亀山(かめやま)等子(ひとしこ)という変わった名前のアシスタントが職場に入ったのは、五月のあたま、しつこく舞っていた花粉がやっと沈静したころだった。長くいたアシが産休になり、そのあいだのつなぎとして急きょ決まったのだが、いばら先生が彼女の引く線を気に入ったことが採用の決め手だった。


 しかし、このいばらより五つ年下で、おかっぱ頭の座敷童ふうな子供っぽい顔をした、スタジオを転転としながらデビューを目指す亀山等子は、憧れの門前先生に初めて会えた喜びひとしおだったにもかかわらず、回転椅子に座って志望動機を淡々と聞く彼女に答えるときも、採用試験の用紙に取りかかっているときも、彼女の長袖シャツの袖口に、ちらちら見える白いものが気になった。

(あれ、もしかして……)

(包帯じゃなかろうか……)


 むろん、聞くわけにもいかず、その場はやることをやって終わった。即決ではなかったが、夕方すぐ電話がきた。

 数日後、等子は新しい、通算十箇所めのスタジオ通いを始めた。





 等子が入った時期は、ちょうど連載作品の新作にペン入れをする段階で、ただ決まったことを黙々とやればよかった。やり方はよそと変わりなくて別段問題はなく、三人いるほかのアシもいい人ばかりで、雰囲気にもすぐなれた。

 特に一番弟子である富沢は優しくて面倒見がよく、言葉数の少ないいばら先生を、がっちりサポートしていて頼もしかった。


 プロの漫画家には変人も多く、先生もそのたぐいではあったが、何も言わないうちから富沢が、(それも上手く穏やかなやり方で)その真意を引き出しすらしたので、スタジオ内でいらぬ誤解やトラブルがおきることはなかった。

 等子は富沢を「カウンセラーみたいだな」と思ったが、漫画家と弟子には、こういう関係はよくある。気難しい先生を、やり手の弟子が助ける。編集者も漫画家の世話役だが、彼らは出版社での仕事があるので、四六時中面倒を見るわけにはいかない。


 ここのいばら先生は、ろくにしゃべらないくらいで、ほかには特におかしいところはなく、むしろたまに菓子を買ってきてくれたり、多忙になると、こちらの心身の気づかいもしてくれて、とてもいい人だった。

 だが仕上げのころになると、それがおきた。




 急に全員の口数が少なくなり、妙な緊張が走った。修羅場でこうなるのは、この仕事ではデフォだが、今はそれはとうにすぎて、あとに残ったわずかな修正と見直しだけなので、ふつうならみんなリラックスしているものだが――いやリラックスはしているのだが、なにか異様に雰囲気が暗い。

 そのうち、いばらがしょっちゅう奥の部屋に引っ込むようになると、そのたびに富沢が、ほかの古株のアシに目配せするのを見た。


 等子はなんだろうとは思ったが、自分の仕事を優先した。だがトイレに立つたびに、いちいち見られる気がして、ますます疑念がわいた。ちゃんと断ってるのに、あんなはっと見なくても。というか、今まであんな反応はなかったのに。


 そうだ、と思い立つ。これは、先生が奥へ引っ込むようになってからだ。まるで自分がこれから、トイレとは別のなにかヤバいことでもやらかしそうで、恐れているような動きだ、あれは。

 だが興味よりゴタゴタがおきるほうが嫌なので、さっさと用を足して出た。


 ところがトイレのドアをしめたとき、奥からなにか聞こえた。それもかなり不気味なものだった。女の「うー、うー、うううー」という、低く苦しげなうめき声。と、急に途切れたと思うと、同じほうから、くぐもった叫びがした。

「ひとし、ちゃん! ひとしちゃん、でしょ?! はやく来て! はやく!」

 ここではそう呼ばれているので、あわててそっちへ行こうとすると、後ろから肩をがっしとつかまれた。ぎょっとして見れば、富沢が恐ろしい顔であごを引いて立っている。いつもの彼女はウェーブ髪で額の出た、鼻の高い上品で落ち着いた雰囲気の美女だが、このときばかりは般若のような顔だった。

「いいの、わたしがやるから」と、ぱっと廊下を駆けて、「戻ってて!」と言い捨てたので、そのとおりにした。

 もちろん、狐につままれたような顔で席についた。

 なんだったんだ、いったい。



 このときはこれで終わったが、日がたつにつれ、先生が奥に引っ込む回数はますます増え、しかもあの奇怪なうめき声が、スタジオにまで聞こえてくるようになった。

 それは気味悪かったが同時に悲しげで、しかしこれは気のせいかもしれないが、同時に何か迫力というか力強さ、みたいなものも等子は感じた。鬼気迫るというのは、こういうものか、と思った。

 また叫びのほかに物音も聞こえた。壁に重いものがぶつかるようなドスンドスンという響き、またものが壊れるような、たたきつけられるようなガタンガタンという騒音が日増しに大きくなり、それでも富沢もほかのアシたちも様子が変わらず、黙々と机に向かっているのである。ただ大声で呼ばれたときにだけ、富沢が飛び出していく。


 この異様な状態は、起きると十数分続き、不意にぴたりと止まる。そしてまた数分もすると、奥からいばら先生が、なにかすっきりした顔で出てくる。たいがいメモ帳みたいのを手に持っているが、等子の目はすぐにその長袖シャツの袖口に行く。

 両手首のところだけが大きく膨らんで樽のようになっていて、白いものがちらとのぞくが、赤い色がちらりと見えたりする。どう見ても包帯を何重にも巻いていて、血がにじんでいるのである。胸元に赤いものが見えることもある。


 面接のときに見た袖口の白は、やはり包帯だった。そして今、先生が奥でしてきたことは、完全に自傷、つまりリストカットで、それを少なくとも等子が面接を受けたころから、そして今まで、何度も何度も繰り返してきたのだろう。そして、弟子たちはそのことを特にとがめるでも止めるでもなく、平時のように淡々と自分の仕事を進め、ただ呼ばれたときにだけ、一番弟子の富沢が行く……というサイクルになっているようだった。


 この奇妙な「儀式」みたいなものは、一日に二回、多くて三回繰り返され、日がたつにつれて行為がエスカレートしていき、それははたから見ると、かなり恐ろしいものだった。スタジオが住宅街を離れた畑の中の一軒家である理由が、ふとわかった。


 いばら先生は部屋に戻り、等子の前を通るとき、アイドルみたいにお茶目に小首をかしげ、仕事中には見られない、とてつもなくさわやかな笑みを浮かべて、聞いてきた。

「どお? 調子は」





「最初に言うと、やめちゃう人がいるのよ」

 富沢は中ジョッキのビールをあおり、等子にツマミをすすめてから、声をひそめて言った。仕事場近くの飲み屋で、帰りに誘ったのである。畳の個室だから外には聞こえないが、それでも大きな声ではいえない話のようだった。あとで念を押されたが、よそにバレたら漫画家生命にかかわるというのである。


「ごめんなさいね、すごく驚いたでしょう」

「は、はい」

 たしかに驚きはした。が、同時に妙な好奇心も起きていた。等子は、少なくともやめたいとは思わなかったし、そう答えた。

 すると富沢は、ほっとなった。


「先生、原稿の仕上げになると、いつもああなんですか?」

 等子が聞くと、彼女は箸をおいて、改まったふうに言った。

「仕上げだから、ってわけじゃないの。一番奥に、入るなって部屋あるでしょ。物置で汚いからって。

 ちがうの。いばら先生、原稿が終わりに近くなると、あそこに引っ込むの。次の話を考えるためにね」

「次のって……」

 等子は、さすがに目が点になった。

「あれ、考えてるんですか?」富沢うなずく。「あんなギャーギャー叫んで、暴れて? ていうか――」

「そう、リスカしてるの」

「……」

「あなたの想像どおり。

 先生、リスカしながらストーリーを考えるのよ」


 やはり、とは思ったが、それでも言葉をうしなった。新作漫画のアイディアを出すためにリストカット? 何十人もの先生についたが、そんなのは見たことも聞いたこともない。


「わかってる。どう見ても突っ込み待ちよね、これ。『ふつうに考えろよ!』って」

 苦笑して続ける一番弟子。

「でも、いばら先生は、体を傷つけないと話が浮かばないのよ。だいたい手首だけど、胸とか、おなかのこともあるわ。カッターでね――あ、痛いのダメなら、よすけど」

「いえ、だいじょうぶです」

「自殺じゃないから、深くはしないわよ。でも先生いわく、『痛い目を見ないと漫画は描けない。代償を払って、初めて作品が作れる。どんなこともタダじゃない』ってね。


 ただ、夢中になって本当にヤバくなったら、わたしが呼ばれて、応急処置するわけ。あの部屋――先生は『地獄部屋』って呼んでるけど――、入ったらまさに地獄だからね。部屋じゅう壁も床も飛び散った血が黒ずんでこびりついて、血のにおいもひどくて。掃除しても無駄だけど、それでも終わったらやらないと、スタジオまでにおうから」



「で、でも、本当にそこまでしないと出てこないんですか? 無理に考えなくても、アイディアなんて、気分転換とかすれば、そのうちに――」

「ほかの人はそうよね」とため息。「でも先生はダメ。あれをしないと頭になにも浮かばない」

「あ、あんなにも可愛くて素敵な、心からほっこりするイチャラブ漫画を描くために、そんなことをなさってたなんて……」

 おかっぱの童顔ながら、ふだんは大人しくて口数が少なく、ときに暗いとさえ言われる等子も、これにはかなりのショックを受けた。いっぺんに酔いがさめ、大好きな先生の漫画のコマの数々が、走馬灯のように頭を駆け抜けた。


「絶対に口外しないこと」

 富沢は帰りぎわまで、さんざん釘をさした。それはそうだ。無数のさみしい萌えオタたちに、なごみと癒しの夢を売っている女性漫画家が、じつは私生活で自傷していると世間にバレたら、炎上確実である。

 等子は秘密を決して誰にも漏らさない、と固く約束した。




 だが、帰りの駅までの、ほとんど人を見かけない深夜のわびしい道のりで、等子の心中はもやもやしていた。

 どうしても納得がいかない。

 これで、本当にいいのか。


「ご家族の話はいっさいしないんだけど、」

 富沢はまた、こうも言った。

「一緒に飲むと、たまに、ぽろっと親のことが出るの。それから判断すると、先生、育ちがかなり悲惨だったらしいわ。いわゆる毒親ね。幼児期から、そうとう虐待されてたみたい。通院するほどではないけど、かなりのメンヘラになっちゃってる。


 メンヘラって感情が不安定な人のことなんだけど、先生はふだんは冷静だけど、漫画のアイディアのことになると、あんなふうに狂ったようになっちゃうの。子供のうちに人格って固まっちゃうから、結局、親のせいなんだよね。


 たとえば『子供のころ、針金じゃない、プラスチックのハンガーがうらやましかった』って言うんだけどさ、そう言われたら、ふつう『ああ、家が貧乏だったのね』とか思うでしょ? ちがうのよ。

 親にハンガーでしょっちゅう叩かれるの、頭とか顔とか腕とかを。それも針金の細いのでね。そうすると、なんかプラスチックのほうが、分厚くて痛さが減る感じでしょ? それで『うらやましい』って。

 そんな話はさんざん聞かされた。

 ――あ、わたしと二人のときだけよ?


 それで実家にいるあいだ――高校生のころだそうだけど――、しょっちゅうリスカするようになったって。先生、ああ見えて自己評価がものすごく低いのよ。


 自傷する人はみんなそうらしいけど、自分の中身が最低で腐ってると思ってて、なのに体がきれいなのが、どうしても耐えられない。それで、傷つけて心身のバランスをとるんだって。先生もそれ。


 ところがね、ある日、そうして自分を傷つけてすっきりしたあとにペンを握ったら、元から上手かった絵がもっとすいすい描けて、今までより何倍も上手くて可愛いのが出来た。で、話もどんどんいいのを思いつくようになって。

 そのことに気づくと、今度はとくに鬱状態でなくても、わざと自分を傷つけてから原稿に向かうようになったの。それでデビューも果たして、作品はスマッシュ・ヒット。今ではリスカしないと漫画が描けない人間になった、と」




 先生のしていることは、彼女には絶対に必要なことなのだろうが、どう考えても正しいとは思えない。あんなことを続けていたら、いつか必ず取り返しのつかないことになる。子供でもわかることだ。

 周りはあきらめて彼女のしたいようにさせているらしいが、等子には、せっかく才能があって、ちょっと変わっているだけで根は心底いい人間が、むざむざ破滅に向かってまっしぐらに突き進んでいるとしか思えなかった。


 足がぴたっと止まる。

 このままじゃ、いやだ。



 振り向いて、思わず来た道を戻りかけたが、すぐ前を向き、歩き出した。

 今度は戦場におもむく兵士のように、さっそうと。

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