べんごろうからレターがカムヒアだぜ

〈前書き〉


本話冒頭が第一章の最後につながります。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



「なるほど、中々難儀しているようだな」

「それでも何も知らぬところから始めたにしては進みましたよ」


 タブラエ・アナトミカの翻訳を始めてから半年ほど経った。写本から単語の抜き出しと下準備に時間を費やしたものの、ようやくその成果が出始めてきている。


 最初は一語解読しただけでも天下を取ったかのような喜びようであったものが、時が進むにつれ、一行、数行、調子のいいときはもっと多くの文章を解読できるようになってきた。


 この急激な進歩には理由があって、参考にした他の蘭書の中に、オランダの百科辞典みたいなものがあったんだよね。


 辞典だから当然難しい事柄を平易な言葉に置き換えて説明しているので、文中にいくつも知っている単語が出てきて、そこから類推することが出来たんだ。面白いもので一つ分かると、次々と意味の分かる部分が増えていった。


 まあ……読める単語のほとんどは、前野さんが長崎で学んできた知識によるもののおかげなんだけど、俺も英語と似たスペルの単語を見つけては、推測で読み当てたりしているから、一応貢献はしてるよ。


 ともかく、最初の絶望を思えばかなりの進歩だと思う。


 ちなみにタブラエとは英語でいうテーブル、図表のことであり、アナトミカは解剖学のことらしいので、この本は「解剖図表」ということになる。うーん、安直。


「では全て和訳出来る日も近そうだな」

「それが……そう簡単には……」




 訳せるようにはなってきたが、全ての単語とまではいかない。言ってみれば今は全文が、「藪からスティック」みたいなルー語状態。オールのワードがジャパニーズになったわけじゃないんだ。


 ピーチ太郎のオープニングで言うなら……『ある日、grandpaは山へtree cutに、grandmaは川へwashingに行きました』みたいなフィーリングよ。メニーメニーのワードのミーニングがアイキャントアンダースタンわかりませんですよ。


 今頃ユーのブレインはルー◯柴のヴォイスがエコーしているはずだ。だけど苦情はノーセンキューだぜ。




 だけど、これくらいならかわいいものさ。え、急に変わるなって? ずっとルー語はキツい。


 真面目な話をすると、意味の分からない単語は杉田さんが"くつわ十文字"っていう、丸の中に十字のマーク、薩摩藩島津家の家紋みたいなのを付けるんだけど、文節の中で十文字マークの方が多いのなんてザラにあるんだよね。下手をしたら、「これは、(以下全てオランダ語)」みたいなのもある。


 そこから一つずつ単語を新しく解読していくしかないのよね。例えばさっきのピーチ太郎だと、grandpaとgrandmaは対になることが何となく分かる。俺が提唱した上下左右理論だね。


 この場合paパパmaママの意味が分かれば大きな前進だ。もっともgrandを大きいと訳すと、直訳「大きいパパと大きいママ」になってしまうが、とにかく日本語にするのが先決だ。




「失礼いたします。賢丸様、安十郎様、殿がお呼びです」

「父上が?」


 賢丸様に蘭語和訳の話をしているところへ、宗武公の側仕えが現われて俺たちを呼んでいることを告げた。


「何でございましょうか」

「分からんが、呼ばれた以上は行くしかあるまい」


 そうして部屋へと向かうと、中では既に治察様と御家老も待っていた。


 アレ……なんか深刻そうね。


「来たか。まあそこへ座れ」

「父上、何用で」

「正確には安十郎を呼びたかったのだが、お主を差し置いて一人呼ぶわけにもいかんからの。ちょうどいいから一緒に話を聞くがいい」


 宗武公が目配せすると、御家老がおもむろに用件を話し出した。


「本日、城にて聞き及んだのですが……」




 その話は今年の七月、とある外国船が阿波国に漂着したという話であった。


 当地を治める徳島藩蜂須賀家は上陸を許さず、水と食料を提供してこれを追い払ったのだが、それから船は奄美大島に流れ着いたところで長崎のオランダ商館長宛に書簡を送ったらしく、その内容がとんでもないものだと言う。


「カピタンがそれを解読したところ、ルス国と申す国が、近く蝦夷地を占拠するため軍船を送り込む準備をしているとか」

「なんと! ……安十郎、ルス国とは何ぞや?」


 賢丸様……知らんのに驚いたの? って、俺に聞かれても……いつ行ってもあそこのお宅は留守なんですよ〜、だからルス国……なわけないよな。


 蝦夷地に攻め込むってことは、その向こうの大陸からだろうけど、そこは清国……あ、もう一つあるな。さらにその北にルーシ族の建てた国が。


――Russiaロシアだ……


「……安十郎は"おろしや"のことまで存じておるのか」


 俺の口からロシアという単語を聞いた途端、宗武公の目がパッと見開いた。


 あら……これは余計なことを言ってしまったか……


「父上もご存知で?」

「うむ。あれは三十年以上前の話だが、おろしやの船が我が国に来たそうだ……」


 宗武公の話によると、元文年間に日本各地に異国船が現れたのだとか。そして上陸した船員たちが、民との間で食料や嗜好品と金子を交換、つまり売買したそうで、入手した貨幣を幕府が出島に照会したところ、ロシアの通貨であることが判明した。


 このときが、我が国が初めてロシアという国を認識した瞬間だという。


「それが攻めてくると申すのですか?」

「手紙にはそう書かれておるそうです」


 たしかにロシアという国は、コサックが遠征してきたのを皮切りに、どんどん東へと領土を増やしていたはず。


 それが今で言うところのオホーツク海やカムチャツカ半島まで到達したのがいつ頃かは分からないが、仮に日本近くまで来ていたとして、いきなり攻めてくるかな? ロシアというと、どうにも油断できない相手に思えるところは否定しないが……


 それ以前に俺がロシアを知っていたことについて誰もツッコんでくれない。コイツならそれくらい知ってると思われているのなら、俺という存在に慣れすぎだと思うよ……


「そのような国があったとは……」

「ちなみに、その手紙の主は何者なのですか」

「えーと、たしか"弁五郎"と聞き及びました」


 べんごろう? 日本人?


 絶対に違うな。音で拾うから言葉が変わるのはよくあったことで、だからイングリッシュが英吉利エゲレスになって英国になったし、アメリカンを米利堅メリケンと聞き間違ったから米の国になったわけだ。


「本当にべんごろうという名前でしょうか」

「そう聞いております。たしかに"はん べんごろう"という名だと」


 おいおい……名字まで付いてきたぞ。べんごろう、オマエ何者じゃ。


「しかし……七月の話が今になってとは、もう秋も終わりかけですよ」

「老中たちが他言無用と秘匿していたらしい」

「ということは?」

「何も対応しないということだ」


 おいおい……それはいくらなんでも事なかれ主義過ぎではなかろうか……




◆ ◆ 人物解説 ◆ ◆


はんべんごろう こと

モーリツ・ベニョヴスキー(1746-1786)


 ハンガリー出身(らしい)

 流刑地として送られたカムチャツカ半島で、反乱を起こした末に停泊中の船を奪って、1771年5月に脱出。南を目指したら日本へと辿り着いたとさ。

 ちなみに捕まった理由は、ポーランドでロシア相手に抗戦活動していたからとか、若い頃から詐欺や殺人など悪事を繰り返していたためとか諸説あり。手紙の真意もロシアに警戒しろと本気で忠告したのか、それとも面白がってホラを吹いたのか、それも今となっては誰にも分からない。

 ちなみに手紙を翻訳したオランダ商館の人がその名を「ファン・ベンゴロ」と書いたのが「はんべんごろう」になって江戸に伝わったらしい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る