【他者視点】私のお兄様(種姫)

 私の名は種。田安徳川家の当主、権中納言宗武の七女。実の兄が三人おりますが、年も離れており、あまりお目にかかる機会も無い上、唯一私を気にかけてくださる賢丸兄様はお体が弱く、度々床に臥せることもあって、寂しいこともございました。


 そんな状況を変えたのが徳山安十郎様。私のもう一人の兄と呼んで過言はないでしょう。ええ、もちろん血のつながりはありません。病弱で話し相手のいない賢丸兄様のご学友として招いた旗本のご子息だそうです。


 安十郎様が屋敷にいらしてから、我が家の食卓は大きく様変わりしました。


 徳山家で試され、滋養に効があると証明された玄米を取り入れたほか、肉や鶏の卵など、これまで食べることのなかった物を次々と食すことになったのです。


 聞けば市井でもほとんど食べないのだとか。辰丸兄様はこんなものが食べられるか! とお怒りでしたが、意外と美味でございました。玄米だけは慣れるまで時間がかかりましたけどね。


 その効果は程なくして現れました。病がちであった賢丸兄様が次第に元気になり、父上や治察兄様もすこぶる体調が良さそうです。そして家族が元気になると、屋敷の中も雰囲気がなんだか明るくなったような気がして、嬉しく思ったことを今でも覚えてます。


 そして安十郎様はとても物知りです。なんでも江戸でも指折りの学者様である昆陽先生という方に師事し、色々なことを教わっているとかで、私のたわいのない質問も分かりやすく教えてくださいます。賢丸兄様の学友に選ばれたのは当然なのかもしれません。




 ただ……この屋敷を訪れる目的はそれなのです。時間があれば私と遊んでくださることもありますが、一番は賢丸兄様の学問のお供。私は二の次です。


 もどかしいことです。賢丸兄様と私が入れ替われば良いのにと何度思ったことか。お二人が楽しげにお話しされているのを物陰から見つめるたび、安十郎様の隣に相応しいのは私ですのよと、少し殺意が湧いたくらいです。


 そしてそれはある日、お二人が下総へ向かうと聞き及び、頂点に達しました。


 男二人で何をしに行くと仰るのか。まさか衆道……安十郎様と賢丸兄様が……??


 あり得ませんあり得ません。そんなはずはありません。安十郎様は私がお膝の上に乗ると鼻の下を伸ばすような御方。何をどう間違えようとも、ぜ〜〜〜〜〜〜〜ったいに殿方より女子の方が好きに決まっております。衆道に走るはずが……


 まさか……賢丸兄様が無理やり……


 認めない認めない認めない認めない……安十郎様が私以外の誰かの手で甚振られ、そのお顔に苦悶の色が浮かぶ光景など……


 違う違うそうじゃない……あの賢丸兄様のことです。安十郎様によしよししてもらうつもりなのかも……


 おぞましいおぞましいうらやましいおぞましいおぞましいおぞましいうらやましい……何としても賢丸兄様の魔の手から私がお救いせねば。そう思った私は、その日のうちにお父様に同行をお願いしたのです。


 最初は反対されました。しかし、どうしてもとお願いを続けたところ、ちゃんと兄の言うことを聞くならと仰るので、もちろんです、私が(安十郎)の言いつけを守らないはずがありませんでしょう。と申したところ、どうにか認めてくださいました。




『姫、心配はいりませぬ。この安十郎が付いております』


 三日の行程を経て到着した下総の所領。途中佐倉では堀田家の御当主と対等に渡り合い、村に着けば丹精込めて育てた甘藷を味わいと、お兄様のすごさを改めて感じました。


 え? 佐倉の話は賢丸兄様であり、甘藷を育てたのは村の者だと? いいえ、賢丸兄様に知識をもたらしたのも、甘藷の育て方を指南したのも安十郎様なのですから、実質自らなされたことと同義ではございませんか。付いてきて良かったです。


 しかし、そんな楽しい気分を打ち消すように現われた、空に映る不気味な赤い光。最初は近隣の村で火事があったのかと思いましたが、そうではない様子。なれば凶事の兆しではと怯える私を、安十郎様はそう言って私を抱き寄せ、落ち着くようにと頭を撫でてくださったのです。


 何があっても私を守ると仰ったあの力強さと、頭を撫でる手の暖かさ。そして、異様な光景を目の前にしても臆せず動じず、冷静沈着なあの胆力に私は驚きました。


 大人ですら慌てふためく者も少なくありませんでしたのに、あのように落ち着いていられたのかがどうしても知りたく、その夜、侍女に無理を言って安十郎様を寝所に招きお話を伺いました。




『あの……種が寝付くまで側にいてはもらえませんでしょうか』


 いえ……別に私、そこまで求めたつもりはございませんでしたのよ。ただ、賢丸兄様と一緒に居ては危険かと思いまして。とはいえ起きて話を続けるには夜も遅いので、一緒に眠りながらお話しできればいいかなと思ったまでのことで、他意はございませんのよ。


 安十郎様も遠慮されておりましたが、私の側にいてくださるのですよねと可愛くお願いすると、仕方ないですねと一緒の床に就いてくださったのです。


 そこであの光が、自然の中ではごく希に起こり得る現象であること、安十郎様が勉強なさるのは世の民を一人でも多く救うためと聞きました。とても壮大で難しいお話でしたが、幼い私でもこの方はいずれ大業を成す御方なのではないかと感じられました。


 その方の側にいるために、何を為すべきなのか考えました。同じ目線で物を見ることが出来るよう、私も見識を深めなくてはいけないのだと……




 そこで江戸に戻ってからの私は、以前に増して学びに力を入れるようになりました。


 しかし、習うのは書や歌、お茶や琴などの稽古ばかり。実学など女子が学ぶものではないと言われ、その間にも安十郎様は甘藷の流通をはじめ、牛の乳から食品を作り出したり、今は蘭書の和訳に取りかかるなど、私の想像を遥かに超える速さで活躍の場を広げていくではありませんか。


「お父様、安十郎を当家から手放してはなりませぬ」


 このままその名が世に知れ渡れば、どこぞの家から婿養子にと声がかかってもおかしくありません。私ではない誰かがお兄様の側に侍るなど考えられないと、お父様にそう訴えたのですが、「手放すわけがなかろう。いずれどこかの旗本に養子入りさせ、治察の側近とする」と見当違いなお言葉。


 そうではありません。田安のお家から離さぬには、一番確実でこの上ない方法がありますでしょ。


 身分? そのようなもの、私がお慕いする心の前では無力です。安十郎様に近付く女狐は、私が悉く刈り尽くして差し上げますわ……


 私だけのお兄様ですもの……




<補足>

 チョロイン種姫のお話でございました。オーロラが出現した際、実際は怖くて彼女の方から安十郎に寄っていったし、添い寝も半ば恫喝なのですが、彼女の脳内では安十郎が率先して自分を落ち着かせるために抱きしめ、かつ仕方ないなと言いつつ満更ではなさように添い寝してくれたと思っております。勿論何があっても守る発言も脳内で良いように改ざんされた結果です。


 そして衆道の事実も無いし、膝に乗られて鼻の下も伸ばしてはおりません。

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