問わず、夫は毎晩病室に付き添って翌朝早くに帰宅した。ホテル並みの個室だったのが幸いしてか、少しも苦に感じなかったと。


「あのまま死んじゃうかと思った」

 ――回復の兆しが見えてこない中、血圧と脈拍が急上昇し、吸入器をあてがわれた息子を私は振り返った。


 その夜、仕事で帰宅の遅くなった夫は、疲労で熟睡する私を余所に、息子が普段家で寝る時は肌身離さずにいた縫いぐるみをラップにくるんでバッグにしたためた。


 病床で目を覚ました息子がそれを見つけた時に見せた無垢な赤子の笑顔。


 中身の分からないプレゼントのリボンを解くかのようにラップをはがしていた時のきらきらした瞳。


 触れるか触れないかの加減で頭をなでた頼りなげなやさしい指先。


 ――忘れることはできないだろう。


 この日を境に病状は落ち着き、嘘のように元気を取り戻した。


 昼間は一人で部屋のシャワーを浴びて、レンタルのDVDを観ていた。


 その頃から最低限の学習メニューとして、夏期講習のプリントのうち算数だけを、それも基礎的な問題ばかりを選んでストレスなく演習させていた。


 退院後一週間が過ぎると、私の強い希望もあり、避暑を兼ねて三人で――年明け二月に受験を控えたこの夏には予定していなかったが、北海道に旅行した。


 それでも秋から冬に移る頃には息子も却って学習に身が入り、毎朝毎晩、それまで以上に丁寧に勉強を看ていた。


 結果、夏休み前の学力を上回る程になり、本人の希望する、大学までエスカレータ式の私立中学に合格した。


 けれども十五歳の息子は、「俺には合わない」と高等部への進学を辞退した。

 ――田舎へ戻って旧姓に復すことを望む息子のための、三年間の離婚だった。


 勿論、息子一人を別戸籍にすれば離婚するには及ばなかったが、私はその方法を採らなかった。


 三年後に再び夫となることはあっても、父親に戻る可能性はないと察するまでに時間がかかったのだろう。


 もはや消費され尽くした、残滓で辛うじて位置を保っているだけの抜け殻だったに違いない。


 (了)

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