大雨のち雷
――天明六(1786)年七月十六日 中之条藩上屋敷
「今日で五日目か……」
この日も江戸は長雨が続いていた。
雨が降り始めたのは十二日のこと。六月頃より久しくまとまった雨が降らなかったこともあり、最初はこれで畑も潤うなんて考えていたが、何事にも限度というものがあるわけで、五日も雨が降り注ぎ、その間にお日様の姿は一度も拝んでいないとなれば、逆に
三年前に浅間山が噴火した後、俺は川の氾濫を防ぐために川底に溜まった火山灰の除去を実施するよう進言した。家基様はそれを受け入れてくださったことで作業が進められ、そのおかげで夏に発生した大水による被害は軽微なもので済んだが、それで対策が全てだとは言えないので、泥の除去を継続しつつ、堤の改修工事も進められることとなった。
ところが、今年の初春に中之条へ赴いたときのこと。荒川や利根川の堤のあちこちで改修が追いついていないのではと平賀源内殿から聞かされ、江戸への帰路で要所と思しき何カ所かを見て回ったところ、たしかに思ったほど改修が進んでいない場所が散見された。決して何も手を付けていないというわけではなかったが、あれから三年という月日を考えると、遅いというのが第一印象である。
改修工事の監督は現地の代官などが担うわけだが、その所管は勘定所だ。もっとも勘定所の仕事は多岐に渡るから事務所掌は担当が別々だし、何より俺は拝借金拠出先の選定とその後の金の動きを監査するのが主務だったから、直接の仕事ではないものの、参与という職にある以上、俺にも関わりが無いとは言えない。
だからこそ上様が屋敷へ御成りとなった折、そのことを言上し、関東一円、特に江戸などに大きな影響を及ぼす利根川や荒川、玉川などの河川の状況を再度改めるようにと触れを出したわけだが……
「この雨では早晩どこかしらで決壊するだろうな」
未来ですら堤防の決壊なんてことはあったし、急ごしらえの対応で防げるとは思わないが、何もしないよりはマシだと思うしかないか……
「殿、奥方様無事に下屋敷に御到着あそばされた由にございます」
雨の降り止まぬ空を恨めしい思いで見上げていると、種が下屋敷に到着したことを家臣が伝えにきた。
備えあれば……ってことで、
何でわざわざ避難させたかと言えば、彼女はすでに臨月に入っているからだ。既にお腹も大きくなっており、移動した上に住環境を変えるのはリスクもあったが、水浸し状態の屋敷で産気づいてお産を迎えるリスクと天秤にかけての判断だ。
「ご苦労。くれぐれも奥に心労をかけぬようにと下屋敷の者に伝えよ」
「御意にございます」
さて、この雨は何時になったら止んでくれるか……
――七月十七日 江戸城
「船を出し、水に沈んだ町の者を救い出せ!」
「して、その後は」
「遅かれ早かれいずれ雨は止み、水は引く。それまでは高台へ避難させよ」
「物資が足りませぬ!」
「治部!」
「勘定方を総動員して手配しておりまする! 何処へ如何程の者が避難したか、大体で構わぬゆえ調べて報告せよ」
この日もまた雨は止むことなく降り続けていた。
懸念していたとおり、江戸の町でも川の水かさはどんどん増し、危険だということで、昨日のうちに両国橋をはじめとする大川にかかる橋が通行止めとなった。
そして今日に入り、利根川や荒川に玉川、そしてそれらに合流する川のあちこちで氾濫が発生したとの報が入ったわけだが、それと同時に江戸の市中でも多くの町が水浸しとなり、特に深川や千住などの低い土地では、場所によっては腰の高さを越えるほどの浸水被害を受けるに至り、俺は城へ呼び出され、勘定所の人間として救済対応の真っ最中である。
「大きな被害とならねばよいが……」
「大水となれば、どうしても亡くなる者は出る。さらに言えば、お主のことだから今年や来年の作物の実りも案じておろうが、それはまた落ち着いてから考えれば良い。取り急ぎは難に遭った者を救うことじゃ」
「山城守殿、左様にございますな」
「まあ……その前に喧しいのが来てやいのやいのと言われそうだがな」
意知殿が言う喧しいのとは、今回の大水により甚大な被害が出たことの責を問うてくる者たちのことだ。いつの時代でもそうだが、何か災害が発生すると、必ず担当者を責め立てる声が出てくるものである。
天災なのだから不測の事態は十分に起こりうる。例えば何らかの理由で救援の手が行き届かないこともあるだろう。しかしながら責任を取る立場にない者の中には、それを殊更に不手際だと責め立てたり、重箱の隅をつつくように計画の不備やら何やらを
本当に足りない点があるとすれば、それは改善しなくてはならない。そのための助言とか報告ならば有難く受け入れるが、それでも世の中には優先順位というものがあるわけで、とかく人の批判が己に課された役目と変な勘違いをする者たちは、往々にしてこの概念が薄いというか無いと感じる。
当事者が被災して苦労している最中、これを救うべく血眼になって働く者の側で、やれあれが悪いだの、それここが足りないだの、責任はどう取る気なんだなどと、「それ、今言いますか?」という無責任なことを喚いてくる。これは何時の世でも変わらないらしい。その時点においては、不毛な議論としか言えないのだが、彼らはそれを正しい行いと信じてやまないから質が悪い。
「すまぬな。奥方が大変なときに」
「こればかりは致し方ございませぬ」
どういうことかと言うと、城から遣いが来たのとほぼ時を同じくして、種が産気づいたとの知らせが舞い込み、予定ならば俺が下屋敷へと向かう予定だったからだ。
産科は専門ではないと言いつつ、以前田安家に鉛の白粉を使わないようにと働きかけて以来、医者が出産の場でどういう立ち回りが出来るかを研究してきた。自分の妻の出産をその臨床試験に使うのかと言われると、それはその通りなのだが、万が一のために控えておくつもりであった。
しかし、この状況でワガママを言うわけにはいかないので、俺の代役は藤枝家の女中で一番弟子の綾と、三旗堂から工藤……ではなく、今は大槻姓となった綾子殿に頼んだ。もちろん二人にはお産に関する知識を授けてある。
「たまたま私が医者であったというだけで、そもそもお産の折、男は何も出来ませぬ。気になさることはない」
「山城守! 治部少輔!」
「……山城守殿の仰せのように、今はこの危難を如何に乗り越えるかにござる」
「……たしかに危難のようだな」
ひとまず指示出しを終えて意知殿と一息ついていたところに、俺たちを呼ぶ声がした。声色から、楽しい談話にはならなさそうだ。
「お歴々、どうなされた」
「どうも何も……此度の失態、如何様に責任を取るおつもりか!」
面倒くさいので一人一人の名前は割愛するが、集まったのはほとんどが川沿いに領地を持つ旗本や譜代の大名たち。合わせて二桁は超えるであろうその集団から出てくるのは、俺たちを非難する声ばかり。
「失態と申されるのが此度の大水のことだと仰せならば、今この通り対応に当たっておりまする」
「さにあらず。堤を修繕せよと指示を出しておきながらこの体たらく、貴殿らの不手際であろう」
出たよ理不尽。土木技術が進化した未来ですら、台風や長雨で堤防が決壊したなんてことは幾度もある。それよりも未熟な技術しか持たぬこの時代基準で完璧と思える工事を成したとて、これだけの長雨に祟られては、どこかで破綻するのは避けられない。それを理解しているのかは分からないが、彼らは俺たちにその責を問うている。今まさに災害救援の手配りをしているこのときにだ。
忙しくて余裕が無いせいもあるが、イラッとするどころではない……
「お主たちは何故、今それを問うのか?」
「こ、これは御老中」
俺がイライラ任せに彼らへ反論を試みようとしたところへ田沼公が姿を現し、俺たちを非難する者たちに向かい問うた言葉は、俺が言いたかったことを一言で表していた。
「見ての通り、治部も山城も危難に遭った者を救うべく動いておる。その手を止めてまで、今それを問うのがお主たちの役目なのか?」
「御老中はご子息を庇うおつもりか」
「庇うも何も、勘定方の支配は若年寄ではなく老中の役目。治部も勘定方の参与なれど、直接工事を与る身に非ず」
田沼公が強いて責を問うなら、俺たちではなく老中である自分であろうと言うと、彼らは瞬く間に言葉を失くす。それを見るだけで、領地が被害を受けたことに対する文句を言いたいだけだったのだと分かる。
「お主たちも良う考えてみよ。大水が起こるたびに責を問うておっては、毎年のように罷免せねばならぬ者が出てくるではないか。次はお主たちの誰かがその責を問われることになるやもしれんのだぞ。それでもまだ言うか」
「それは、まあ……仰せのとおりでごさいますが……」
「なればこれ以上の問答は無用!」
まだ納得していないのか、尚も何かを言い募ろうとしているのを見て、それまで穏やかに諭すような口調であった田沼公の口から、今までに聞いたこともない怒号が響くと、周囲の空気が一気にピリついた。
……と思ったら、その空気を感じ取ったのか、田沼公が再び元の穏やかな表情で再び諭すように話しだした。
「貴殿たちも領地が被害を受けて気が気でないのもあろうが、過去に類を見ぬ長雨にあってこの程度で済んでおるは、治部が事前に堤を改めよと上様に進言したおかげである。それは分かっておろう」
「ははっ。仰せの通りにて」
「貴殿らも領地や屋敷などが被害を受けておろう。こんなところで油を売らず、成すべきことを早う成せ」
そこまで言われては引かざるを得ず、一部の者は不承不承という感じであったが彼らはその場を去っていき、それを見届けた田沼公が今度は俺に対して先程の険しい表情を向けてきた。
「治部、山城、お主らも要職に就いたのだから、少しはあしらい方を学ばんか」
……え? 俺、怒られてます?
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